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2019年11月22日金曜日

他の性(他の女)


他の性=他の女=斜線を引かれた女というもの LȺ femme
大他者とは、私の言語では、「他の性 l'Autre sexe」以外の何ものでもない。
« L'Autre », dans mon langage ce ne peut donc être que l'Autre sexe.  (ラカン、S20, 16 Janvier 1973)
大他者は存在しない。l'Autre n'existe pas, (Lacan, S24,  08 Mars 1977)
他の性[Autre sexe]は両性にとって女性の性[sexe féminin]である。他の性[Autre sexe]は、男にとっても女にとっても他の女[Autre femme]である。(Jacques-Alain Miller, L'Axiome du Fantasme)
女というものは存在しない。女たちはいる。だが女というものは、人間にとっての夢である。La femme n'existe pas. Il y des femmes, mais La femme, c'est un rêve de l'homme.(Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme 、1975)



原大他者(原母)のなかに体現されている「他の性」は、立ち退かされ、享楽を空洞化され、排除されている。The Other Sex, embodied in the primordial Other (Mother), is evacuated, emptied of jouissance, excluded, (ジジェク 、LESS THAN NOTHING, 2012)
モノは母(原母)である。das Ding, qui est la mère (ラカン、 S7 16 Décembre 1959)
モノ=享楽の空胞 [La Chose=vacuole de la jouissance] (Lacan, S16, 12 Mars 1969)




性関係において、二つの関係が重なり合っている。両性(男と女)のあいだの関係、そして主体とその「他の性」とのあいだの関係である。(ジジェク 、LESS THAN NOTHING、2012)

男女の関係のトーラス円図は次のもの。



セミネール10には別に次の図があり(上)、下のように図示しうる。




私は常に、一義的な仕方façon univoqueで、この対象a を(-φ)[去勢]にて示している。(ラカン、S11, 11 mars 1964)

対象aには大きく去勢(穴)と穴埋めの二つの意味があるが、ここでの対象aを去勢ととれば、冒頭に示した他の性(Autre sexe)とあわせてこう示せる。






ーーより厳密にはAutre sexeは  Ⱥutre sexeとすべきだろう。

大他者の最初の形象は、母である。したがって、「大他者はない there is no big Other」の最初の意味は、「母は去勢されている mother is castrated」である。(ジジェク 、LESS THAN NOTHING, 2012)
人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)

以上、ようするにラカン派における性関係はいま上に示したふたつのトーラス円図が重なっているのである。「性関係はない」の意味のひとつはここにある。




享楽は去勢であるla jouissance est la castration.。人はみなそれを知っている。それはまったく明白ことだ。…問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
去勢は享楽の名である。la castration est le nom de la jouissance 。 (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un 25/05/2011)



もっともこれ自体、ことさら目新しい観点ではないともいえる。

まともな作家だったら、表現の仕方はいくらか異なるとはいえ、とっくの昔から把握していた話である。



この世にいてへんあの女
亭主とか女房なんてえものは、一人でたくさんなもので、これはもう人生の貧乏クヂ、そッとしておくもんですよ。…惚れたハレたなんて、そりや序曲といふもんで、第二楽章から先はもう恋愛などゝいふものは絶対に存在せんです。哲学者だの文士だのヤレ絶対の恋だなんて尤もらしく書きますけれどもね、ありや御当人も全然信用してゐないんで、愛すなんて、そんなことは、この世に実在せんですよ。(坂口安吾『金銭無情』1947年)
私自身が一人の女に満足できる人間ではなかつた。私はむしろ如何なる物にも満足できない人間であつた。私は常にあこがれてゐる人間だ。

私は恋をする人間ではない。私はもはや恋することができないのだ。なぜなら、あらゆる物が「タカの知れたもの」だといふことを知つてしまつたからだつた。

ただ私には仇心があり、タカの知れた何物かと遊ばずにはゐられなくなる。その遊びは、私にとつては、常に陳腐で、退屈だつた。満足もなく、後悔もなかつた。(坂口安吾『私は海をだきしめてゐたい』1947年)
「男どもはな、別にどうにもこうにもたまらんようになって浮気しはるんとちゃうんや。みんな女房をもっとる、そやけど女房では果たしえん夢、せつない願いを胸に秘めて、もっとちがう女、これが女やという女を求めはんのや。実際にはそんな女、この世にいてへん。いてえへんが、いてるような錯覚を与えたるのがわいらの義務ちゅうもんや。この誇りを忘れたらあかん、金ももうけさせてもらうが、えげつない真似もするけんど。目的は男の救済にあるねん、これがエロ事師の道、エロ道とでもいうかなあ。」(野坂昭如『エロ事師たち』1968年)
母。――異体の知れぬその影がまた私を悩ましはじめる。

私はいつも言ひきる用意ができてゐるが、かりそめにも母を愛した覚えが、生れてこのかた一度だつてありはしない。ひとえに憎み通してきたのだ「あの女」を。母は「あの女」でしかなかつた。(⋯⋯

三十歳の私が、風をひいたりして熱のある折、今でもいちばん悲しい悪夢に見るのがあの時の母の気配だ。姿は見えない。だだつぴろい誰もゐない部屋のまんなかに私がゐる。母の恐ろしい気配が襖の向ふ側に煙のやうにむれてゐるのが感じられて、私は石になつたあげく気が狂れさうな恐怖の中にゐる、やりきれない夢なんだ。母は私をひきづり、窖のやうな物置きの中へ押しこんで錠をおろした。あの真つ暗な物置きの中へ私はなんべん入れられたらうな。闇の中で泣きつづけはしたが、出してくれと頼んだ覚えは殆んどない。ただ口惜しくて泣いたのだ。(⋯⋯

 ところが私の好きな女が、近頃になつてふと気がつくと、みんな母に似てるぢやないか! 性格がさうだ。時々物腰まで似てゐたりする。――これを私はなんと解いたらいいのだらう!

 私は復讐なんかしてゐるんぢやない。それに、母に似た恋人達は私をいぢめはしなかつた。私は彼女らに、その時代々々を救はれてゐたのだ。所詮母といふ奴は妖怪だと、ここで私が思ひあまつて溜息を洩らしても、こいつは案外笑ひ話のつもりではないのさ。(坂口安吾「をみな」1935年)


ラカン派的にいえばこうである。

女というものは存在しない。しかし存在しないからこそ、人は女というものを夢見るのです。女というものは表象の水準では見いだせないからこそ、我々は女について幻想をし、女の絵を描き、賛美し、写真を取って複製し、その本質を探ろうとすることをやめないのです。

La femme n'existe pas, mais c'est de ça qu'on rêve. C'est précisément parce qu'elle est introuvable au niveau du signifiant qu'on ne cesse pas d'en fomenter le fantasme, de la peindre, d'en faire l'éloge, de la multiplier par la photographie, qu'on ne cesse pas d'appréhender l'essence d'un être dont, (ジャック=アラン・ミレール「エル・ピロポ El Piropo 」1981年)
「女というものは存在しない La femme n’existe pas」とは、女というものの場処 le lieu de la femme が存在しないことを意味するのではなく、この場処が本源的に空虚のまま lieu demeure essentiellement vide だということを意味する。場処が空虚だといっても、人が何ものかと出会う rencontrer quelque chose ことを妨げはしない。(ジャック=アラン・ミレール、Des semblants dans la relation entre les sexes、1992年)


※付記

愛は女から立ち去る。そのとき、彼女の他者性とともに独りぼっちだ。…、愛を喪ったことで女が喪失したものは、彼女自身、大他者としての彼女自身である。(コレット・ソレール Colette Soler, “A ‘Plus' of Melancholy 1998)
大他者の享楽[la jouissance de l'Autre]の遠近法において…、人がシニフィアン・コミュニケーションから始めれば、…大他者は大他者の主体[Autre sujet]である。その主体があなたに応答する。これはコードの場・シニフィアンの場である。…

しかし人が享楽から始めれば、大他者は他の性[Autre sexe]である。なによりもまず、それは一者の享楽、孤独な享楽であり、根源的に非性的なものである。la jouissance Une, solitaire, est foncièrement asexuée。…(Jacques-Alain Miller,Les six paradigmes de la jouissance,1999)