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2019年12月29日日曜日

フェティッシュ中上級者版

前回、フェティッシュについて不十分な引用をしましたが、あれは初心者版です。蚊居肢子はいくらか心配になりましたので(つまり誤解を生んでしまうのではないかと)、今回は中上級者版を掲げておきます。といっても大半の女性の方は「本能的に」ご存知だとおもいますが。






出現消滅の演出
われわれは、フロイトの「ナイーヴな」人を迷わすフェティッシュ概念を修復すべきである。フロイトは、女性のペニスの欠如を見る直前に主体が見た最後の物としてフェティッシュを捉えている。だがフェティッシュが覆い隠すものは、単に女性のペニスの不在ではない。そうではなく、厳密に「構造主義者」的意味での、まさに「現前/不在 presence/absence 」の構造が示差的(微分的 differential)であるという事実にある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)
服を着ること自体、見せることと隠すことの動きのなかにある。Le vêtement lui-même est dans ce mouvement de montrer et de cacher.(ミレール 『享楽の監獄 LES PRISONS DE LA JOUISSANCE』1994年)
むかし、日本政府がサイパンの土民に着物をきるように命令したことがあった。裸体を禁止したのだ。ところが土民から抗議がでた。暑くて困るというような抗議じゃなくて、着物をきて以来、着物の裾がチラチラするたび劣情をシゲキされて困る、というのだ。

ストリップが同じことで、裸体の魅力というものは、裸体になると、却って失われる性質のものだということを心得る必要がある。(坂口安吾「安吾巷談 ストリップ罵倒」)
身体の中で最もエロティック érotique なのは衣服が口を開けている所ではないだろうか。倒錯(それがテクストの快楽のあり方である)においては、《性感帯 zones érogènes》(ずい分耳ざわりな表現だ)はない。精神分析がいっているように、エロティックなのは間歇intermittenceである。二つの衣服(パンタロンとセーター)、二つの縁(半ば開いた肌着、手袋と袖)の間にちらりと見える肌 la peau qui scintille の間歇。誘惑的なのはこのちらちら見えること自体 scintillement même qui sédui である。更にいいかえれば、出現ー消滅の演出 la mise en scène d'une apparition-disparition である。

それはストリップ・ショーや物語的サスペンスの快楽ではない。この二つは、いずれの場合も、裂け目もなく、縁もない、順序正しく暴露されるだけである。すべての興奮は、セックスを見たいという(高校生の夢)、あるいは、ストーリーの結末を知りたいという(ロマネスクな満足)希望に包含される。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)
見えない場 champ aveugle の現前(力動性)こそ、ポルノ写真からエロティックな写真を区別するところのものである、と私は思う。ポルノ写真は一般にセックスを写し、それを動かない対象 objet immobile (フェティッシュ)に変え、壁龕から外に出てこない神像のようにそれを崇拝する。私にとっては、ポルノ写真の映像にプンクトゥム(私にあざをつけme meurtrit、私の胸をしめつけるme poigneもの)はない。その映像は、せいぜい私を楽しませるだけである(しかもすぐに倦きがくる)。

これに反して、エロティックな写真は、セックスを中心的な対象としない(これがまさにエロティックな写真の条件である)。セックスを示さずにいることも大いにありうる。エロティックな写真は観客をフレームの外へ連れ出す。だからこそ、私はそうした写真を活気づけ、そうした写真が私を活気づける。プンクトゥムは、そのとき、微妙な一種の場外 hors champ subtil となり、イマージュは、それが示しているものの彼方に、欲望を向かわせるかのようになる。(ロラン・バルト『明るい部屋』「見えない場」)






いま荒木経惟の作品を掲げましたが、女性の方が男をひっかけるにはこんなものではなくても、トリュフォーの「あこがれ」で十分なのです。





現代の男女関係の不幸は次の点にあります。

ジェンダー理論は、性差からセクシャリティを取り除いてしまった。(ジョアン・コプチェク Joan Copjec、Sexual Difference、2012年)
驚くべきことは、現代ジェンダー研究において、欲動とセクシャリティにいかにわずかしか注意が払われていないかである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe「ジェンダーの彼岸にある欲動 drive beyond gender 」2005年)


大切なのはセクハラのたぐいの寝言を言っておらずに、次のことを十全に認知することです。

追っかけと誘惑 Pursuit and seduction はセクシャリティの本質である。(カミール・パーリア Camille Paglia、Sex, Art, and American Culture、2011年)


ウブな女性の方に注意を促しておきますが、次のところまで見せては、ガキしかひっかかりません。





ガキではものたりない女性の方はせめて次の程度に押しとどめてください。





女性のかたにとって最も大切なことは、イクラタマッテイテモ次の振る舞いを必ず避けることです。

何が起こるだろう、ごく標準的の男、すなわちすぐさまヤリたい男が、同じような女のヴァージョンーーいつでもどこでもベッドに直行タイプの女――に出逢ったら。この場合、男は即座に興味を失ってしまうだろう。股間に萎れた尻尾を垂らして逃げ出しさえするかも。精神分析治療の場で、私はよくこんな分析主体(患者)を見出す。すなわち性的な役割がシンプルに転倒してしまった症例だ。男たちが、酷使されている、さらには虐待されて物扱いやらヴァイブレーターになってしまっていると愚痴をいうのはごくふつうのことだ。言い換えれば、彼は女たちがいうのと同じような不平を洩らす。男たちは、女の欲望と享楽をひどく怖れるのだ。だから科学的なターム「ニンフォマニア(色情狂)」まで創り出している。これは究極的にはヴァギナデンタータ Vagina dentata の神話の言い換えである。 (ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE、1998)