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2019年12月28日土曜日

わたくしは倒錯者である

後期ラカンの基本は、フロイトに依拠しつつの次の二文だとわたくしは考えている。

フロイトが言ったことに注意深く従えば、全ての人間のセクシャリティは倒錯的である toute sexualité humaine est perverse。フロイトは決して倒錯以外のセクシャリティに思いを馳せることはしなかった。そしてこれがまさに、私が精神分析の肥沃性 fécondité de la psychanalyse と呼ぶものの所以ではないだろうか。

あなたがたは私がしばしばこう言うのを聞いた、精神分析は新しい倒錯を発明する inventer une nouvelle perversion ことさえ未だしていない、と。何と悲しいことか! 結局、倒錯が人間の本質である la perversion c'est l'essence de l'homme 。我々の実践は何と不毛なことか!(ラカン, S23, 11 Mai 1976)
フロイトはすべてはただ夢のみだと考えた。すなわち人はみな(もしこの表現が許されるなら)、ーー人はみな狂っている。すなわち人はみな妄想する。

Freud[…] Il a considéré que rien n’est que rêve, et que tout le monde (si l’on peut dire une pareille expression), tout le monde est fou, c’est-à-dire délirant (Jacques Lacan, « Journal d’Ornicar ? », 1979)


現代ラカン派では倒錯をとるか妄想をとるかで「一般化倒錯」、「一般化妄想」という二つの言い方があるが、倒錯あるいは妄想とはどちらも底にあるトラウマ=穴に対する穴埋め(防衛)である。

我々はみな現実界のなかの穴を穴埋めするために何かを発明する。現実界には 「性関係はない」、 それが穴=トラウマを為す。…tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)
倒錯者は、大他者のなかの穴を穴埋めすることに自ら奉仕する le pervers est celui qui se consacre à boucher ce trou dans l'Autre, (ラカン、S16、26 Mars 1969) 
「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé …この意味はすべての人にとって穴があるということである[ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou. ](Miller、Vie de Lacan, 17/03/2010 )



右端に古典的症状区分「精神病、倒錯、神経症」を付け加えたが、後期ラカンの観点では神経症も一般化妄想あるいは一般化倒錯に含まれ、むしろ神経症とは、重度の妄想あるいは倒錯でありうる(参照)。おそらくこれは標準的には受け入れがたい話だろうが。

たとえば一神教的な神を信じることは神経症的症状であり、重度の妄想者あるいは倒錯者ということになりうる。これは究極のラカンのテーゼ「大他者は存在しない」の必然的な帰結である。


以下、以前に何度も繰り返した基礎文献を掲げておこう(これは読み飛ばしていただいてよろしい)。


大他者は存在しない
大他者は存在しない。それを私はS(Ⱥ)と書く。l'Autre n'existe pas, ce que j'ai écrit comme ça : S(Ⱥ).(ラカン、 S24, 08 Mars 1977)
大他者はない。…この斜線を引かれた大他者のS(Ⱥ)…il n'y a pas d'Autre[…]ce grand S de grand A comme barré [S(Ⱥ)]…

「大他者の大他者はある」という人間にとってのすべての必要性。人はそれを一般的に神と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、神とは単に「女というもの」だということである。La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ». (ラカン、S23、16 Mars 1976)
1959年4月8日、ラカンは「欲望とその解釈」と名付けられたセミネール6 で、《大他者の大他者はない Il n'y a pas d'Autre de l'Autre》と言った。これは、S(Ⱥ) の論理的形式を示している。ラカンは引き続き次のように言っている、 《これは…、精神分析の大いなる秘密である。c'est, si je puis dire, le grand secret de la psychanalyse》と。(……)

この刻限は決定的転回点である。…ラカンは《大他者の大他者はない》と形式化することにより、己自身に反して考えねばならなかった。…一年前の1958年には、ラカンは正反対のことを教えていた。大他者の大他者はあった。……

父の名は《シニフィアンの場としての、大他者のなかのシニフィアンであり、法の場としての大他者のシニフィアンである。le Nom-du-Père est le « signifiant qui dans l'Autre, en tant que lieu du signifiant, est le signifiant de l'Autre en tant que lieu de la loi »(Lacan, É 583)

……ここにある「法の大他者」、それは大他者の大他者である。(「大他者の大他者はない」とまったく逆である)。(ジャック=アラン・ミレール「L'Autre sans Autre (大他者なき大他者)」、2013)
神の死 La mort de Dieuは、父の名の支配として精神分析において設立されたものと同時代的である。そして父の名は、少なくとも最初の近似物として、「大他者は存在する」というシニフィアン[le signifiant que l'Autre existe]である。父の名の治世は、精神分析において、フロイトの治世に相当する。…ラカンはそれを信奉していない。ラカンは父の名を終焉させた。

したがって、斜線を引かれた大他者のシニフィアンS(Ⱥ)がある。そして父の名の複数化pluralisme des Nom-du-Père がある。名高い等置、「父の諸名 les Noms-du-Père」 と「騙されない者は彷徨うles Non-dupes-errent」である(同一の発音)…この表現は「大他者の不在 L'inexistence de l'Autre」に捧げられている。…これは「大他者は見せかけに過ぎないl'Autre n'est qu'un semblant」ということである。(J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique,Séminaire- 20/11/96)
初期のラカンにおいて、すべての強調は、父の名の隠喩に置かれた。その機能は、主体を母の欲望から解放すること等々だった。現代ラカン派に於けるこの理論的モティーフの継続的な流行は、ラカンの決断と鋭く相反する。その決断とは、ラカンはその理論的モティーフを捨て去っただけではなく、反対の考え方に置き換えさえしたのだ。すなわち大他者の大他者は存在しない、と。

父を信じることは、典型的な神経症の症状である。それはボロメオ構造の四番目の輪である。ラカンはそこから離れた。そして三つの輪を一緒にするために機能する新しいシニフィアンを探し求め始めた。この文脈において、重要なのは父とその機能を区別することである。すなわち、母と子の分離にかかわる機能、子どもが母なる大他者の享楽から解放されることを伴う機能である。もしこの分離が、二番目の大他者である父への疎外に終わってしまったなら、それは構造的には、以前の疎外(母との同一化)と何の変わりもない。(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq 2002)
享楽自体、穴Ⱥをを為すもの、取り去らねばならない過剰を構成するものである la jouissance même qui fait trou qui comporte une part excessive qui doit être soustraite。

そして、一神教の神としてのフロイトの父は、このエントロピーの包被・覆いに過ぎない le père freudien comme le Dieu du monothéisme n’est que l’habillage, la couverture de cette entropie。

フロイトによる神の系譜は、ラカンによって、父から「女というもの La femme」 に取って変わられた。la généalogie freudienne de Dieu se trouve déplacée du père à La femme.

神の系図を設立したフロイトは、〈父の名〉において立ち止まった。ラカンは父の隠喩を掘り進み、「母の欲望 désir de la mère」と「補填としての女性の享楽 jouissance supplémentaire de la femme」に至る。(ジャック・アラン=ミレール 、Passion du nouveau、2003)
ある時期まで、ラカンはフロイトのエディプス理論を立証し増幅あるいは拡張した。彼は、父性隠喩の公式とともに構造主義的用語を以て、子どもが母から解放されるメカニズムを描いたのだが、それは父自身の介入ではなく彼が「父の名 le‐Nom‐du‐Père」と呼ぶところのものによってである。

この概念の宗教的含意(コノテーション)は、大文字の使用によって強調されているようにひどく鮮明であり、ほとんど自動的な嫌悪感をもたらしうる。ラカンの反-母性的見解は、その家父長制の密かな神格化と相俟って実にきわめてカトリック教義を連想させる (Tort, 2000)。もし人がこの嫌悪感をなんとかやり過ごすのなら、この公式にフロイト理論との二つの主要な相違を見出すだろう。…… 

…第一にラカンにおいては、父から起こる禁止は子供に向けられるのではなく、母に向けられる。それは母の欲望、さらにはおどろおどろしい母の享楽に向けられるのだ。既に見てきたように、この考え方はフロイトの神話の第二のヴァージョン(『モーセと一神教』)にも内示的に読みとりうる。

第二に、「父の名」にて、ラカンは父の形象と機能を区別している。どんな個別の父も権威のある一定の機能を取りうるのは、ただ彼のポジションが、象徴秩序とその固有の法そして人間の交流を統御する慣習に支えられている為だけである。

ラカンにとって、エディプス期とは自然から文化への移行以外のなにものでもない。これはレヴィ=ストロース(『親族の基本構造』)に合意しつつの考え方である。フロイトと同様に、この論法はある相互保証に依拠する。象徴秩序は、父の名と法(近親相姦禁止と族外婚の強制)を支える。

同時に父の名が象徴秩序とその固有の法の基礎をつくる。父はそのとき具体的形象として、権威を授かる。それは彼が象徴秩序の支えの代理人として振舞うという事実から来る。そしてこれが父の機能である。.(PAUL VERHAEGHE,new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex、2009)



以前はこういったフロイト、ラカンの基礎的考えをくりかえして示したのだが、最近は引用して示すことが少なかったのだろう。このブログについて誤解をされる方がいらっしゃるが、このブログが精神分析にふれるときは、上のような前提で書かれている。

さてここまでは前置きであり実は以下が本題なのだが、前置きがひどく長くなってしまった。

………

幸福に至る門は狭い。狭き門より力を尽くして入れ。(アンドレ・ジイド)


Pierre Klossowski 


クロソウスキーはリルケとジイドを、「二人の伯父さん」(deux oncles)と呼んでいる。1905年生まれのピエールは母の愛人リルケの紹介で1923年、作家ジイドの住み込みの「秘書」となったのである。




ピエール・クロソウスキーPierre Klossowski と、その弟バルテュス Balthus(本名バルタザール・ミシェル・クロソウスキー・ド・ローラ Balthasar Michel Klossowski de Rola) の母バラディーヌ・クロソウスカ Baladine Klossowskaは、前夫と離婚する前からリルケとのつき合いがあったとされる。



むかしはよくあったのだろうが、とくに弟のバルテュスの幼いころの写真は、完全に女の子である。




私は「作家」でも「思想家」でも「哲学者」でもない――どんな表現様式においてであれ――そのうちのどれでもありはしない、かつても、今も、そしてこれからも一人の偏執狂であるというそのことに先立っては。(ピエール・クロソウスキー『ルサンブランス』)


 




みなさん、どうせ短い人生です、クロソウスキーをみならいましょう!

過激さがオキライな方もいらっしゃるでしょうから、その方々にはトリュフォー 程度の倒錯をオススメします。


トリュフォー『恋愛日記』(原題『女たちを愛した男 L'Homme qui aimait les femmes』)




足は、不当にも欠けている女性のペニスに取って代わる。Der Fuß ersetzt den schwer vermißten Penis des Weibes. (フロイト『性欲論』1905)
フェティッシュは女性のファルス(母のファルス)の代理物である。der Fetisch ist der Ersatz für den Phallus des Weibes (der Mutter) フロイト『フェティシズム』1927)
母のペニスの欠如は、ファルスの性質が現われる場所である。sur ce manque du pénis de la mère où se révèle la nature du phallus(ラカン「科学と真理」1965、E877)
(象徴的ファルスとは異なった)他のファルスは、母の想像的ファルスである。un autre phallus c'est le phallus imaginaire de la mère. (ラカン、S4、22 Mai 1957)
欲望の原因としてのフェティッシュ le fétiche cause le désir ⋯⋯フェティッシュとは、欲望が自らを支えるための条件である。 il faut que le fétiche soit là, qu'il est la condition dont se soutient le désir. (Lacan, S10, 16 janvier 1963)
ラカンが不安セミネールで詳述したのは、「欲望の条件 condition du désir」としての対象(フェティッシュ)である。…倒錯としてのフェティシズムの叙述は、倒錯に限られるものではなく、「欲望自体の地位 statut du désir comme tel」を表してる。(ミレールJacques-Alain Miller、INTRODUCTION À LA LECTURE DU SÉMINAIRE DE L'ANGOISSE DE JACQUES LACAN 、2004、摘要訳)
男の愛の「フェティッシュ形式 la forme fétichiste」 /女の愛の「被愛妄想形式 la forme érotomaniaque」(ラカン「女性のセクシャリティについての会議のためのガイドラインPropos directifs pour un Congrès sur la sexualité féminine」E733、1960年)
女性の愛の形式は、フェティシストというよりももっと被愛妄想的です[ la forme féminine de l'amour est plus volontiers érotomaniaque que fétichiste]。女性は愛されたいのです[elles veulent être aimées]。愛と関心、それは彼女たちに示されたり、彼女たちが他のひとに想定するものですが、女性の愛の引き金をひく[déclencher leur amour]ために、それらはしばしば不可欠なものです。(ミレール Jacques-Alain Miller, On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " 2010年)


ジイドから始めたのだから、最後にジイドに関していくらか付け加えておこう。

男性の同性愛において見られる数多くの痕跡 traits がある。何よりもまず、母への深く永遠な関係 un rapport profond et perpétuel à la mère である。(ラカン、S5、29 Janvier 1958)
男性の同性愛者の女への愛 L'amour de l'homosexuel pour les femmes は、昔から知られている。われわれは名高い名、ワイルド、ヴェルレーヌ、アラゴン、ジイドを挙げることができる。彼らの欲望は女へは向かわなかったとしても、彼らの愛は「女というもの Une femme 」に落ちた。すくなくとも時に。

男性の同性愛者は、その人生において少なくとも一人の女をもっている。フロイトが厳密に叙述したように、彼の母である。男性の同性愛者の母への愛は、他の性への欲望 désir pour l'Autre sexe のこよなき防御として機能する。…

私はすべてがそうであると言うつもりはない。同性愛者の多様性は数限りない。それにもかかわらず、…ラカンがセミネール「無意識の形成」にて例として覆いを解いた男性の同性愛者のモデルは、「母への深く永遠な関係」という原理を基盤としている。(Pour vivre heureux vivons mariés par Jean-Pierre Deffieux、2013 ーーLe Journal extime de Jacques-Alain Miller)
ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女の形態の光景の顕現、女のヴェールが落ちて、ブラックホールのみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。[toujours le désolera de son angoisse l'apparition sur la scène d'une forme de femme qui, son voile tombé, ne laisse voir qu'un trou noir 2, ou bien se dérobe en flux de sable à son étreinte ](Lacan, Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir, Écrits 750、1958)

ーー《私は泣きたかった。だが私のこころは砂漠より乾燥していた。 J'aurai voulu pleurer, mais mon cœur était plus aride que le désert 》(ジイド『田園交響楽』)