最初になぜか海軍大臣ウィンストン・チャーチルーーその後に厄介な職につかれたそうだがーーのデモクラシー論から始める。
これまでも多くの政治形態が試みられてきたし、またこれからも過ちと悲哀にみちたこの世界中で試みられていくだろう。民主主義が申し分ないもの、あるいは全き賢明なものと見せかけることは誰にもできない。実際のところ、民主主義は最悪の政治形態と言うことができる。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除いて。
Many forms of Government have been tried, and will be tried in this world of sin and woe. No one pretends that democracy is perfect or all-wise. Indeed, it has been said that democracy is the worst form of government except all those other forms that have been tried from time to time.(ウィンストン・チャーチル下院演説 、Winston S Churchill, 11 November 1947)
ーー実に微妙な発言である。人はこういった文を「真のデモクラシー」のために楽しまなければならない(と蚊居肢子は言った)。
……
「あいつは不良だ」という言い方は、「あいつは悪人だ」とは異なり、おそらく多くの人はどこか褒め言葉のニュアンスをきく筈である。
これは閉じられた集合における「彼は良いか、または彼は良くない」ではなく、無限集合における「彼は良いか、または不良である」にかかわるせいだ。チャーチルの名高い「民主主義は最悪の政治形態」も同様であり、「民主主義は不良である」と読み替えるべきである(と蚊居肢子は言った)。そして「ラディカルデモクラシー」という語に肯定的意味合いをもたせるならここにしかない(と蚊居肢子は言った)。
以下、カントの否定判断と無限判断の相違を示すが、「彼は良くない」と「彼は不良である」とは、カントの否定判断と無限判断の関係にあると捉えうる。重ねてくりかえすが、不良の蚊居肢子の不良な判断である。
ーーヘーゲルは確かカントの無限判断をバカにしていた筈だが、それはこの際、無視させていただく。
否定判断 verneinendes Urteil と無限判断 unendliche Urteile
|
|
一般論理学においては無限判断unendliche Urteile は肯定判断にかぞえられ、分類上なんら特殊な分肢を構成しはしないけれども、超越論的論理学においては、無限判断はやはり肯定判断と区別されねばならない。 […]超越論的論理学は判断を、このような単に否定的な述語を用いているだけの論理的肯定の価値あるいは内容の面からも考察し、この論理的肯定が全体の認識に関していかなる収穫をもたらすかを探究する。[…]
仮に私が魂について「魂は死なない」der Seele …sie ist nicht sterblichと言ったとすれば、私は否定判断verneinendes Urteil によって少なくとも一つの誤謬を除去したことになるだろう。ところで「魂は不死である」die Seele ist nicht sterblichという命題による場合には、私は魂を不死の実体という無制限の外延中に定置することによって、論理の形式面からは事実肯定したことになる。
[後者の命題が主張するのは]魂とは、死すものがことごとく除去されてもなお残るところの、無限に多くのものの一つである、ということに他ならない。[…]しかし、この[あらゆる可能なものの]空間はこのように死すものが除去されるにも関わらず、依然として無限であり、もっと多くの部分が取り去られても、そのために魂の概念が少しも増大したり肯定的に規定されるということはありえない。(カント『純粋理性批判』Kritik der reinen Vernunft - 1. Auflage - Kapitel 22)
|
|
二〇世紀において、数学基礎論は論理主義、形式主義、直観主義の三派に分かれる。このなかで、直観主義(ブローウェル)は、無限を実体としてあつかう数学に対して、有限的立場を唱えた。《古典論理学の法則は有限の集合を前提にしたものである。人々はこの起源を忘れ、なんの正統性も検証せず、それを無限の集合にまで適用してしまっているのではないか》(ブローウェル『論理学の原理への不信』)。彼は、排中律は無限集合に関しては適用できないという。排中律とは、「Aであるか、Aでないか、そのいずれかが成り立つ」というものである。それは、「Aでない」と仮定して、それが背理に陥るならば、「Aである」ことが帰結するというような証明として用いられている。ところが、有限である場合はそれを確かめられるが、無限集合の場合はそれができない。ブローウェルは、無限集合をあつかった時に生じるパラドックスは、この排中律を濫用するからだと考える。
『純粋理性批判』におけるカントの弁証法は、アンチノミーが排中律を濫用することによって生じることを明らかにしている。彼は、たとえば「彼は死なない」という否定判断と「彼は不死である」という無限判断を区別する。無限判断は肯定判断でありながら、否定であるかのように錯覚される。たとえば、「世界は限りがない」という命題は「世界は無限である」という命題と等置される。「世界は限りがあるか、または限りがない」というならば、排中律が成立する。しかし、「世界は限りがあるか、または無限である」という場合、排中律は成立しない。どちらの命題も虚偽でありうる。つまり、カントは「無限」にかんして排中律を適用する論理が背理に陥ることを示したのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』第一部・第2章 綜合的判断の問題、2001年)
|
|
カントはその『純粋理性批判』において、否定判断と無限判断という重要な区別を導入した。
「魂は必滅である」という肯定文は二通りに否定できる、述語を否定する(「魂は必滅でない」)こともできるし、否定的述語を肯定する(「魂は不滅である」)こともできる。
この両者の違いは、スティーヴン・キングの読者なら誰でも知っている、「彼は死んでいない」と「彼は不死だ」の違いとまったく同じものだ。無限判断は、「死んでいる」と「死んでいない」(生きている)との境界線を突き崩す第三の領域を開く。「不死」は死んでいるのでも生きているのでもない。まさに怪物的な「生ける死者」である。
同じことが「人でなし」にもあてはまる。「彼は人間ではない」と「彼は人でなしだ」とは同じではない。「彼は人間ではない」はたんに彼が人間性の外にいる、つまり動物か神様であることを意味するが、「彼は人でなしだ」はそれとはまったく異なる何か、つまり人間でも、人間でないものでもなく、われわれが人間性と見なしているものを否定しているが同時に人間であることに付随している、あの恐ろしい過剰によって刻印されているという事実を意味している。おそらく、これこそがカントによる哲学革命によって変わったものである、という大胆な仮説を提出してもいいだろう。
カント以前の宇宙では、人間は単純に人間だった。動物的な肉欲や神的な狂気の過剰と戦う理性的存在だったが、カントにおいては、戦うべき過剰は人間に内在しているものであり、主体性そのものの中核に関わるものである(だからこそ、まわりの闇と戦う〈理性の光〉という啓蒙主義のイメージとは対照的に、ドイツ観念論における主体性の核の隠喩は〈夜〉、〈世界の夜〉なのだ)。
カント以前の宇宙では、狂気に陥った英雄は自らの人間性を失い、動物的な激情あるいは神的な狂気がそれに取って代わる。カントにおいては、狂気とは、人間存在の中核が制約をぶち破って爆発することである。(ジジェク『ラカンはこう読め』2006年)
|
|
世界の夜 Nacht der Welt
|
|
人間存在は、すべてのものを、自分の不可分な単純さのなかに包み込んでいる世界の夜 Nacht der Weltであり、空無 leere Nichts である。人間は、無数の表象やイメージを内に持つ宝庫だが、この表象やイメージのうち一つも、人間の頭に、あるいは彼の眼前に現れることはない。この夜。幻影の表象に包まれた自然の内的な夜。この純粋自己 reines Selbst。こちらに血まみれの頭 blutiger Kopf が現れたかと思うと、あちらに不意に白い亡霊 weiße Gestalt が見え隠れする。一人の人間の眼のなかを覗き込むとき、この夜を垣間見る。その人間の眼のなかに、 われわれは夜を、どんどん恐ろしさを増す夜を、見出す。まさに世界の夜 Nacht der Welt がこのとき、われわれの現前に現れている。(ヘーゲル『現実哲学』イエナ大学講義録草稿 Jenaer Realphilosophie 、1805-1806)
|
|
力なき美は悟性を憎む。なぜなら、悟性は、美にそれがなし得ないことを要求するからである。だが、死を前にしてしりごみし、破滅から完璧に身を守ろうとするような生ではなく、死を耐え抜き、そのなかに留まる生こそが精神の生なのである。精神が己の真理を勝ちとるのは、ただ、自分自身を絶対的分裂 absoluten Zerrissenheit のうちに見出すときにのみなのである。/精神がこの力であるのは、否定的なもの Negativen から目をそらすような、肯定的なものであるからではない。つまりわれわれが何かについて、それは何物でもないとか、偽であるとか言って、それに片をつけ、それから離れて、別のものに移って行く場合のようなものであるからではない。そうではなく、精神は、否定的なものを見すえ、否定的なもの Negativen に留まる verweilt からこそ、その力をもつ。このように否定的なものに留まることが、否定的なものを存在に転回する魔法の力である。(ヘーゲル『精神現象学』「序論」1807年)
|
|
無限判断≒ 否定の否定
|
|
二重否定(否定の否定)はカントの無限判断--非述語non-predicateの肯定--に繋げ得る。「彼は不死である」は「彼は生きている」を単に意味しない。そうではなく、彼は「生ける死者a living dead」として生きている。「彼は不死である」は、「彼は非非死であるhe is not-not-dead」を意味する。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)
|
|
男でない全ては女だろうか? 人はそれを認めるかもしれない。だが女は全てではない(非全体) pas « tout » なのだから、どうして女でない全てが男だというのか?
Tout ce qui n'est pas homme… est-il femme ? On tendrait à l'admettre. Mais puisque la femme n'est pas « tout », pourquoi tout ce qui n'est pas femme serait-il homme ? (ラカン、S19, 10 Mai 1972)
|
|
では女をいかに定義するのか、もし単純に非男non‐man、男の相称的な、あるいは相補的な片割れとしてでないのなら? カントの否定判断に対する「無限判断」概念が、ふたたびここでも役立ち得る。すなわち肯定判断「魂は必滅だsoul is mortal」は二通りに否定できる。術語を否定する(「魂は必滅ではないthe soul is not mortal」)こともできるし、非術語を肯定する(「魂は不滅であるthe soul is non‐mortal」)こともできる。まったく同じように、我々は、女は男でないwoman is not manと言うべきではなく、女は非男であるwoman is non‐manとすべきである。ヘーゲル的な意味で、女は、ただ男の否定なのではなく「否定の否定」なのであり、それは、非非男non‐non‐manの第三の領野を開く。否定の否定によって、ただ男に戻るのではなく、男とその相対物の全領域を置き去りにするのである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)
|
|
止揚Aufheben=二重否定Verneinung=否定の否定Negation der Negation
|
|
止揚Aufhebenは真に二重の意味を示す。それは「否定する」と同時に「保存する」の意味である。Das Aufheben stellt seine wahrhafte gedoppelte Bedeutung dar, […]; es ist ein Negieren und ein Aufbewahren zugleich; (ヘーゲル『精神現象学 Phänomenologie des Geistes』1807年)
|
|
否定は抑圧されているものを認知する一つの方法であり、本来は抑圧の解除=止揚Aufhebungを意味しているが、それは勿論、抑圧されているものの承認ではない。Die Verneinung ist eine Art, das Verdrängte zur Kenntnis zu nehmen, eigentlich schon eine Aufhebung der Verdrängung, aber freilich keine Annahme des Verdrängten.(フロイト『否定』1925年)
|
|
ラカン)Verneinung は、 セミネールの前に、イポリット氏が私に耳打ちしたように、dénégation(二重否定、前言を翻す行為)であって、翻訳のように négation(否定)ではない。(…)
イポリット)(否定行為にも打ち勝ち、 抑圧されたものの知的承認に成功しながら)―抑圧過程そのものはこれによって解除されない。
これは私にはきわめて深いものと思われます。被分析者は受け入れ、取り消し dénégationても、抑圧はまだある!
私の結論は、ここで生み出されるものに、ある哲学的名称を与えなければならないことです。この名をフロイトは述べてはいません。それは「否定の否定 la négation de la négation」(Negation der Negation)です。文字通り、ここで現れるもの、それは知的肯定です。しかし知的であるだけです。というのは否定の否定ですから。こうした用語はフロイトにはありません。しかしこう述べても私はフロイトの思考の延長線にあると思います。これが私が言いたいことです。(ラカン、S1、10 Février 1954)
|
以上、本日5投稿してしまったが、また明日からヤボ用が入ってしまったせいである。最近は老齢のせいか脳軟化症気味で、こういったことは先にメモっとかないとすぐ失念するのである。
では、みなさんサヨウナラ。