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2020年1月11日土曜日

デモクラシーとデマゴーグとファシズム

以下、「古典的」資料編のひとつ。


デモクラシー(dêmos+kratos)=大衆の支配
「デモクラシー」(democracy)の語源は古代ギリシア語の δημοκρατία(dēmokratía、デーモクラティアー)で、「人民・民衆・大衆」などを意味する δμος(古代ギリシア語ラテン翻字: dêmos、デーモス)と、「権力・支配」などを意味する κράτος(古代ギリシア語ラテン翻字: kratos、クラトス)を組み合わせたもので、「人民権力」「民衆支配」、「国民主権」などの意味である。

この用語は、同様に「優れた人」を意味する ριστος(古代ギリシア語ラテン翻字: aristos、アリストス)と κράτος を組み合わせた ριστοκρατία(古代ギリシア語ラテン翻字: aristokratía、アリストクラティア。優れた人による権力・支配、貴族制や寡頭制)との対比で使用され、権力者や支配者が構成員の一部であるか全員であるかを対比した用語である。

古代ギリシアの衰退以降は「デモクラシー」の語は衆愚政治の意味で使われるようになった。古代ローマでは「デモクラシー」の語は使用されず、王政を廃止し、元老院と市民集会が主権を持つ体制は「共和制」と呼ばれた。(Wikipedia)
デマゴーグ(dēmos+ agein)=大衆を導く者
デマゴーグ(独: Demagog)は、古代ギリシアの煽動的民衆指導者のこと。英語ではdemagogueであり、rabble-rouser(大衆扇動者)とも呼ばれ民主主義社会に於いて社会経済的に低い階層の民衆の感情、恐れ、偏見、無知に訴える事により権力を得かつ政治的目的を達成しようとする政治的指導者を言う。デマゴーグは普通、国家的危機に際し慎重な考えや行いに反対し、代わりに至急かつ暴力的な対応を提唱し穏健派や思慮を求める政敵を弱腰と非難する。デマゴーグは古代アテネの時代より民主主義社会に度々現れ、民主主義の基本・原理的な弱点、則ち究極的な権限は民衆にありその中でより大きな割合を占める人々の共通の願望や恐れに答えさえすれば(それらがどの様なものでも)政治的権力を得られるという点を利用した。

古代ギリシア語ではδημαγωγός(デマゴゴス)と言う。日本においては主に、意図的に虚偽の情報を流し、嘘をついて人を扇動しようとするさまを指してデマゴーグと批判として用いられるが、「流布された誤った情報」の意味でのデマ、それを意図的に流すものとしてのデマゴーグは日本に限った用法であり、本来「嘘」の意味は無い。

語源は「民衆(δμος / dēmos)を導く(γειν / agein)」であり、本来は民衆指導者を指すが、アテナイではペリクレスの死後、クレオンを初めとする煽動的指導者が続き、衆愚政治へと堕落した。このことから「デマゴーグ」は人々の感情や偏見に訴え、力を得る政治家や権力者の意味で使われるようになった。また、彼らの民衆煽動はデマゴギー(Demagogie)と呼ばれる。(Wikipedia)

デマゴギーは本当に近い嘘
人がデマゴギーと呼ぶところのものは、決してありもしない嘘出鱈目ではなく、物語への忠実さからくる本当らしさへの執着にほかならぬ(……)。人は、事実を歪曲して伝えることで他人を煽動しはしない。ほとんど本当に近い嘘を配置することで、人は多くの読者を獲得する。というのも、人が信じるものは語られた事実ではなく、本当らしい語り方にほかならぬからである。デマゴギーとは、物語への恐れを共有しあう話者と聴き手の間に成立する臆病で防禦的なコミュニケーションなのだ。ブルジョワジーと呼ばれる階級がその秩序の維持のためにもっとも必要としているのは、この種のコミュニケーションが不断に成立していることである。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)
ある証人の言葉が真実として受け入れられるには、 二つの条件が充たされていなけらばならない。 語られている事実が信じられるか否かというより以前に、まず、 その証人のあり方そのものが容認されていることが前提となる。 それに加えて、 語られている事実が、 すでにあたりに行き交っている物語の群と程よく調和しうるものかどうかが問題となろう。 いずれにせよ、 人びとによって信じられることになるのは、 言葉の意味している事実そのものではなく、 その説話論的な形態なのである。 あらかじめ存在している物語のコンテクストにどのようにおさまるかという点への配慮が、 物語の話者の留意すべきことがらなのだ。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)
デモクラシーにはデマゴギーは付き物
デマゴギーというのは僕らにとっての宿命というくらいに僕は思ってるんです。つまりデモクラシーという社会を選んだんだ。それには付き物なんですよ。有効な発言もデマゴギーぎりぎりのところでなされるわけでしょう。

そうすると、デマゴギーか有効な発言かを見分けるのは、こっちにかかってくるんだけれど、これはなかなか難しい。つまり、だれのためかっていうことだ。マスのためだとしたらデマゴギーは有効なんですね。デマゴギーはその先のことなんて考えないからね。

それにしても、政治家もオピニオンリーダーたちも、マスイメージにたいして語るんですね。民主主義の本来だったら、パブリックなものに語らなきゃいけない。ところが日本では、パブリックという観念が発達してないでしょう。(古井由吉『西部邁発言①「文学」対論』)
パブリックについて(カント的転回)
自分の理性を公的に使用することは、いつでも自由でなければならない、これに反して自分の理性を私的に使用することは、時として著しく制限されてよい、そうしたからとて啓蒙の進歩はかくべつ妨げられるものではない、と。ここで私が理性の公的使用というのは、ある人が学者として、一般の読者全体の前で彼自身の理性を使用することを指している。また私が理性の私的使用というのはこうである、ーー公民としてある地位もしくは公職に任ぜられている人は、その立場においてのみ彼自身の理性を使用することが許される、このような使用の仕方が、すなわち理性の私的使用なのである。

(中略)しかしかかる機構の受動的部分を成す者でも、自分を同時に全公共体の一員――それどころか世界公民的社会の一員と見なす場合には、従ってまた本来の意味における公衆一般に向かって、著書や論文を通じて自説を主張する学者の資格においては、論議することはいっこうに差支えないのである。(カント 『啓蒙とは何か』)
通常、パブリックは、私的なものに対し、共同体あるいは国家のレベルについていわれるのに、カントは後者を逆に私的と見なしている。ここに重要な「カント的転回」がある。この転回は、たんに公共的なものの優位をいったことにではなく、パブリックの意味を変えてしまったことにあるのだ。パブリックであること=世界公民的であることは、共同体の中ではむしろ、たんに個人的であることとしか見えない。そして、そこでは個人的なものは私的であると見なされる。なぜなら、それは公共的合意に反するからだ。しかし、カントの考えでは、そのように個人的であることがパブリックなのである。(…)

世界市民的社会に向かって理性を使用するとは、個々人がいわば未来の他者に向かって、現在の公共的合意に反してもそうすることである。(柄谷行人『トランスクリティーク』P156)
公共的合意の不充分性
ハーバーマスは、公共的合意あるいは間主観性によって、カント的な倫理学を超えられると考えてきた。しかし、彼らは他者を、今ここにいる者たち、しかも規則を共有している者たちに限定している。死者や未来の人たちが考慮に入っていないのだ。

たとえば、今日、カントを否定し功利主義の立場から考えてきた倫理学者たちが、環境問題に関して、或るアポリアに直面している。現在の人間は快適な文明生活を享受するために大量の廃棄物を出すが、それを将来の世代が引き受けることになる。現在生きている大人たちの「公共的合意」は成立するだろう、それがまだ西洋や先進国の間に限定されているとしても。しかし、未来の人間との対話や合意はありえない。(柄谷行人『トランスクリティーク』P191-192)


事実はなく、あるのは解釈のみ
現象 Phänomenen に立ちどまったままで「あるのはただ事実のみ es giebt nur Thatsachen」と主張する実証主義 Positivismus に反対して、私は言うであろう、否、まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみ nein, gerade Thatsachen giebt es nicht, nur Interpretationenと。私たちはいかなる事実「自体」をも確かめることはできない。おそらく、そのようなことを欲するのは背理であろらう。

「すべてのものは主観的である Es ist Alles subjektiv」と君たちは言う。しかしこのことがすでに解釈なのである。「主観 Subjekt」は、なんらあたえられたものではなく、何か仮構し加えられたもの、背後へと挿入されたものである。---解釈の背後になお解釈者を立てることが、結局は必要なのであろうか? すでにこのことが、仮構であり、仮説である。

総じて「認識 Erkenntniß」という言葉が意味をもつかぎり、世界は認識されうるものである。しかし、世界は別様にも解釈されうるのであり、それはおのれの背後にいかなる意味をももってはおらず、かえって無数の意味をもっている。---「遠近法主義 Perspektivismus」

世界を解釈するもの、それは私たちの欲求 Bedürfnisse である、私たちの欲動 Trieb とこのものの賛否である。いずれの欲動も一種の支配欲 Jeder Trieb ist eine Art Herrschsucht であり、いずれもがその遠近法Perspektive をもっており、このおのれの遠近法を規範としてその他すべての欲動に強制したがっているのである。(ニーチェ『力への意志』.Nietzsche: Der Wille zur Macht I - Kapitel 24,481、ー1886/87)
党派を組むと人は必然的に嘘つきとなる
確信は嘘にもまして危険な真理の敵ではなかろうかとは、すでに長いこと私の考慮してきたところのことであった(『人間的、あまりに人間的』第一部483番)。このたびは私は決定的な問いを発したい、すなわち、嘘と確信Lüge und Überzeugungとのあいだには総じて一つの対立があるのであろうか? 

――全世界がそう信じている、しかし全世界の信じていないものなど何もない! ――それぞれ確信は、その歴史を、その先行形式を、その模索や失敗をもっている。長いこと確信ではなかったのちに、なおいっそう長いことほとんど確信ではなかったのちに、それは確信となる。えっ? 確信のこうした胎児形式のうちには嘘もまたあったかもしれないのではなかろうか? ――ときおり人間の交替を必要とするだけのことである。すなわち父の代にはまだ嘘であったものが、子の代にいたって確信となるのである。

――私が嘘と名づけるのは、見ているものを見ようとしないこと、見えるとおりにものを見ようとしないことである。はたして目撃者の面前で嘘するのか、目撃者がいないとき嘘するのかは、考慮しなくともよいことなのである。最もふつうの嘘は、おのれ自身を欺くそれであり、他人を欺くということは比較的に例外の場合である。――ところで、この見ているものを見ようとしないこと、この見えるとおりに見ようとしないことは、なんらかの意味で党派的であるすべての人にとっては、ほとんど第一条件である。すなわち、党派を組むと人は必然的に嘘つきとなる。…党派的な人は誰でも、本能的に、道徳的な大きな言葉を口にするものである。そうであってみれば、道徳が存続するのはあらゆる種類の党派人がそれをたえまなく必要とするからだ、という事実に、もはや驚くこともあるまい。(ニーチェ『反キリスト者』第55番、1888年)
大衆はみな嘘つき
大衆はみんな嘘つきだ。が、小さな嘘しかつけないから、お互いに小さな嘘には警戒心が強いだけだ。大きな嘘となれば、これは別問題だ。彼等には恥ずかしくて、とてもつく勇気のないような大嘘を、彼らが真に受けるのは、極く自然な道理である。たとえ嘘だとばれたとしても、それは人々の心に必ず強い印象を残す。うそだったということよりも、この残された強い痕跡の方が余程大事である、と。(小林秀雄「ヒットラーと悪魔」1960年『考えるヒント』所収)
集団心理における情動興奮と思考制止という法則
大衆は怠惰で短視眼である die Massen sind träge und einsichtslos。大衆は、欲動を断念することを好まず、いくら道理を説いてもその必要性など納得するものではなく、かえって、たがいに嗾しかけあっては、したい放題のことをする。(フロイト『あるイリュージョンの未来 Die Zukunft einer Illusion』1927年ーー旧訳邦題『ある幻想の未来』、新訳邦題『ある錯覚の未来』第1章)
集団にはたらきかけようと思う者は、自分の論拠を論理的に組みたてる必要は毛頭ない。きわめて強烈なイメージをつかって描写し、誇張し、そしていつも同じことを繰り返せばよい。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第2章)
集団は異常に影響をうけやすく、また容易に信じやすく、批判力を欠いている。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第2章)

集団内部の個人は、その集団の影響によって彼の精神活動にしばしば深刻な変化をこうむる。彼の情動 Affektivität は異常にたかまり、彼の知的活動 intellektuelle Leistung はいちじるしく制限される。そして情動と知的活動は両方とも、集団の他の個人に明らかに似通ったものになっていく。そしてこれは、個人に固有な欲動制止 Triebhemmungen が解除され、個人的傾向の独自な発展を断念することによってのみ達せられる結果である。

この、のぞましくない結果は、集団の高度の「組織」によって、少なくとも部分的にはふせがれるといわれたが、集団心理の根本事実である原初的集団 primitiven Masse における情動興奮 Affektsteigerungと思考制止 Denkhemmung という二つの法則は否定されはしない。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年)
特定の個人や制度にたいする憎悪は、それらにたいする積極的依存 positive Anhänglichkeit と同様に、多くの人々を一体化させるように作用するだろうし、類似した感情的結つきGefühlsbindungen を呼び起こすであろう。(フロイト『集団心理学と自我の分析』)
権力をもつ者が最下級の者であり、人間であるよりは畜類 Viehである場合には、しだいに賤民(大衆Pöbel)の値が騰貴してくる。そしてついには賤民の徳がこう言うようになる。「見よ、われのみが徳だ siehe, ich allein bin Tugend!」とーー。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部)

国民集団としての日本人の特徴
国民集団としての日本人の弱点を思わずにいられない。それは、おみこしの熱狂と無責任とに例えられようか。輿を担ぐ者も、輿に載るものも、誰も輿の方向を定めることができない。ぶらさがっている者がいても、力は平均化して、輿は道路上を直線的に進む限りまず傾かない。この欠陥が露呈するのは曲がり角であり、輿が思わぬ方向に行き、あるいは傾いて破壊を自他に及ぼす。しかも、誰もが自分は全力をつくしていたのだと思っている。(中井久夫「戦争と平和についての観察」『樹をみつめて』所収、2005年)
被害者の側に立つこと、被害者との同一視は、私たちの荷を軽くしてくれ、私たちの加害者的側面を一時忘れさせ、私たちを正義の側に立たせてくれる。それは、たとえば、過去の戦争における加害者としての日本の人間であるという事実の忘却である。その他にもいろいろあるかもしれない。その昇華ということもありうる。

社会的にも、現在、わが国におけるほとんど唯一の国民的一致点は「被害者の尊重」である。これに反対するものはいない。ではなぜ、たとえば犯罪被害者が無視されてきたのか。司法からすれば、犯罪とは国家共同体に対してなされるものであり(ゼーリヒ『犯罪学』)、被害者は極言すれば、反国家的行為の単なる舞台であり、せいぜい証言者にすぎなかった。その一面性を問題にするのでなければ、表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口に終わるおそれがある。(中井久夫「トラウマとその治療経験」2000年『徴候・外傷・記憶』所収)
一般に「正義われにあり」とか「自分こそ」という気がするときは、一歩下がって考えなお してみてからでも遅くない。そういうときは視野の幅が狭くなっていることが多い。 (中井久夫『看護のための精神医学』2004年 )
共感の共同体
公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。(浅田彰「むずかしい批評」1988年)
ここに現出するのは典型的な「共感の共同体」の姿である。この共同体では人々は慰め合い哀れみ合うことはしても、災害の原因となる条件を解明したり災害の原因を生み出したりその危険性を隠蔽した者たちを探し出し、糾問し、処罰することは行われない。そのような「事を荒立てる」ことは国民共同体が、和の精神によって維持されているどころか、じつは、抗争と対立の場であるという「本当のこと」を、図らずも示してしまうからである。…(この)共感の共同体では人々は「仲よし同士」の慰安感を維持することが全てに優先しているかのように見えるのである。(酒井直樹「「無責任の体系」三たび」2011年『現代思想 東日本大震災』所収)
コンセンサス社会(ムラ社会)
ほんとうに怖い問題が出てきたときこそ、全会一致ではないことが必要なのだと私は考えます。それは人権を内面化することでもあるのです。個人の独立であり、個人の自由です。日本社会は、ヨーロッパなどと比べると、こうした部分が弱いのだと思います。平等主義はある程度普及しましたが、これからは、個人の独立、少数意見の尊重、「コンセンサスだけが能じゃない」という考え方を徹底する必要があります。さきほど述べたように、日本の民主主義は平等主義的民主主義だけれど、少数意見尊重の個人主義的な自由主義ではない。それがいま、いちばん大きな問題です。(加藤周一、『学ぶこと・思うこと』2003)
日本社会には、そのあらゆる水準において、過去は水に流し、未来はその時の風向きに任せ、現在に生きる強い傾向がある。現在の出来事の意味は、過去の歴史および未来の目標との関係において定義されるのではなく、歴史や目標から独立に、それ自身として決定される。(……)

労働集約的な農業はムラ人の密接な協力を必要とし、協力は共通の地方心信仰やムラ人相互の関係を束縛する習慣とその制度化を前提とする。この前提、またはムラ人の行動様式の枠組は、容易に揺らがない。それを揺さぶる個人または少数集団がムラの内部からあらわれれば、ムラの多数派は強制的説得で対応し、それでも意見の統一が得られなければ、「村八分」で対応する。いずれにしても結果は意見と行動の全会一致であり、ムラ全体の安定である。(加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年)



…………




現在に至るまでドイツには国民投票制度がないが、ヒトラーというデマゴーグの天才に徹底的に懲りたせいだろう。

次の「ハイパーメディア社会における自己・視線・権力」における発言群が示す現象は、この今も、たとえばツイッター装置において起こっている。



デモクラシーとファシズム
大澤――  ……直接民主主義は実現できないから仕方なしに代議制でやるんだと言っているときに,民主主義というのはいちばんうまくいくんですよ.先ほどの話との関係で言えば,直接民主主義ということを言った場合,理論上は,個々の主体はアイデンティティを確立してちゃんとした意見を持っているという前提があるわけです.しかし意見を表明するにも 1 分前といまとでは意見が遊うというようなことなら,民主主義というのは成り立たなくなってしまうわけです.パソコンのネットワークというのは,実際にちょっと意見が変わった場合に,これをネットワークを通じて伝遉したり,集計に反映させたりすることを,技術的に可能にしてしまった. 

柄谷――「朝まで生テレビ」にしても何にしても,TV でディスカッションをしながら,その内容に関して視聴者からファックスで意見を聞いたり世論調査をしたりするけれど,それは非常に曖昧かつ流動的で,誰かが強力にしゃべると,サーッとそちらに変わったりして,一定しないんですね. 

黒崎――だから,直接民主主義というのを,どの時点でやるのか,ニュースを流す前にやるのか,後にやるのか,それだけで結果が全然違ってくる. 

柄谷――自己というものを持つには,一定程度の時間が必要なんですよ.そのことは,ヒュームも言っているし,ニーチェも実はそれをひそかに引用していると思う. 

つまり,自己というのは一つの政府(ガヴァメント)だ,多数の自己の間での代表だ,とその意味で,自己というものがすでに代表制でしょう.そうすると,そのような自己から成り立つ政府形態というものを考えるときに,それを直接民主主義でやるというのはおかしいんです.全国民がボタンを押して絶えず現在での意見で政策を決めるようになれば,政策の一貫性なんてなくなるんですよ. 

大澤――いままでは,そういう問題が単純に技術的な問題で隠されていたわけでしょう.たとえば,国民の意志なんてものがどうして存在できるかと言えば,しょっちゅう確認できないからなんです.何年かに一度,選挙をやって,ようやく確認できるというような段階だから,国民の意志というふうに束ねて存在できるわけですね. 

それを本当にリアルタイムで確認できるようになったとたんに,「国民の意志」と呼ぶにたるような統一性は,あっというまに分解してしまう.そうなれば,そもそも,民主主義的な意志の集計によって,「何を」決定しているのかも判らなくなってしまうわけです. 

黒崎――そうなると,完全にバークレー的な状況ですよね.一瞬一瞬,私も別な自己であり,政府も別な政府であり,ただ命名によって一貫性を保持しているだけだ,と. 

浅田彰)ルソーが一般意志というけれど,具体的なモデルとしては小さい共同体を考えているわけで,それを無視して直接民主主義を乱暴に拡大すると,ファシズムと限りなく近いものになってしまうわけです.

たとえば,リンツで「アルス・エレクトロニカ」というのをやっているんだけれど,あそこはヒトラーが生まれた所だから,ヒトラーが演説した広場があって,前回は,そこに巨大なスクリーンを立てて,インタラクティヴなゲームをやったんですね.みんなに赤と緑の反射板を持たせて,全員でTVゲームをやったりね. そこで,市長の人気投票とか,直接民主主義制のゲームもやったんですが,まさに柄谷さんがおっしゃったような感じで,みんながそのつど結果を見て補正するから,およそ一定しないわけです.(「ハイパーメディア社会における自己・視線・権力」浅田彰/大澤真幸/柄谷行人 /黒崎政男、1995年)
議会と大統領との差異は、たんに選挙形態の差異ではない。カール・シュミットがいうように、議会制は、討論を通じての支配という意味において自由主義的であり、大統領は一般意志(ルソー)を代表するという意味において民主主義的である。シュミットによれば、独裁形態は自由主義に背反するが民主主義に背反するものではない。《ボルシェヴィズムとファシズムとは、他のすべての独裁制と同様に、反自由主義的であるが、しかし、必ずしも反民主主義的ではない》。《人民の意志は半世紀以来極めて綿密に作り上げられた統計的な装置よりも喝采によって、すなわち反論の余地を許さない自明なものによる方が、いっそうよく民主主義的に表現されうるのである》(シュミット『現代議会主義の精神史的位置』)。

この問題は、すでにルソーにおいて明確に出現していた。彼はイギリスにおける議会(代表制)を嘲笑的に批判していた。《主権は譲りわたされえない、これと同じ理由によって、主権は代表されえない。主権は本質上、一般意志のなかに存する。しかも、一般意志は決して代表されるものではない》。《人民は代表者をもつやいなや、もはや自由ではなくなる。もはや人民はいなくなる》(『社会契約論』)。ルソーはギリシャの直接民主主義を範とし代表性を否定した。しかし、それは「一般意志」を議会とは違った行政権力(官僚)に見いだすヘーゲルの考えか、または、国民投票の「直接性」によって議会の代表性を否定することに帰結するだろう。(『トランスクリティーク』2001年)
一般的にいって、匿名状態で解放された欲望が政治と結びつくとき、排外的・差別的な運動に傾くことに注意すべきです。だから、ここから出てくるのは、政治的にはファシズムです。(柄谷行人「丸山真男とアソシエーショニズム (2006)」)



柄谷は現在に至るまで、丸山真男、とくにそのファシズムが起こる契機の示唆に拘っている。








この図で水平軸は、個人が政治的権威の中心に対していだく距離の意識の度合を示し、ある人間が左によれば、それだけ遠心性 centrifugality が増す、つまりそれだけ政策決定中枢と一体化する傾向が減じる。こうして自立化と私化とは、政治的権威に対する求心的態度 centripetalを示す民主化および原子化とは逆に、軸の左方におくことができよう。これに対し、垂直軸によって個々人がお互いの間に自発的にすすめる結社形成の度合を示すことができよう。この図では垂直軸に従って上の方に来るのは、結社形成的な associative 個人、政治的目的にかぎらず多様な目的を達成するために隣人と結びつく素質の備わった人である。これの下の方に来るのは非結社形成的な dissociative 個人であり、仲間との連帯意識はより弱くなる。(丸山真男「個人析出のさまざまなパターン」1960年)
原子化した個人は…求心的・非結社形成的で他者志向的である。このタイプの人間は社会的な根無し草状態の現実もしくはその幻影に悩まされ,行動の規範の喪失(アノミー)に苦しんでおり,生活環境の急激な変化が惹き起こした孤独・不安・恐怖・挫折の感情がその心理を特徴づける。原子化した個人は,ふつう公共の問題に対して無関心であるが,往々ほかならぬこの無関心が突如としてファナティックな政治参加に転化することがある。孤独と不安を逃れようと焦るまさにそのゆえに,このタイプは権威主義的リーダーシップに全面的に帰依し,また国民共同体・人種文化の永遠・不滅性といった観念に表現される神秘的〈全体〉のうちに没入する傾向をもつのである。…
私化の場合には、関心の視野が個人個人の『私的』なことがらに限局され、原子化のそれのように浮動的ではない。両者とも政治的無関心を特徴とするが、私化した個人の無関心の態度は、自我の内的不安からの逃走というより、社会的実践からの隠遁といえよう。こうして彼は、原子化した個人よりも心理的には安定しており、自立化した個人に接近する。(丸山真男「個人析出のさまざまなパターン」)




たぶんたとえば山本太郎現象、その支持者の多くは原子化した個人と言うことができるのではないか。