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2020年1月31日金曜日

象徴界はフェティッシュ


自分が愛するからこそ、その愛の対象を軽蔑せざるを得なかった経験のない者が、愛について何を知ろう!Was weiss Der von Liebe, der nicht gerade verachten musste, was er liebte! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部「創造者の道」1883年)
真理の愛とは、弱さの愛、弱さを隠していたヴェールを取り払ったときのその弱さの愛、真理が隠していたものの愛、去勢と呼ばれるものの愛である。

Cet amour de la vérité, c’est cet amour de cette faiblesse, cette faiblesse dont nous avons su levé le voile, et ceci que la vérité cache, et qui s’appelle la castration. (Lacan, S17, 14 Janvier 1970)




・・・気持ちはわからないことはないよ、ジジェク信者の方にとっては。でも真の愛は信者から逃れることによって初めて始まる。

だいたいジジェクはいくつかのセミネールをのぞいては、それほどラカンを読んでいないようにみえる。初期ジジェクはおおむねミレールのパクリ、ーー《私はきわめて率直に言わなければならない、私のラカンはミレールのラカンだと。I must say this quite openly that my Lacan is Miller's Lacan》(『ジジェク自身によるジジェク』2004年)。

最近の著書だったら、これこれのラカン文を、ジュパンチッチやらだれやらに教えられたとかしばしば言ってんだから。ジジェクはヘーゲル読んだり政治にかかわったりとっても忙しいんだからしょうがない。

たとえばフェティッシュ。自我がフェティッシュだったら、象徴界だってフェティッシュだよ。ごくごくカンタン版を示しておこう。


大他者は存在しない
大他者は存在しない。それを私はS(Ⱥ)と書く。l'Autre n'existe pas, ce que j'ai écrit comme ça : S(Ⱥ).(ラカン、 S24, 08 Mars 1977)
言語は存在しない(象徴界は存在しない)
象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage(ラカン、S25, 10 Janvier 1978)
私が「メタランゲージはない」と言ったとき、「言語は存在しない」と言うためである。《ララング》と呼ばれる言語の多種多様な支えがあるだけである。

il n'y a pas de métalangage, c'est pour dire que le langage, ça n'existe pas. Il n'y a que des supports multiples du langage qui s'appellent « lalangue » (ラカン, S25, 15 Novembre 1977)


象徴界は存在しないとは、象徴界は仮象にすぎないということ。

見せかけ(仮象)はシニフィアン自体のことである Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! (ラカン、S18, 13 Janvier 1971)


以下、ヴァリエーション。

クリスティヴァはこう言っている(彼女は晩年のラカンの講義に出席していた)。

言語はフェティッシュである
言語は、我々の究極的かつ不可分なフェティッシュではないだろうか le langage n'est-il pas notre ultime et inséparable fétiche? 。言語はまさにフェティシストの否認を基盤としている(「私はそれを知っている。だが同じものとして扱う」「記号は物ではない。が、同じものと扱う」等々)。そしてこれが、言語存在の本質 essence d'être parlant としての我々を定義する。その基礎的な地位のため、言語のフェティシズムは、たぶん分析しえない唯一のものである。(ジュリア・クリステヴァ J. Kristeva, Pouvoirs de l’horreur, Essais sur l’abjection, 1980)

ようするにクリステヴァの表現の仕方なら「象徴界はフェティッシュ」となる。これは冒頭に掲げたラカンのいくつかの発言の変奏であり、極めて正当的な叙述である。

余談:旦那のソレルス曰く、あんなに頭がいい女は見たことがない。
余談:すごい情熱女(記憶で書いていますから間違っていたらゴメンナサイ)

余余談:「私は、数時間とか、せいぜいとても僅かな間の結婚に賛成なのです。ほとんど誰のためでもないような。」(フィリップ・ソレルスへのインタビュー、2017  8  28 日、阿部静子)

ヒドイ男だな、ボクは3日間ぐらいの結婚が好みです。
それ以上続けたら死が待っています。


世界は女たちのものである。
つまり死に属している。
Le monde appartient aux femmes.
 C'est-à-dire à la mort.(ソレルス『女たち』)


話を戻して、26歳のニーチェも引用しておこう。

言語はレトリックである
言語はレトリックであるDie Sprache ist Rhetorik。なぜなら言語はドクサdoxaのみを伝え、 何らエピステーメepistemeを伝えようとはしないから。(ニーチェ、講義録 Nietzsche: Vorlesungsaufzeichnungen, 1871年)

ニーチェの言い方なら「象徴界はレトリック」となる。

ラカンが唯一あるとするララング(母の言葉)はちょっとムズカシイからここではやめとくよ(参照:ララング定義集)。ま、でもララング lalangue とはなによりもまず「ものとしての言葉」のことで(母親が幼児を世話するときに使う喃語 lallation が起源)ーー現代ラカン派が使用する語なら「言葉の物質性 motérialité」ーー、その代表的なものは音調。


言葉と音調 Worte und Töne があるということは、なんとよいことだろう。言葉と音調とは、永遠に隔てられているものどうしのあいだにかけわたされた虹、そして仮象の橋 Schein-Brückenではなかろうか。…

事物 Dingen に名と音調 Namen und Töne が贈られるのは、人間がそれらの事物から喜びを汲み取ろうとするためではないか。音調 Töneを発してことばを語るということは、美しい狂宴 schöne Narrethe である。それをしながら人間はいっさいの事物の上を舞って行くのだ。 (ニーチェ「快癒しつつある者 Der Genesende」『ツァラトゥストラ』第三部、1885年)





◼️付記

ジャン=クロード・ミルネールーー論理的ラカン派の重鎮でジジェクとも親しいーーは次のように言っている。

近代科学にとって……、自然は、科学の数学的公理の正しい機能に必要であるもの以外にはどんな感覚的実体もない。…

近代科学は…対象の数学化を要求する。それは対象が数学的本質であることを要求しない。したがって対象が永遠・完璧であることを要求しない。……むしろ、反対に、数学化の手段によって、対象の把握を目指す。数学化において、対象はそれ自体と異なることもありうる。対象は、実験上の、偶然的・反復的、したがって一時的な性質をもちうる。(ジャン=クロード・ミルネールJean-Claude Milner, Le périple structural, 2002)


これは、科学が扱う記号は仮象だと言っているわけで、次のラカンの変奏。

物理学の言説が物理学者を決定づける。その逆ではない c'est que
c'est le discours de la physique qui détermine le physicien, non pas le contraire(ラカン、S16、20 Novembre 1968)
分節化ーー見せかけ(仮象 semblant) の代数的 algébrique分節化という意味だがーー、これによって我々は文字 lettres だけを扱っている。そしてその効果。これがリアル réelと呼ばれるものを我々に提示可能にしてくれる唯一の装置である。何がリアル réel かといえば、この見せかけに穴を開けること fait trou dans ce semblant である。

科学的言説であるところの分節化されたこの見せかけ ce semblant articulé qu'est le discours scientifique のなかに 、科学的言説は、それが見せかけの言説か否かさえ悩まずに進んでゆく。

しばしば言われるように、科学的言説がかかわる全ては、そのネットワーク・その織物・その格子によって、正しい場所に正しい穴が現れるようにすること fasse apparaître les bons trous à la bonne place である。

この演繹によって到達される唯一の参照項は不可能である。この不可能がリアル cet impossible c'est le réel である。我々は物理学において、言説の装置の助けをもって、リアルle réel であるところの何かを目指す。その厳格さのなかで、一貫性の限界に遭遇する rencontre les limites de sa consistance のである。(ラカン、セミネール18、20 Janvier 1971)

ーージジェクはたとえばこのセミネール18の文をジュパンチッチに教えられたと2012年に記しており、そこから「リアルは象徴界の非全体」だとする長年の観点の裏付けのひとつにしている。だがこの不可能=リアルからもうひとつの別のリアルにアンコール以後ラカンは転回したのは前回記した通り。

でもこれ自体、既に類似した思考がニーチェにある(他の思想家にもたぶんあるのだろうけどボクはニーチェしか知らない。もちろん最近であれば「数学はレトリック」という意味合いのことを言った柄谷(『隠喩としての建築』)や、中井久夫も似たようなことを言っている(医学・精神医学・精神療法とは何か」)のでしろ常識なのかもしれないけど)。


論理学は存在しない・数学は存在しない
論理学は、現実の世界にはなにも対応するものがないような前提、たとえば同等な物があるとか、一つの物はちがった時点においても同一 であるというような前提にもとづいている。

Auch die Logik beruht auf Voraussetzungen, denen nichts in der wirklichen Welt entspricht, z.B. auf der Voraussetzung der Gleichheit von Dingen, der Identität des selben Dinges in verschiedenen Punkten der Zeit:

…数学についても同じことがいえる。もしひとがはじめから厳密には直線も円も絶対的な量もないことを知っていたら、数学は存在しなかっただろう。

Ebenso steht es mit der Mathematik, welche gewiss nicht entstanden wäre, wenn man von Anfang an gewusst hätte, dass es in der Natur keine exakt gerade Linie, keinen wirklichen Kreis, kein absolutes Größenmaß gebe.(ニーチェ『人間的な、あまりに人間的な』1-11、1878年)
科学は存在しない
・科学が居座っている信念は、いまだ形而上学的信念である。daß es immer noch ein metaphysischer Glaube ist, auf dem unser Glaube an die Wissenschaft ruht

・物理学とは世界の配合と解釈にすぎない。dass Physik auch nur eine Welt-Auslegung und -Zurechtlegung

・我々は、線・平面・物体・原子、あるいは可分的時間・可分的空間とかいった、実のところ存在しないもののみを以て操作する。Wir operieren mit lauter Dingen, die es nicht gibt, mit Linien, Flächen, Körpern, Atomen, teilbaren Zeiten, teilbaren Räumen (ニーチェ『 悦ばしき知 Die fröhliche Wissenschaft』1882年)