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2020年1月30日木曜日

自我のしかめ面


ボクはジジェクが好きだからな
悪口いうつもりはないさ
たぶん居心地がよくなるよ、
彼のそばで話をきいていたら。
なぜそう思うのかってーー、
さあてね
親しいおじさんってのかな
(おじさんというほど齢が離れているわけじゃないけど兄貴ではないな)
その奮闘ぶりがユーモアに感じられるってのかな

ラカンやらミレールやらなんてのはきらいだね
でもジジェクの書ではじめてしった
ラカンの「しかめ面」という表現はずっとお気に入りだな、


「現実界の顰め面」としての現実
じつは、この世界は思考を支える幻想 fantasme でしかない。それもひとつの「現実 réalité」には違いないかもしれないが、現実界の顰め面 grimace du réel として理解されるべき現実である。

…alors qu'il(monde) n'est que le fantasme dont se soutient une pensée, « réalité » sans doute, mais à entendre comme grimace du réel.(ラカン、テレヴィジョン Télévision、AE512、Noël 1973)
「現実の顰め面」としての現実界
現実の顰め面としての現実界 the real as a "grimace" of reality(ジジェク 『斜めから見る』1991年)

ジジェクは1991年から首尾一貫してるのさ
ようするに象徴界からみた現実界ひとすじってわけだ
2012年だったらこうだ

現実界 The Real は、象徴秩序と現実 reality とのあいだの対立が象徴界自体に内在的なものであるという点、内部から象徴界を掘り崩すという点にある。すなわち、現実界は象徴界の非全体[the non‐All of the symbolic]である。一つの現実界 a Real があるのは、象徴界がその外部にある現実界を把みえないからではない。そうではなく、象徴界が十全にはそれ自身になりえないからである。

存在(現実) [being (reality)] があるのは、象徴システムが非一貫的で欠陥があるためである。なぜなら、現実界は形式化の行き詰り[the Real is an impasse of formalization]だから。この命題は、完全な「観念論者」的重みを与えられなければならない。すなわち、現実 reality があまりに豊かで、したがってどの形式化もそれを把むのに失敗したり躓いたりするというだけではない。現実界は形式化の行き詰り以外の何ものでもないのだ[the Real is nothing but an impasse of formalization]。濃密な現実 dense reality が「向こうに out there」にあるのは、象徴秩序のなかの非一貫性と裂け目のためである。 現実界は、外部の例外ではなく、形式化の非全体以外の何ものでもない[The Real is nothing but the non‐All of formalization](ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)


この文のリアルの定義は間違っているというわけじゃない
アンコール1973年3月までのラカンの現実界の定義だ

現実界は形式化の行き詰まりに刻印される以外の何ものでもない le réel ne saurait s'inscrire que d'une impasse de la formalisation(LACAN, S20、20 Mars 1973)

ジジェクはこの定義に凝り固まっているから
テレヴィジョン 1973年12月のしかめ面を「修正」したんじゃないか
きっと気をきかせて

ところでラカンはアンコール1973年5月の講義でこういうんだ

現実界、それは話す身体の神秘、無意識の神秘である Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient(ラカン、S20、15 mai 1973)

なんだい、これ?
またわけわかんないこといってんな
無視しとこって具合になるよ
リアルは形式化の袋小路ってのを信奉してたら

でも本当はアンコールの3月と5月のあいだに裂け目があるんだな
象徴界から現実界をさぐったラカンから、
現実界は象徴界に先だつとするラカン
つまり象徴界は現実界に対する防衛として捉えるラカンへの転回
こう捉えないと「人はみな妄想する」はイミフだよ

フロイトはすべては夢だけだと考えた。すなわち人はみな(もしこの表現が許されるなら)、ーー人はみな狂っている。すなわち人はみな妄想する。

Freud[…] Il a considéré que rien n’est que rêve, et que tout le monde (si l’on peut dire une pareille expression), tout le monde est fou, c’est-à-dire délirant (Jacques Lacan, « Journal d’Ornicar ? », 1979)


ミレールはこういっている。

すべてが見せかけsemblantではない。或る現実界 un réel がある。社会的結びつき lien social の現実界は性的非関係である。無意識の現実界は、話す身体 le corps parlant である。象徴秩序が、現実界を統制し、現実界に象徴的法を課す知として考えられていた限り、臨床は、神経症と精神病とにあいだの対立によって支配されていた。象徴秩序は今、見せかけのシステムと認知されている。象徴秩序は現実界を統治するのではなく、むしろ現実界に従属していると。それは、「性関係はない rapport sexuel qu'il n'y a pas」という現実界へ応答するシステムである。(ジャック=アラン・ミレール 、L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT、2014)


たとえばラカンはアンコール以後、次のようにいう。

症状は現実界について書かれることを止めない。le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン, La Troisième, 1974)
現実界は書かれることを止めない。le Réel ne cesse pas de s'écrire.(ラカン, S25, 10 Janvier 1978)

というわけでミレールは次のようにいう。

書かれることを止めないもの un ne cesse pas de s'écrire。これが現実界の定義 la définition du réel である。…

書かれぬことを止めないもの un ne cesse pas de ne pas s'écrire。すなわち書くことが不可能なもの impossible à écrire。この不可能としての現実界は、象徴秩序(言語秩序)の観点から見られた現実界である。le réel comme impossible, c'est le réel vu du point de vue de l'ordre symbolique (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse,  11 février 2009)

書かれることを止めないもの
書かれぬことを止めないもの

「書かれぬ」のほうはアンコールまでのラカンの現実界の定義

私の定式: 不可能性は現実界である ma formule : l'impossible, c'est le réel. (Lacan, RADIOPHONIE、AE431、1970)
不可能性:書かれぬことを止めないもの Impossible: ce qui ne cesse pas de ne pas s'écrire (Lacan, S20, 13 Février 1973)        
テュケーtuchéの機能、出会いとしての現実界の機能 fonction du réel ということであるが、それは、出会いとは言っても、出会い損なうかもしれない出会いのことであり、本質的には、「出会い損ね」としての「現前」« présence » comme « rencontre manquée » である。(ラカン、S11、12 Février 1964)

書かれぬことを止めないものとの偶然の出会いから、
書かれることを止めないものへとラカンは転回したってわけだ

ボクはやっと2年ぐらい前に気づいたよ
ちょっと遅くなっちまったな、
ジジェクの「おかげ」でね。

「まぁ、世界とはその程度のものです」(蓮實重彦)

ジジェクにかぎらずほとんどあらゆる書き手はその程度のものさ
エラそうになにやらいってる連中はとくにそうだな
一番大事な教訓はこれだな


ミレール は次のフロイト文が「後期ラカンの教えの鍵 la clef du dernier enseignement de Lacan 」だと繰りかえし強調している。

欲動蠢動 Triebregungは「自動反復 Automatismus」を辿る、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯そして固着する契機 Das fixierende Moment は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)


たとえばミレール は次のようにいう。

フロイトにとって症状は反復強迫 compulsion de répétition に結びついたこの「止めないもの qui ne cesse pas」である。『制止、症状、不安』の第10章にて、フロイトは指摘している。症状は固着を意味し、固着する要素は、無意識のエスの反復強迫に見出されると。フロイトはこの論文で、症状を記述するとき、欲動要求の絶え間なさを常に示している。欲動は「行使されることを止めないもにものであるne cesse pas de s'exercer」. (J.-A. MILLER, L'Autre qui  n'existe pas  et ses comités d'éthique - 26/2/97)
われわれは、『制止、症状、不安』(1926年)の究極の章である第10章を読まなければならない。…そこには欲動が囚われる反復強迫 Wiederholungszwang の作用、その自動反復 automatisme de répétition (Automatismus) の記述がある。

そして『制止、症状、不安』11章「補足 Addendum B 」には、本源的な文 phrase essentielle がある。フロイトはこう書いている。《欲動要求はリアルな何ものかである Triebanspruch etwas Reales ist(exigence pulsionnelle est quelque chose de réel)》。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un,  - 2/2/2011)

固着による無意識のエスの反復強迫、
これが「書かれることを止めないもの」だ

固着は原抑圧のこと、で固着=原抑圧=穴。
欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。…原抑圧との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)「夢の臍 Nabel des Traums 」を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)


ここで最近知ったゲガーンによるボクのお気に入りの文を挿入しておこう。彼はミレール 派のたぶんナンバースリーぐらいのポジションにいるのだろうけど、ちょっとした芸術派で一番まともなタイプだな、ジュネやらアルトーやらに触れるとかして。

ラカンが導入した身体は…自ら享楽する身体[un corps qui se jouit]、つまり自体性愛的身体である。この身体はフロイトが固着と呼んだものによって徴付けられる。リビドーの固着、あるいは欲動の固着である。結局、固着が身体の物質性としての享楽の実体のなかに穴を為す。固着が無意識のリアルな穴を身体に掘る。[Une fixation qui finalement fait trou dans la substance jouissance qu'est le corps matériel, qui y creuse le trou réel de l'inconscient]。このリアルな穴は閉じられることはない。ラカンは結び目のトポロジーにてそれを示すことになる。要するに、無意識は治療されない。かつまた性関係を存在させる見込みはない。(ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, ON NE GUÉRIT PAS DE L'INCONSCIENT, 2015)

いまはこの文のみで漠然と示しておくだけにするけど
これはフロイトラカン理論のエッセンスみたいなもんだよ、
ボクにいわせればね。

さて話をカンタン系に戻せば、
ようは「書かれることを止めない」ってのは欲動の現実界
そしてこれが享楽

享楽は現実界にある la jouissance c'est du Réel. (ラカン、S23, 10 Février 1976)
現実界は書かれることを止めない。le Réel ne cesse pas de s'écrire.(ラカン, S25, 10 Janvier 1978)

だから「享楽は書かれることを止めない la jouissance ne cesse pas de s'écrire 」だ。

より厳密にいえば「享楽の固着は書かれることを止めない la fixation de jouissance ne cesse pas de s'écrire」だな。

フロイトが固着と呼んだもの…それは享楽の固着 [une fixation de jouissance]である。(J.-A. MILLER, L'Autre qui  n'existe pas et ses comités d'éthique, 26/2/97)


ところでアンコール以後、女性の享楽は享楽自体になった。

確かにラカンは第一期に「女性の享楽jouissance féminine」の特性を「男性の享楽jouissance masculine」との関係にて特徴づけた。ラカンがそうしたのは、セミネール18 、19、20とエトゥルデにおいてである。だが第二期がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle。その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)


だからこれまた、「女性の享楽は書かれることを止めない la jouissance féminine ne cesse pas de s'écrire」とすることができる。

くりかえせば「書かれることを止めない」=「無意識のエスの反復強迫」

やっぱりまたエスの起源ニーチェに登場していただかなくちゃな。

いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」1885年)

というわけで、「女性の享楽は夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる」
これが蚊居肢流決定版だな

ニーチェ?
ニーチェだってキライさ
彼のもとに訪れたら
きっとひどく居心地が悪くなるね
神経だけが醒めている一種の死の時に訪問するようなものさ

何事がわたしに起こったのか。だれがわたしに命令するのか。--ああ、わたしの女主人Herrinが怒って、それをわたしに要求するのだ。彼女がわたしに言ったのだ。彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるのだろうか。

きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻 stillste Stunde がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人meiner furchtbaren Herrinの名だ。

……そのとき、声なき声 ohne Stimme がわたしに語った。「おまえはエスを知っているではないか、ツァラトゥストラよ。しかしおまえはエスを語らない[Du weisst es, Zarathustra, aber du redest es nicht! ](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第2部「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」1884年)

ーーおまえは女性の享楽を知っているではないか

人はみな知っているよ
もし「最も静かな時刻」をもつなら。

人生の真昼時に、ひとは異様な安静の欲求におそわれることがある。まわりがひっそりと静まりかえり、物の声が遠くなり、だんだん遠くなっていく。彼の心臓は停止している。彼の目だけが生きている、--それは目だけが醒めている一種の死だ。それはほとんど不気味で病的に近い状態だ。しかし不愉快ではない。(ニーチェ『漂泊者とその影』308番)

たとえばSNSなんてのはこの時間を避けてやり過ごすための道具だな

話を戻せば、自我はエスの顰め面か、エスは自我の顰め面かってのはどっちとも言えないな、
フロイトの死の枕元にあった草稿の「原初はすべてがエスであった Ursprünglich war ja alles Esのであり、自我は、外界からの継続的な影響を通じてエスから発展してきたもの」からすれば「自我はエスの顰め面」だろうし、言語の世界に生きるわれわれにはジジェク風の「エスは自我の顰め面」(エスは現実の顰め面)のほうがピッタリくるんじゃないか。それにエスはリアルだけど、リアルのすべてがエスではないとしておきたいね。

女性の享楽は現実の顰め面の「最も静かな時刻」に訪れるよ、ボクの場合。

自我の、エスにたいする関係は、奔馬 überlegene Kraft des Pferdesを統御する騎手に比較されうる。騎手はこれを自分の力で行なうが、自我はかくれた力で行うという相違がある。この比較をつづけると、騎手が馬から落ちたくなければ、しばしば馬の行こうとするほうに進むしかないように、自我もエスの意志 Willen des Es を、あたかもそれが自分の意志ででもあるかのように、実行にうつすことがある。(フロイト『自我とエス』1923年)


もっともフロイトの「すべては夢だ」を受け入れるなら
夢という現実の顰め面にリアルなエスの奔馬が閃くとしてもいいさ

ストゥディウム studium は、つねにコード化 toujours codéされているが、プンクトゥム punctum は、そうではない。…それは鋭いが覆い隠され、沈黙のなかで叫んでいる。奇妙に矛盾した言い方だが、それはゆらめく閃光 un éclair qui flotte なのである。(ロラン・バルト『明るい部屋』第22章)

エスが「ゆらめく閃光」だって?
そんなことは言ってないよ
ときにそうかもな、ってだけさ

「ゆらめく閃光」ってのは
ボクの脳髄のなかでは
「軽やかな音もなく走りすぎていくものたち、 神々しいトカゲ」
とセットになってるんだな
これがエスなわけないだろ?
リアルかもしれないけど。

ああなんてステキなニーチェだろう、
海とひめごとをするニーチェは。
ああ「追憶のかすななおののきによってふるえている」なんて。


ほんとうにこの書(『曙光』)は、 岩塊のあいだで日なたぼっこをしている海獣のように、 身をまるめて、幸福そうに、 たっぷり日をあびて寝ころんでいるのだ。 つまるところ、わたし自身がその海獣だったのだ。

この本の一文一文が、ジェノヴァ附近の、 あの岩がごろごろしているところで、 考え出され、生捕りにされたものである、 そのときわたしのそばには誰もいず、 わたしはひとりで海と秘めごとをしていたのだった。wo ich allein war und noch mit dem Meere Heimlichkeiten hatte. 

いまでも偶然この本に手を触れることがあると、 ほとんどその中のすべての箇所がわたしには、 何か類のないものをふたたび深みから引き上げるためのつまみ場所となる。 そしてその引き上げたものの肌全体が、 追憶のかすななおののきによってふるえているのである。seine ganze Haut zittert von zarten Schaudern der Erinnerung.

この本における得意の技術は、 軽やかな音もなく走りすぎていくものたち、 わたしが神々しいトカゲgöttliche Eidechsenと名づけている瞬間を、 ちょっとのま釘づけにするという、 けっして容易ではない技術であるーー

といっても、あの若いギリシアの神が あわれなトカゲを突き刺したような残酷さでするのではない。 だが、尖ったもので突き刺すことでは、同じだ、 つまりわたしはペンで突き刺すのだ……
「いまだ輝き出でざるあまたの曙光あり」-- このインドの銘文が、この本の扉にかかげられてある。(ニーチェ『この人を見よ』)




最後にこう言っておこう、ラカンの女性の享楽とはニーチェの力への意志のことだと。これに反論するヤツは一瞬にして叩きのめされるコトデセウ・・・

力への意志は、原情動形式であり、その他の情動は単にその発現形態である。Daß der Wille zur Macht die primitive Affekt-Form ist, daß alle anderen Affekte nur seine Ausgestaltungen sind: …

すべての欲動力(すべての駆り立てる力 alle treibende Kraft)は力への意志であり、それ以外にどんな身体的力、力動的力、心的力もない。Daß alle treibende Kraft Wille zur Macht ist, das es keine physische, dynamische oder psychische Kraft außerdem giebt...

「力への意志」は、一種の意志であろうか、それとも「意志」という概念と同一なものであろうか?ist "Wille zur Macht" eine Art "Wille" oder identisch mit dem Begriff "Wille"? ……

――私の命題はこうである。これまでの心理学における「意志」は、是認しがたい普遍化であるということ。そのような意志はまったく存在しないこと。 mein Satz ist: daß Wille der bisherigen Psychologie, eine ungerechtfertigte Verallgemeinerung ist, daß es diesen Willen gar nicht giebt, (ニーチェ「力への意志」遺稿 Kapitel 4, Anfang 1888)

(ニーチェ「力への意志」遺稿 Kapitel 4, Anfang 1888)
エスの力能 Macht des Esは、個々の有機体的生の真の意図 eigentliche Lebensabsicht des Einzelwesensを表す。それは生得的欲求 Bedürfnisse の満足に基づいている。己を生きたままにすることsich am Leben zu erhalten 、不安の手段により危険から己を保護することsich durch die Angst vor Gefahren zu schützen、そのような目的はエスにはない。それは自我の仕事である。… エスの欲求によって引き起こされる緊張 Bedürfnisspannungen の背後にあると想定された力 Kräfte は、欲動 Triebeと呼ばれる。欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』第2章、死後出版1940年)