女は、見せかけ semblant に関して、とても偉大な自由をもっている!la femme a une très grande liberté à l'endroit du semblant ! (Lacan、S18, 20 Janvier 1971)
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この2年ぐらいのあいだに何度も繰り返した話だが、再度確認の意味で女性の享楽について可能なかぎり簡潔にまとめておこう。まずラカンのアンコールセミネールまでの女性の享楽をジジェク注釈を中心に掲げる。
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女は男よりも言語のなかにいる
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女性の「全てではない」(非全体 pas-tout) とは、次のことを意味する、女性の主体性には、ファルス的象徴機能に徴づけられないものはなにもない。それどころか、女は男よりもより「言語のなか」にいる。この理由で、前象徴的な「女性の実体」に言及するすべては、ミスリーディングだ。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)
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男たちはサイバースペースを孤独な遊戯としての自慰装置として使う傾向が(女たちに比べて)ずっとある。馬鹿げた反復的な快楽に耽るためにだ。他方、女たちというのはチャットルームに参加する傾向がずっとある、サイバースペースを誘惑的コミュニケーションとして使用するために。
この例というのは標準的なラカンの誤読を取り扱うのに決定的である。その誤謬というのは女性の享楽というのは言葉の彼岸にあるた神秘的至福、象徴秩序から逃れた領野にあるという考え方だ。まったく逆に、女たちは例外なしに言語の領域に浸かり込んでいる。(Slavoj Zizek、THE REAL OF SEXUAL DIFFERENCE、2004)
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女が、自然、欲動、身体、ソマティック等々を表わし、他方、男は文化、象徴的なもの、プシュケー(精神)を表わす等々。しかしこれは、日常の経験からも臨床診療からも確められない。女性のエロティシズムやアイデンティティは、男性よりもはるかに象徴的なものに引きつけられているようにみえる。聖書が言うように、またそうでなくても、女は大部分、耳で考え、言葉で誘惑される。反対に、なににも介入されない、欲動に衝き動かされたセクシャリティは、ゲイであれストレイトであれ、男性のエロティシズムの特性のようにはるかに思える。(ポール・バーハウPaul Verhaeghe、Phallacies of binary reasoning: drive beyond gender、2004)
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女は例外なくファルス享楽のなかにいる
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女はファルス関数のなかに十全にいる[ elle y est à plein] (ラカン、セミネール20、20 Février 1973)
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男性の論理の 「普遍性・全体(S2)」とは「例外S1」によって支えられている。たとえば、女は男にとって全てである、キャリア・公的な生活の例外S1を除いて。
他方、女性の論理の「非全体a」とは、「例外なし$」ゆえの非全体である。例外がないため全体・普遍性はない(非一貫性)。したがって非全体が「外立」する。たとえば女の性生活にとって、男は非全体 pas-tout である。なぜなら女にとって性化されない何ものもないから。
ラカンは「性別化の定式」において、性差を構成する非一貫性を詳述した。そこでは、男性側は普遍的機能とその構成的例外によって定義され、女性側は「非全体」 (pastout) のパラドクスによって定義される(例外はない。そしてまさにその理由で、集合は非全体であり全体化されない)。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)
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ファルス享楽の彼岸に女がいるという考えこそ男性的幻想
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ラカンが「女は存在しない」と言うとき、レーニン風に考えなくてはならない。そしてこう問うべきだ、「どの女だって?」、「誰にとって女は存在しないんだ?」と。ふたたびここでのポイントは、女がふつう思われているような仕方、象徴秩序の内部に存在しないとか、象徴界に統合されるのに抵抗するとかではないことだ。私は言いたくなる、これはほとんど正反対だと。
単純化するために、最初に私のテーゼをプレゼンしよう。大衆的な紹介、とくにフェミニストによるラカンの紹介では、ふううこの公式にのみ焦点があてられ次のように言うのだ、「そうだわ、女たちのすべてが、ファルス秩序に統合されるわけじゃないわ。女のなかには何かがあるのよ、片足はファリックな秩序に踏み込み、もう一方の足は神秘的な女性の享楽に踏み込んでいるのよね、それが何だかわからないけれど」。
私のテーゼは、とても単純化して言うなら、全ラカンの要点は、我々は女を統合化できないから、例外がないということなんだ。別の言い方をすれば、男性の論理の究極の例は、まさに、女性のエッセンス、永遠の女性は、象徴秩序の外に除外されている、彼岸にあるという考え方だ。これは究極的な男性の幻想だ。そして、ラカンが「女は存在しない」というとき、私はまさにこう思うのだ、すなわち、象徴秩序から除外された言葉にあらわせない神秘的な「彼岸」こそが存在しない、と。わかるだろうか、私の言っていることが? (Zizek Connections of the Freudian Field to Philosophy and Popular Culture, 1995)
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性別化の式の解釈は種々あるにしろ、基本はファルス享楽(言語内の享楽)から女性の享楽が考えられていた。だがラカンのこういった思考はアンコール以後移行があったとするのがジャック=アラン・ミレールの捉え方である。
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ラカンは女性の享楽 jouissance féminine の特性を男性の享楽 jouissance masculine との関係で確認した。それは、セミネール18 、19、20とエトゥルディにおいてなされた。だが第2期がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される[ la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle]。
その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である [c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle]。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)
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性別化の式 formules de la sexuationにおいて、ラカンは、数学的論理の織物のなかに「セクシャリティの袋小路 impasses de la sexualité」を把握しようとした。これは英雄的試みだった、数学的論理の方法にて精神分析を「現実界の科学 science du réel 」へと作り上げるために。しかしそれは、享楽をファルス関数の記号のなかの檻に幽閉することなしでは為されえない。
(⋯⋯結局、性別化の式は)、「身体とララング(≒サントーム)とのあいだの最初期の衝撃」の後に介入された「二次的結果 conséquence secondaire」にすぎない。この最初期の衝撃は、「法なき現実界 réel sans loi」 、「論理なき現実界 réel sans logique」を構成する。論理はのちに導入されるだけである。(J.-A. MILLER,「21世紀における現実界 LE RÉEL AU XXIèmeSIÈCLE」2012年)
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そしてジジェクはこのミレール による解釈に強く異議表明している。
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象徴界の外部の「純粋な」現実界 the “pure” Real、象徴界によっていまだ汚染されていない或る現実界に向けてのミレールの探求。彼はその現実界をラカンに属するものだと考えている。⋯⋯⋯
ミレールによれば、ラカンの「性別化の式」でさえ、法の外部にある「純粋な」現実界を混乱させる象徴的苦心作のカテゴリーに落ちる。
⋯⋯この論拠の流れは、厳密なラカン派の立場からは、何かが途轍もなく間違っているsomething is terribly wrong。(Slavoj Žižek: Am I a Philosopher?, 2016)
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わたくしの見るかぎり、ジジェクはアンコール以後のラカンの移行をまったく捉えていない。ジジェクの反駁には明らかに無理がある。もっともアンコールまでの女性の享楽が完全に否定されたわけではない。二次的構築物にすぎないというだけであり、たとえば経験論的には「女は男よりも言語のなかにいる」というのはかなりの人がそう感受するのではないだろうか。冒頭のラカン文はそのことを示しており、「女は象徴秩序という見せかけに関して男よりもずっと自由に振る舞う」という意味合いをもっている。
ミレール側はジジェクに対して次のように応じている。
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パンドラの箱があまりにも長く開けられている。われわれは今、ジジェクをもっている。私のセミネールで彼に教えた基本原則を使って、ラカンを「ジジェク化」する彼だ。われわれはバディウをもっている。ラカンを「バディウ化」する彼だ。全くよくない。われわれは、パンドラの箱をもう一度閉じる時だ。(ジャック=アラン・ミレール 、Eve Miller-Rose et Daniel Roy, Entretien nocturne avec Jacques-Alain Miller, 2017年)
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ジジェクは、例えば、対象aを彼がパララックス・ヴュー、ーーある観点からの小さな逸脱ーーと呼ぶものの類似物とする。ジジェクは、これによって哲学者の気まぐれの機能fonction de son caprice de philosopheを対象aに適用する。対象aは対象もどきabjetである。幸いにもこのゴマカシはあまりにも瞭然としている。そんなものは機能しない。Heureusement, le truc est trop évident. Ça ne marche pas. (Jacques-Alain Miller, Jacques Rancière, une politique des oasis, 2017年)
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精神分析の領域において、ジャック=アラン・ミレール周りのラカニアンは、反ジジェク の猛烈なキャンペーンを始めた。ジジェク をペテン師fraudだと公然と非難しているのである。 (What Went Wrong With Žižek? 2019)
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これは誰もそう言っているラカニアンを直接的には知らないが、テュケーは象徴界の中の穴Trou、オートマトン(享楽の固着)は、想像界と現実界の重なり箇所にある真の穴vrai Trou に相当するとわたくしは考えている。
テュケー
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テュケーtuchéの機能は、出会いとしての現実界の機能fonction du réel ということである。(ラカン、S11、12 Février 1964)
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現実界は、見せかけのなかに穴を為す。ce qui est réel c'est ce qui fait trou dans ce semblant.(ラカン、S18, 20 Janvier 1971)
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現実界は形式化の行き詰まりに刻印される以外の何ものでもない le réel ne saurait s'inscrire que d'une impasse de la formalisation(LACAN, S20、20 Mars 1973)
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(テュケーとしての)象徴的形式化の限界との出会い、書かれることが不可能なものとしての現実界との出会いとは、ラカンの表現によれは、象徴界のなかの「現実界の機能 fonction du réel」である。そしてこれは象徴界外の現実界と区別されなければならない。(コレット・ソレール Colette Soler, L'inconscient Réinventé、2009)
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現実界の
オートマトン
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現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)
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サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)
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サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (ミレール , L'Être et l'Un、30 mars 2011)
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純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps …(Miller, L'Être et l'Un、2/3/2011)
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享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps…享楽はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)
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疑いもなく、症状(原症状=サントーム)は享楽の固着である。sans doute, le symptôme est une fixation de jouissance. (J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 12/03/2008)
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反復を引き起こす享楽の固着 fixation de jouissance qui cause la répétition、(Ana Viganó, Le continu et le discontinu Tensions et approches d'une clinique multiple, 2018)
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後期ラカンの反復は、フロイトの反復強迫であり、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/2/2011)
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※中期ラカンのオートマトンは象徴界のオートマトンであることに注意。
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上にセミネール20「アンコール」以降に第2期があるとされていたが、厳密にはアンコールの5月からミレール 曰くの後期ラカンが始まっている。
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現実界、それは話す身体の神秘、無意識の神秘である Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient(ラカン、S20、15 mai 1973)
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すべてが見せかけsemblantではない。或る現実界 un réel がある。社会的結びつき lien social の現実界は性的非関係である。無意識の現実界は、話す身体 le corps parlant である。象徴秩序が、現実界を統制し、現実界に象徴的法を課す知として考えられていた限り、臨床は、神経症と精神病とにあいだの対立によって支配されていた。象徴秩序は今、見せかけのシステムと認知されている。象徴秩序は現実界を統治するのではなく、むしろ現実界に従属していると。それは、「性関係はない rapport sexuel qu'il n'y a pas」という現実界へ応答するシステムである。(ジャック=アラン・ミレール 、L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT、2014)
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真理は本来的に嘘と同じ本質を持っている。(フロイトが『心理学草稿』1895年で指摘した)proton pseudos[πρωτoυ πσευδoς] (ヒステリー的嘘・誤った結びつけ)もまた究極の欺瞞である。嘘をつかないものは享楽、話す身体の享楽である Ce qui ne ment pas, c'est la jouissance, la ou les jouissances du corps parlant。(JACQUES-ALAIN MILLER, L'inconscient et le corps parlant, 2014)
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