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2020年3月31日火曜日

マスクされた鳥居とマスクする巫女

いやあ、すばらしいじゃないか、貴君!




とっても才能があるよ、物理学なんてケッタイなことやってないで、巫女専門の写真家になったらどうだろう?



それとも物理学的に綿密に構成された構図なんだろうか?



深さの問題としてとらえれば「マスクされた精神病」masked psychosis のある一方、神経症が精神病(あるいは身体病)をマスクすることも多い(“masking neurosis”)。ヤップは、文化的変異を基礎的な病いの被覆(うわおおい overlay)と考えていた。

私は精神病に、非常に古い時代に有用であったものの空転と失調の行きつく涯をみた(『分裂病と人類』1982年)。分裂病と、うつ病の病前性格の一つである執着性気質の二つについてであったが、要するに、人類に骨がらみの、歴史の古い病いということだ。これは「文化依存症候群」のほうが古型であるという通念に逆らい、いずれにせよ証明はできないが、より整合的な臆説でありうると思う。むろん文化依存症候群の総体が新しいのではなく、表現型の可変性が高いという意味である。(……)
逆に、軽症な人のほうへと目を移してゆけば、文化的ステロタイプの中から次第に個人性が卓越してくるのではないか。すなわち文化依存症候群から、普遍症候群の反対側に個人症候群にむかい、次第にその色を濃くするスペクトラム帯があるということである。力動精神医学が長く神経症に自己限定し、フロイトが精神病治療に対してほとんど忌避に近い態度をとったものおそらくそのためだろう。(中井久夫『治療文化論』1990年)





欠如と穴
穴 trou の概念は、欠如 manque の概念とは異なる。この穴の概念が、後期ラカンの教えを以前のラカンとを異なったものにする。

この相違は何か? 人が欠如を語るとき、場 place は残ったままである。欠如とは、場のなかに刻まれた不在 absence を意味する。欠如は場の秩序に従う。場は、欠如によって影響を受けない。この理由で、まさに他の諸要素が、ある要素の《欠如している manque》場を占めることができる。人は置換 permutation することができるのである。置換とは、欠如が機能していることを意味する。(⋯⋯

ちょうど反対のことが穴 trou について言える。ラカンは後期の教えで、この穴の概念を練り上げた。穴は、欠如とは対照的に、秩序の消滅・場の秩序の消滅 disparition de l'ordre, de l'ordre des places を意味する。穴は、組合せ規則の場処自体の消滅である Le trou comporte la disparition du lieu même de la combinatoire。これが、斜線を引かれた大他者 grand A barré (Ⱥ) の最も深い価値である。ここで、Ⱥ は大他者のなかの欠如を意味しない Grand A barré ne veut pas dire ici un manque dans l'Autre 。そうではなく、Ⱥ は大他者の場における穴 à la place de l'Autre un trou、組合せ規則の消滅 disparition de la combinatoire である。(ジャック=アラン・ミレール、後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan, LE LIEU ET LE LIEN , 6 juin 2001)




むかしネット上で次の写真をひろって珍重してたんだけど、でもどこか物足りなかったんだ。穴埋めの仕方ってのかな






不気味な穴
不気味なもの Unheimlich とは、…私が(-φ)[去勢]を置いた場に現れる。…それは欠如のイマージュimage du manqueではない。…私は(-φ)を、欠如が欠如している manque vient à manquerと表現しうる。(ラカン, S10, 28 Novembre 1962)
欠如の欠如 が現実界を為す Le manque du manque fait le réel(AE573、1976)
現実界は…穴=トラウマを為す。le Réel […] ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)
女性器 weibliche Genitale という不気味なもの Unheimliche は、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷 Heimat への入口である。冗談にも「愛とは郷愁だ Liebe ist Heimweh」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女性器 Genitale、あるいは母胎 Leib der Mutter であるとみなしてよい。(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)

女陰のブラックホール
(『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 l'objet primitif そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落 abîme de l'organe féminin、すべてを呑み込む湾門であり裂孔 le gouffre et la béance de la bouche、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer …(ラカン、S2, 16 Mars 1955)
ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女の形態の光景の顕現、女のヴェールが落ちて、ブラックホールtrou noir のみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。(Lacan, Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir, Écrits 750、1958)





神というLȺ femme (存在しない女というもの)と女たち
女というものは存在しない。女たちはいる。だが女というものは、人間にとっての夢である。La femme n'existe pas. Il y des femmes, mais La femme, c'est un rêve de l'homme.(Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme, 1975)
問題となっている「女というもの」は、「神の別の名」である。その理由で「女というものは存在しない」のである。La femme dont il s'agit est un autre nom de Dieu, et c'est en quoi elle n'existe pas, (ラカン、S23、18 Novembre 1975)
「女というものは存在しない」は、女というものの場処が存在しないことを意味するのではなく、この場処が本源的に空虚のままだということを意味する。場処が空虚だといっても、人が何ものかと出会うことを妨げはしない。La femme n’existe pas ne signifie pas que le lieu de la femme n’existe pas mais que ce lieu demeure essentiellement vide. Que ce lieu reste vide n’empêche pas que l’on puisse y rencontrer quelque chose(J-A. MILLER, Des semblants dans la relation entre les sexes, 1997)
女というものは存在しないLa femme n’existe pas。しかし存在しないからこそ、人は女というものを夢見るのです。女というものは表象の水準でniveau du signifiantは見いだせないからこそ、我々は女について幻想をし、女の絵を描き、賛美し、写真を取って複製し、その本質を探ろうとすることをやめないのです。(ジャック=アラン・ミレール「エル・ピロポ El Piropo 」1981年)





妣が国=祀られた母
すさのをのみことが、青山を枯山なす迄慕ひ歎き、いなひのみことが、波の穂を踏んで渡られた「妣が国」は、われ〳〵の祖たちの恋慕した魂のふる郷であつたのであらう。(折口信夫「妣国へ・常世へ 」『古代研究 民俗学篇第一』1929年)
……「妣が国」と言ふ語が、古代日本人の頭に深く印象した。妣は祀られた母と言ふ義である。(折口信夫「最古日本の女性生活の根柢」『古代研究 民俗学篇第一』1929年)






偉大な母なる神と父なる諸神
偉大な母なる神 große Muttergottheit」⋯⋯もっとも母なる神々は、男性の神々によって代替される Muttergottheiten durch männliche Götter(フロイト『モーセと一神教』1938年)
偉大なる母、神たちのあいだで最初の「白い神性」、父の諸宗教に先立つ神である。la Grande Mère, première parmi les dieux, la Déesse blanche, celle qui, nous dit-on, a précédé les religions du père (Jacques-Alain Miller, MÈREFEMME   2015)
ラカンによるフランク・ヴェーデキント『春のめざめ』の短い序文のなかにこうある。父は、母なる神性・白い神性の諸名の一つに過ぎない noms de la déesse maternelle, la Déesse blanche、父は《母の享楽において大他者のままである l'Autre à jamais dans sa jouissance》と(AE563, 1974)。(Jacques-Alain Miller、Religion, Psychoanalysis、2003)
ラカンは言っている、最も根源的父の諸名 Les Noms du Père は、母なる神だと。母なる神は父の諸名に先立つ異教である。ユダヤ的父の諸名の異教は、母なる神の後釜に座った。おそらく最初期の父の諸名は、母の名である the earliest of the Names of the Father is the name of the Mother 。(ジャック=アラン・ミレールThe Non-existent Seminar 、1991)
ラカンは女は存在しないと言ったなら、はっきりしているのは、母は存在することである。母はいる。Si Lacan a dit La femme n'existe pas, c'était pour faire entendre que la mère, elle, existe. Il y a la mère. (Jacques-Alain Miller, MÈREFEMME   2015)
家父長制とファルス中心主義は、原初の全能的母権制の青白い反影にすぎない。the patriarchal system and phallocentrism are merely pale reflections of an originally omnipotent matriarchal system (PAUL VERHAEGHE, Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE, 1998)





ああ、《竹藪に榧の実がしきりに落ちる/アテネの女神に似た髪を結う/ノビラのおつかさんの/「なかさおはいりなせ--」という/言葉…》(西脇順三郎「留守」)