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2020年4月4日土曜日

その人の満足と安全とを自分と同等以上に置く時、愛がある

たぶんかなりの人は、家族や恋人への愛を次のように考えているんじゃないかな。

その人の満足と安全とを自分と同等以上に置く時、愛があり、
そうでないならばない
人は、なぜ死について語る時、愛についても語らないのであろうか。愛と性とを結び付けすぎているからではないか。愛は必ずしも性を前提としない。性行為が必ずしも(いちおう)前提とせずに成り立つのと同じである。私はサリヴァンの思春期直前の愛の定義を思い出す。それは「その人の満足と安全とを自分と同等以上に置く時、愛があり、そうでないならばない」というものである。平時にはいささかロマンチックに響く定義である。私も「いざという時、その用意があるかもしれない」ぐらいにゆるめたい。しかし、いずれにせよ、死別の時にはこれは切実な実態である。死別のつらさは、たとえ一しずくでもこの定義の愛であってのことである(ここには性の出番がないことはいうまでもあるまい)。(中井久夫「「「祈り」を込めない処方は効かない(?) 」)




でもたとえば飢餓状態になるとこうなるらしいよ、例外はあるだろうけどね。


母子にかくれて祖母と食べ物をわけ合う祖父
私の世代、つまり敗戦の時、小学五、六年から中学一年生であった人で「オジイサンダイスキ」の方が少なくない…。明治人の美化は、わが世代の宿痾かもしれない。私もその例に漏れない。大正から昭和初期という時代を「発見」するのが実に遅かった。祖父を生きる上での「モデル」とすることが少なくなかった。…

最晩年の祖父は私たち母子にかくれて祖母と食べ物をわけ合う老人となって私を失望させた。昭和十九年も終りに近づき、祖母が卒中でにわかに世を去った後の祖父は、仏壇の前に早朝から坐って鐘を叩き、急速に衰えていった。食料の乏しさが多くの老人の生命を奪っていった。二十年七月一八日、米艦船機の至近弾がわが家をゆるがせた。超低空で航下する敵機は実に大きく見えた。祖父は突然空にむかって何ごとかを絶叫した。翌日、私に「オジイサンは死ぬ。遺言を書き取れ」と言い、それから食を絶って四日後に死んだ。(中井久夫「Y夫人のこと」初出1993『家族の深淵』所収)
一個のパンを父と子が死に物狂いでとりあいしたり、母が子を捨てて逃げていく
私は疲れきっていた。虚脱状態だった。火焔から逃げるのにふらふらになっていたといっていい。何を考える気力もなかった。それに、私は、あまりにも多くのものを見すぎていた。それこそ、何もかも。たとえば、私は爆弾が落ちるのを見た。…渦まく火焔を見た。…黒焦げの死体を見た。その死体を無造作に片づける自分の手を見た。死体のそばで平気でものを食べる自分たちを見た。高貴な精神が、一瞬にして醜悪なものにかわるのを見た。一個のパンを父と子が死に物狂いでとりあいしたり、母が子を捨てて逃げていくのを見た。人間のもつどうしようもないみにくさ、いやらしさも見た。そして、その人間の一人にすぎない自分を、私は見た。(『小田実全仕事』第八巻六四貢)


前回、コロナウイルス蔓延による電力供給ストップ➡︎飢死の可能性の話を引用したけどさ、肺炎になって死ぬのはやむえないけど、腹が減って死ぬのは御免蒙りたいね。

みんなもそうだろ?

だったら食糧自給率のきわめて低い日本の若くて健康な人は、この際、農業コミューンでも作ったらどうだろ? ソーラーパネルでも導入してさ。農業ロボットだってあることだし。だから「底辺に近い生活」ってことはまったくないよ。



私が恵まれているからだといえば、反論できない。確かに「今は死ぬに死ねない」という思いの年月もあった。しかし、私は底辺に近い生活も、スッと入ってしまいさえすれば何とか生きていけ、そこに生きる悦びもあるということを、戦後の窮乏の中で一応経験している。(中井久夫「私の死生観」初出1994『精神科医がものを書くとき〔Ⅱ〕』所収)



ツイッターで何やらのクラスタ(村)で固まって、「アーバン・トライバリズム(アーバン部族中心主義)」の部族間闘争でヒステリー起こしてるよりずっと幸せだと思うよ。

でもボクの場合、どうしてもビールがいるな。煙草だって。

男女、オチンチンを立てかけ、オメコを置いて、つまり乱交をさけて、「一日の仕事の終りには一杯の黒麦酒」ってのがボクの桃源郷だね、



六月      茨木のり子

どこかに美しい村はないか
一日の仕事の終りには一杯の黒麦酒
鍬を立てかけ 籠を置き
男も女も大きなジョッキをかたむける

どこか美しい街はないか
食べられる実をつけた街路樹が
どこまでも続き すみれいろした夕暮は
若者のやさしいさざめきで満ち満ちる

どこかに美しい人と人との力はないか
同じ時代をともに生きる
したしさとおかしさとそうして怒りが
鋭い力となって 立ちあらわれる




…………

※付記


ナルシシズム=自分の身体しか愛さない
フロイトが『ナルシシズム入門』で語ったこと、それは、我々は己自身が貯えとしているリビドーと呼ばれる湿った物質 substance humideでもって他者を愛しているということである。…つまり目の前の対象を囲んで、浸し、濡らすのである。愛を湿ったものに結びつけるのは私ではなく、去年注釈を加えた『饗宴』の中にあることである。…
愛の形而上学の倫理……「愛の条件 Liebesbedingung」(フロイト) の本源的要素……私が愛するもの……ここで愛と呼ばれるものは、ある意味で、《私は自分の身体しか愛さない Je n'aime que mon corps》ということである。たとえ私はこの愛を他者の身体 le corps de l'autreに転移させる transfèreときにでもやはりそうなのである。(ラカン, S9, 21 Février 1962)
愛の喜劇
器質的な痛苦や不快に苦しめられている者が外界の事物に対して、それらが自分の苦痛と無関係なものであるかぎりは関心を失うというのは周知の事実であるし、また自明のことであるように思われる。これをさらに詳しく観察してみると、病気に苦しめられているかぎりは、彼はリピドー的関心 libidinöse Interesse を自分の愛の対象 Liebesobjekten から引きあげ、愛することをやめているのがわかる。

このような事実が月並みだからといって、これをリビドー理論 Libidotheorie の用語に翻訳することをはばかる必要はない。したがってわれわれは言うことができる、病人は彼のリビドー 備給Libidobesetzungenを彼の自我の上に引き戻し、全快後にふたたび送り出すのだと。
W・ブッシュは歯痛に悩む詩人のことを、「もっぱら奥歯の小さな洞のなかに逗留している」と述べている。リビドーと自我の関心 Libido und Ichinteresse とがこの場合は同じ運命をもち、またしても互いに分かちがたいものになっている。周知の病人のエゴイズムなるものはこの両者をうちにふくんでいる。われわれが病人のエゴイズムを分かりきったものと考えているが、それは病気になればわれわれもまた同じように振舞うことを確信しているからである。激しく燃えあがっている恋心が、肉体上の障害のために追いはらわれ、完全な無関心が突然それにとってかわる有様は、喜劇にふさわしい好題目である。(フロイト『ナルシシズム入門』第2章、1914年)



ナルシシズム=自閉症=自体性愛(自己身体エロス)=自閉的享楽
ナルシシズム的とは、ブロイラーならおそらく自閉的と呼ぶだろう。narzißtischen ― Bleuler würde vielleicht sagen: autistischen (フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)
自閉症はフロイトが自体性愛と呼ぶものとほとんど同じものである Autismus ist ungefähr das gleiche, was Freud Autoerotismus nenn。 (オイゲン・ブロイラー『早発性痴呆または精神分裂病群 Dementia praecox oder Gruppe der Schizophrenien』1911年)
自体性愛Autoerotismus。…この性的活動 Sexualbetätigung の最も著しい特徴は、この欲動 Trieb は他の人andere Personen に向けられたものではなく、自己身体 eigenen Körper から満足を得るbefriedigtことである。それは自体性愛的 autoerotischである。(フロイト『性欲論三篇』1905年)
自閉的享楽としての自己身体の享楽 jouissance du corps propre, comme jouissance autiste. (MILLER, LE LIEU ET LE LIEN, 2000)

享楽=自体性愛=リビドー 
ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛 auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)
ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)
享楽の名、それはリビドーというフロイト用語と等価である。le nom de jouissance[…] le terme freudien de libido auquel, par endroit, on peut le faire équivaloir.(J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 30/01/2008)