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2021年4月29日木曜日

埋まるかい、あの穴?


まだわかんねえかな、わかんねえだろうよ。何度も言ってるつもりだが、フロイトラカンってのはトラウマの臨床家・トラウマの理論家だ。この基本が認知されてないのなら日本で流通してるフロイトラカン注釈書の質が悪すぎるんだ。



問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている。le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme.  (Lacan, S23, 13 Avril 1976)


で、トラウマの別名は穴ウマだ、ーー《現実界は穴=トラウマを為す[le Réel … ça fait « troumatisme ».]》(ラカン、S2119 Février 1974)。象徴界(言語界)や想像界(イマージュ界)ってのはこのリアルな穴に対する防衛に過ぎない。



明らかに、現実界はそれ自体トラウマ的であり、基本的情動として原不安を生む。想像界と象徴界内での心的操作はこのトラウマ的現実界に対する防衛を構築することを目指す。[The Real is apparently traumatic in itself and yields a primal anxiety as a basic affect. The psychical working-over of it within the Imaginary and the Symbolic aims at building up a defence against this traumatic Real.](ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Does the woman exist? 1997)

人はそれぞれの仕方で、リアルな穴を穴埋めしている。イデオロギーを信仰したり、父なる神を信仰したり。「真理」とかいってさ。ーー《父の名という穴埋め bouchon qu'est un Nom du Père 》 (Lacan, S17, 18 Mars 1970)、あるいは《父は症状である le père est un symptôme》(S23, 18 Novembre 1975)



このたびは私は決定的な問いを発したい、すなわち、嘘と確信とのあいだには総じて一つの対立があるのであろうか? ――全世界がそう信じている、しかし全世界の信じていないものなど何もない! Diesmal möchte ich die entscheidende Frage tun: besteht zwischen Lüge und Überzeugung überhaupt ein Gegensatz? ― Alle Welt glaubt es; aber was glaubt nicht alle Welt! (ニーチェ『反キリスト者』第55番 )



この信仰=嘘の別名は妄想だ。


実際は、妄想は象徴的なものだ。妄想は象徴的迷信だ。妄想はまた世界を秩序づけうる。En tout état de cause, un délire est symbolique. Un délire est un conte symbolique. Un délire est aussi capable d'ordonner un monde. 〔・・・〕私は言いうる、ラカンはその最後の教えで、すべての象徴秩序は妄想だと言うことに近づいたと。Je dois dire que dans son dernier enseignement, Lacan est proche de dire que tout l'ordre symbolique est délire(J.-A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire;  2009)


要するに妄想とは言語によって世界を秩序化することであり悪いもんじゃないよ、マジで信仰しなかったらな、ブラセボ効果があるさ、ーー《象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage》(Lacan, S25, 10 Janvier 1978)


言語化への努力はつねに存在する。それは「世界の言語化」によって世界を減圧し、貧困化し、論弁化して秩序だてることができるからである。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)



穴の話に戻そう。


ラカンの現実界は、フロイトがトラウマと呼んだものである。ラカンの現実界は常にトラウマ的である。それは言説のなかの穴である。ce réel de Lacan […], c'est ce que Freud a appelé le trauma. Le réel de Lacan est toujours traumatique. C'est un trou dans le discours.  (J.-A. Miller, La psychanalyse, sa place parmi les sciences, mars 2011)


たとえばラカンが《現実界のなかの穴は主体である。Un trou dans le réel, voilà le sujet.》 (Lacan, S13, 15 Décembre 1965)と言うとき、主体はみなトラウマ化されてるってことだーー《人はみなトラウマ化されている。この意味はすべての人にとって穴があるということである[tout le monde est traumatisé …ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou.  ]》(J.-A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010)



最晩年にはこう言っている。


現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (Lâcn, S 25, 10 Janvier 1978)


この「書かれることを止めない」とは反復強迫のことであり、現実界はトラウマ、したがって「トラウマは反復強迫する」となる。


フロイトにとって症状は反復強迫[compulsion de répétition]に結びついたこの「止めないもの qui ne cesse pas」である。『制止、症状、不安』の第10章にて、フロイトは指摘している、症状は固着を意味し、固着する要素は無意識のエスの反復強迫に見出されると。[le symptôme implique une fixation et que le facteur de cette fixation est à trouver dans la compulsion de répétition du ça inconscient. ]フロイトはこの論文で、症状を記述するとき、欲動要求の絶え間なさを常に示している。欲動は、行使されることを止めないもの[ne cesse pas de s'exercer]である.。(J.-A. MILLER, L'Autre qui  n'existe pas  et ses comités d'éthique - 26/2/97)


固着とは何度も示しているように「トラウマへの固着」Fixierung an das Traumaである。




要するに身体の出来事という「トラウマへの固着=不変の個性刻印」は永遠回帰する。これがフロイトによるニーチェの永遠回帰の脱神秘化だ。


人はみなそれぞれの仕方で永遠回帰する出来事がある筈だよ。


人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する自己固有の出来事を持っている。Hat man Charakter, so hat man auch sein typisches Erlebniss, das immer wiederkommt.(ニーチェ『善悪の彼岸』70番、1886年)

享楽はまさに固着にある。人は常にその固着に回帰する。La jouissance, c'est vraiment à la fixation […] on y revient toujours. (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)


ーー《享楽は身体の出来事であり、トラウマの審級にある。la jouissance est un événement de corps.…de l'ordre du traumatisme 》(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)


ここでの享楽はもちろん《現実界の享楽 Jouissance du réel (Lacan, S23, 10 Février 1976)のことだ。


現実界は「常に同じ場処に回帰するもの」として現れる。le réel est apparu comme « ce qui revient toujours à la même place »  (Lacan, S16, 05  Mars  1969 )



次のフロイト版も何度も引用しているけど再び掲げておくよ


すべての神経症的障害の原因は混合的なものである[Die Ätiologie aller neurotischen Störungen ist ja eine gemischte; ]。すなわち、それはあまりに強すぎる欲動が自我による飼い馴らしに反抗しているか、あるいは幼児期の、すなわち初期の外傷体験 を、当時未成熟だった自我が支配することができなかったためかのいずれかである[es handelt sich entweder um überstarke, also gegen die Bändigung durch das Ich widerspenstige Triebe, oder um die Wirkung von frühzeitigen, d. h. vorzeitigen Traumen, deren ein unreifes Ich nicht Herr werden konnte. ]


概してそれは二つの契機、素因的なものと偶然的なものとの結びつきによる作用である。素因的なものが強ければ強いほど、速やかに外傷は固着を生じやすく、精神発達の障害を後に残すものであるし、外傷的なものが強ければ強いほどますます確実に、正常な欲動状態においてもその障害が現われる可能性は増大する。[In der Regel um ein Zusammenwirken beider Momente, des konstitutionellen und des akzidentellen. Je stärker das erstere, desto eher wird ein Trauma zur Fixierung führen und eine Entwicklungsstörung zurücklassen; je stärker das Trauma, desto sicherer wird es seine Schädigung auch unter normalen Triebverhältnissen äußern. ](フロイト『終りある分析と終りなき分析』第2章、1937年)


フロイトは上で「神経症」と言っているけど、これは通常の神経症(精神神経症)だけでなく、現勢神経症も含んでおり、基本的にはこの二つがフロイトにとって全症状だ。


現勢神経症の症状は、しばしば、精神神経症の症状の核であり先駆である。das Symptom der Aktualneurose ist nämlich häufig der Kern und die Vorstufe des psychoneurotischen Symptoms. (フロイト『精神分析入門』第24講、1917年)


次の文もこの文脈のなかでフロイトは「神経症」という語彙を使っている。


神経症はトラウマの病いと等価とみなしうる。その情動的特徴が甚だしく強烈なトラウマ的出来事を取り扱えないことにより、神経症は生じる。Die Neurose wäre einer traumatischen Erkrankung gleichzusetzen und entstünde durch die Unfähigkeit, ein überstark affektbetontes Erlebnis zu erledigen. (フロイト『精神分析入門』第18講「トラウマへの固着 Die Fixierung an das Trauma」1917年)


で、最後のフロイトにとってトラウマの治療法は「魔女のメタサイコロジー」。


欲動要求の永続的解決[dauernde Erledigung eines Triebanspruchs]とは、…欲動の飼い馴らし[die »Bändigung«des Triebes]とでも名づけるべきものである。


それは、欲動が完全に自我の調和のなかに受容され、…もはや欲動満足に向けて自らの道を行くことはない、という意味である[das will heißen, daß der Trieb ganz in die Harmonie des Ichs aufgenommen, …nicht mehr seine eigenen Wege zur Befriedigung geht.]


しかし、いかなる方法、いかなる手段によってそれはなされるかと問われると、返答に窮する。われわれは、「するとやはり魔女の厄介になるのですな[So muß denn doch die Hexe dran]」(ゲーテ『ファウスト』)と呟かざるをえない。つまり魔女のメタサイコロジイ[Die Hexe Metapsychologie ]である。(フロイト『終りある分析と終わりなき分析』第3章、1937年、摘要)


要するにトラウマは治せねえよ、と言って死んでいったわけだ(フロイト自身「母の裸 Matrem nudam」に起因する汽車恐怖症に終生苦しんだ)。


ラカンだって似たようなもんだよ。結局「人はみな妄想する」の「妄想」が治療法なんだから。あるいは何らかの仕方でトラウマの穴を穴埋めしなくちゃいけないって言ったわけだけど、結局、穴は埋まらないと言って死んでいったのだから。



結局、固着が身体の物質性としての享楽の実体のなかに穴を為す。固着が無意識のリアルな穴を身体に掘る。このリアルな穴は閉じられることはない。ラカンは結び目のトポロジーにてそれを示すことになる。要するに、無意識は治療されない。

Une fixation qui finalement fait trou dans la substance jouissance qu'est le corps matériel, qui y creuse le trou réel de l'inconscient, celui qui ne se referme pas et que Lacan montrera avec sa topologie des nœuds. En bref, de l'inconscient on ne guérit pas. (ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, ON NE GUÉRIT PAS DE L'INCONSCIENT, 2015)



テキトーにやり過ごすしかないね、穴なんか埋まりっこない。で、代表的な穴はオメコの穴だよ。埋まるかい、あの穴? あれこそ究極のダナイデスの樽さ。






享楽はダナイデスの樽である。la jouissance, c'est « le tonneau des Danaïdes » (ラカン, S17, 11 Février 1970)

愛は穴を穴埋めする。きみらが知っているようにね、そう、ちょっとしたコットンだ。l'amour bouche le trou. Comme vous le voyez, c'est un peu coton.  (Lacan, S21, 18 Décembre 1973)