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2020年10月26日月曜日

母の裸 Matrem nudam とメドゥーサの首 Medusenhaupt


今まで2度ほど引用したことがあるフロイトの「母の裸 Matrem nudam」の話がある。なぜかこの2語だけラテン語を使用しているのである。


後に(2歳か2歳半のころ)、私の母へのリビドー[meine Libidogegen matrem ]は目を覚ました。ライプツィヒからウィーンへの旅行の時だった。その汽車旅行のあいだに、私は母と一緒の夜を過ごしたに相違ないない。そして母の裸[sie nudam]を見る機会があったに相違ない。〔・・・〕あなた自身も私の旅行不安が咲き乱れるのを見たでしょう。

daß später (zwischen 2 und 2 1/2 Jahren) meine Libidogegen matrem erwacht ist, und zwar aus Anlaß der Reise mir ihr von Leipzig nach Wien, auf welcher eb gemeinsames Übernachten und Gelegenheit, sie nudam zu sehen, vorge fallen sein muß […] Meine Reiseangst hast Du noch selbst b Blüte gesehen.(フロイト、フリース宛書簡 Briefe an Wilhelm Fließ, 4.10.1897)


この2歳から2歳半という年齢はフロイトの間違いで、実際の旅行時期は、4歳前後だとされるという記述を昨日読んだ。


Freud confie avoir vu le corps de sa mère (matrem nudam) en faisant sur son âge des erreurs (il estime qu'il avait entre 2 ans et 2 ans et demi, alors qu'il avait 4 ans),(Françoise Coblence, Presses Universitaires de France | « Revue française de psychanalyse » 2008/3 )


こういった話は、ネット上を見ると他にも散見され、上のフリース書簡の前後に記述されている従兄の死の時期などから見て、4歳前後だというのがどうやら正当的らしい。


なぜ調べたかといえば、前回、蚊居肢子のリビドー固着画像の話を記したからである。あの画像は幼稚園登園初日のものであり、蚊居肢子 3歳3ヶ月のものだが、フロイトのリビドー固着の時期の、2歳か2歳半には負けてるな でもほんとにそうだったのかと思い、調べてみると4歳であるらしいことがわかったノデアル。ちなみにフロイトは終生、汽車恐怖症が治療できなかったそうだ。


で、ーー何が言いたいわけでもない・・・


とはいえ母の裸なんて漠然としてる。ヴィクトリア朝モラル全盛の当時のことでありやむえないとはいえ、どこを見たんだろう、まさか乳房程度であるまいし。やっぱりあの「深淵」なんだろうか。



メドゥーサの首 Medusenhaupt

フェレンツェは最近、全き正当性を以て、神話における恐怖のシンボル、メドゥーサの首は、ペニスを欠いた女性器の印象に由来するとした。


Ferenczi hat kürzlich mit vollem Recht das mythologische Symbol des Grausens, das Medusenhaupt, auf den Eindruck des penislosen weiblichen Genitales zurückgeführt.


私は神話のなかに示されている母の性器を付け加えたい。メドゥーサの首を盾として身につけたアテーナは接近不能の女になった。メドゥーサの首の一瞥はあらゆる性的接近の観念を消滅させるのである。


Ich möchte hinzufügen, daß im Mythos das Genitale der Mutter gemeint ist. Athene, die das Medusenhaupt an ihrem Panzer trägt, wird eben dadurch das unnahbare Weib, dessen Anblick jeden Gedanken an sexuelle Annäherung erstickt. . (フロイト『幼児期の性器的編成(性理論に関する追加)』1923年)

(『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 [la tête de MÉDUSE]》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現[la révélation abyssale de ce quelque chose d'à proprement parler innommable]と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 [l'objet primitif ]そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落 [abîme de l'organe féminin]、すべてを呑み込む湾門であり裂孔[le gouffre et la béance de la bouche]、すべてが終焉する死のイマージュ [l'image de la mort, où tout vient se terminer] …(ラカン、S2, 16 Mars 1955)


ーー《フロイトの『夢解釈』は…偽装された自叙伝である。》(アンリ・エランベルジェHenri Ellenberge『無意識の発見―力動精神医学発達史』1970年)


この偽装は『夢解釈』だけでもないし、またフロイトだけでもないだろう。


ツァラトゥストラノート:「メドゥーサの首 Medusenhaupt」 としての偉大の思想。すべての世界の特質は石化(硬直 starr)する。「凍りついた死の首 gefrorener Todeskampf」In Zarathustra 4: der große Gedanke als Medusenhaupt: alle Züge der Welt werden starr, ein gefrorener Todeskampf.[Winter 1884 ― 85])

隠遁者[Einsiedler]は、かつて哲学者ーー哲学者は常にまず隠遁者であったとすればーーが自己の本来の究極の見解を著書のうちに表現した、とは信じない。書物はまさに、人が手もとにかくまっているものを隠すためにこそ、書かれるのではないか[schreibt man nicht gerade Buecher, um zu verbergen, was man bei sich birgt? ]。実に彼は次のように疑うであろう。およそ哲学者は“究極的かつ本来的な[letzte und eigentliche]“見解をもちうるのか、哲学者にとってあらゆる洞窟の背後に[hinter jeder Hoehle ]、なお一層深い洞窟が存し、存しなければならないのではないか、表層の彼岸に[ueber einer Oberflaeche]、より広況な、より未知の、より豊かな世界があり、あらゆる根拠[Grund]の背後に、あらゆる“根拠づけ[Begrúndung]”の背後に一つの深淵[ein Abgrund ]があるのではないか、と。〔・・・〕かつまた次のことは疑うべき何ものかである。すなわち「哲学はさらに一つの哲学を隠している。あらゆる見解もまた一つの隠し場であり、あらゆる言葉もまた一つの仮面 である[Jede Philosophie verbirgt auch eine Philosophie; jede Meinung ist auch ein Versteck, jedes Wort auch eine Maske.]」(ニーチェ『善悪の彼岸』289番、1886年)



怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵 Abgrundを覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。 Wer mit Ungeheuern kämpft, mag zusehn, dass er nicht dabei zum Ungeheuer wird. Und wenn du lange in einen Abgrund blickst, blickt der Abgrund auch in dich hinein(ニーチェ『善悪の彼岸』146節、1886年)


ニーチェの深淵はなんだろうね、



──おお、永遠の泉よ、晴れやかな、すさまじい、正午の深淵よ。いつおまえはわたしの魂を飲んで、おまえのなかへ取りもどすのか?

- wann, Brunnen der Ewigkeit! du heiterer schauerlicher Mittags-Abgrund! wann trinkst du meine Seele in dich zurück?" 

(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「正午 Mittags」1885年)


アリアドネの迷宮なのは間違いなさそうだが、ーー《迷宮は永遠回帰を示す le labyrinthe désigne l'éternel retour 》(ドゥルーズ『ニーチェと哲学』 1962年)


でも二人してお前さんが迷宮だと言い合っているんだよな。


ディオニュソス)私はあなたの迷宮だ。

Dionysos: Ich bin dein Labyrinth...(ニーチェ『アリアドネの嘆き』Klage der Ariadne)1887年秋)

ああ、アリアドネ、あなた自身が迷宮だ。人はあなたから逃れえない。…

Oh Ariadne, du selbst bist das Labyrinth: man kommt nicht aus dir wieder heraus” ...(ニーチェ、1887年秋遺稿)



とすれば、トーラス円図の真ん中しかないね、深淵は(永遠に喪われた異者身体)。





異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である。corps étranger,[…] le (a) dont il s'agit,[…] absolument étranger (Lacan, S10, 30 Janvier 1963)


リビドー 文献



フロイトは愛の狂気に陥ってしまうこと対して用心深かった。そう、ひとりの女と呼ばれるものに対して。言っておかねばならない。ひとりの女は奇異なものである。ひとりの女は異者である。 parce qu'il avait pris la précaution d'être fou d'amour pour ce qu'on appelle une femme, il faut le dire, c'est une bizarrerie, c'est une étrangeté.  (Lacan, S25, 11  Avril  1978)

異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである。…étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)

女性器は不気味なものである。das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches. 〔・・・〕不気味なものは秘密の親密なものであり、一度抑圧をへてそこから回帰したものである。daß Unheimliche das Heimliche-Heimische ist, das eine Verdrängung erfahren hat und aus ihr wiedergekehrt ist, (フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』第3章、1919年)