このブログを検索

2021年5月10日月曜日

変なヤツの固着

固着というのは人がみなもつ原症状のことだよ。

まずポール・バーハウのわかりやすい三文を掲げよう。


フロイト用語では、すべての神経症的症状は、欲動の固着を包含かつ隠蔽しており、この欲動の固着(リビドーの固着)自体は取り消せ得ない。ラカンによって詳述された治療の新しい目標は、主体が欲動の根あるいは欲動固着に向けて別のポジションを取る可能性を開くことである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年)


固着は、フロイトが原症状と考えたものだが、ラカンの観点からは、一般的な特性をもつ。症状は人間を定義するものである。それ自体、取り除くことも治療することも出来ない。これがラカンの最終的な結論である。すなわち症状のない主体はない。(Paul Verhaeghe and Declercq, Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way, 2002)


エディプス・コンプレックス自体、症状である。その意味は、大他者を介しての、欲動の現実界の周りの想像的構築物ということである。どの個別の神経症的症状もエディプスコンプレクスの個別の形成に他ならない。この理由で、フロイトは正しく指摘している、症状は満足の形式だと。ラカンはここに症状の不可避性を付け加える。すなわちセクシャリティ、欲望、享楽の問題に事柄において、「症状のない主体はない」と。


これはまた、精神分析の実践が、正しい満足を見出すために、症状を取り除くことを手助けすることではない理由である。目標は、享楽の不可能性の上に、別の種類の症状を設置することなのである。フロイトのエディプス・コンプレクスの終着点(「父との同一化」)の代わりに、ラカンは精神分析の実践の最終的なゴールを「症状との同一化(サントームとの同一化)」(そして、そこから自ら距離をとること)とした。( PAUL VERHAEGHE、New studies of old villains、2009)



要するに固着とは分析治療しえない原症状のこと。フロイトは別に、我々の存在の核 [Kern unseres Wesens]とか菌糸体[mycelium]とか欲動の根 Triebwurzel」とか呼んだ。



で、この原症状としての固着が、以下のラカンの「症状」。



分析の道筋を構成するものは何か? 症状との同一化ではなかろうか、もっとも症状とのある種の距離を可能なかぎり保証しつつである。

Alors en quoi consiste ce repérage qu'est l'analyse ? Est-ce que ça serait ou ça ne serait pas s'identifier…  s'identifier en prenant ses garanties,  une espèce de distance …s'identifier à son symptôme ?  


それは何を知ることを意味するのか? ーー症状の扱い方・世話の仕方・操作の仕方を知ること…症状との折り合いのつけ方を知ること、それが分析の終りである。

Alors qu'est-ce que ça veut dire connaître ?   Connaître veut dire :  - savoir faire avec ce symptôme,  - savoir le débrouiller,  - savoir le manipuler. […] c'est là la fin de l'analyse.  (Lacan, S24, 16 Novembre 1976)



固着とはリアルな症状だから、ほっとくと、というか象徴的覆いなしの裸のままだと、外傷神経症と同様の反復強迫を起こす。



症状は現実界について書かれることを止めない le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (Lacan, 三人目の女 La Troisième, 1er Novembre 1974)


フロイトにとって症状は反復強迫[compulsion de répétition]に結びついたこの「止めないもの qui ne cesse pas」である。『制止、症状、不安』の第10章にて、フロイトは指摘している、症状は固着を意味し、固着する要素は無意識のエスの反復強迫に見出されると。[le symptôme implique une fixation et que le facteur de cette fixation est à trouver dans la compulsion de répétition du ça inconscient. ]フロイトはこの論文で、症状を記述するとき、欲動要求の絶え間なさを常に示している。欲動は、行使されることを止めないもの[ne cesse pas de s'exercer]である.。(J.-A. MILLER, L'Autre qui  n'existe pas  et ses comités d'éthique - 26/2/97)



このリアルな症状の別名がサントームだ。


サントームは固着である[Le sinthome est la fixation]. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011、摘要

サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)

サントームは反復享楽であり、S2なきS1[S1 sans S2](=固着Fixierung)を通した身体の自動享楽に他ならない。ce que Lacan appelle le sinthome est […] la jouissance répétitive, […] elle n'est qu'auto-jouissance du corps par le biais du S1 sans S2(ce que Freud appelait Fixierung, la fixation) (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 23/03/2011、摘要訳)


ラカンのサントームとは、たんに症状のことである。だが一般化された症状(誰もがもっている症状)である。Le sinthome de Lacan, c'est simplement le symptôme, mais généralisé,  (J.-A. MILLER, L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE, 2011)




この固着は誰にでもあるわけで、ボクはときに変なヤツを見ると、こいつは何に固着してどうやってその固着に対して防衛してんだろ、と探ってみたくなるときがあるね。そこのケッタイな神の信者らしき〈キミ〉とかさ。


作家はだいたいみな変なヤツなわけでさ、たとえば最近、芥川龍之介と室生犀星と三島由紀夫の固着は見究めたつもりだけどね、バタイユなんてのは探さなくてもモロわかりだな、ま、こういうこというと嫌われるだろうけど。


熱心なフロイト読者だった三島がある時期からフロイトを毛嫌いしたり、「無意識というものは、絶対におれにはないのだ」とか大岡昇平との対談で言い放ったりしたのはーー大岡にバカにされていたけどーー、明らかに防衛だな。


でも次の文は三島のひとつの本質でさすがにこういうふうに自己分析できるのはエラい。


あるひは私の心は、子羊のごとく、小鳩のごとく、傷つきやすく、涙もろく、抒情的で、感傷的なのかもしれない。それで心の弱い人を見ると、自分もさうなるかもしれないといふ恐怖を感じ、自戒の心が嫌悪に変はるのかもしれない。しかし厄介なことは、私のかうした自戒が、いつしか私自身の一種の道徳的傾向にまでなつてしまつたことである。(三島由紀夫「芥川龍之介について」1954(昭和29)年)


ま、シロウトにやったらシツレイにあたるけど、たとえばエラそうにしてる(?)若い精神科医ならいいだろうと思い、むかし囮を仕掛けてやりかけたことがあるんだが、そうしたらツイッターそうそうに閉じちまったよ。


私は悟ったのだ、この世の幸福とは観察すること、スパイすること、監視すること、自己と他者を穿鑿することであり、大きな、いくらかガラス玉に似た、少し充血した、まばたきをせぬ目と化してしまうことなのだと。誓って言うが、それこそが幸福というものなのである。(ナボコフ『目』)