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2021年5月10日月曜日

少年期の異臭

 


ひとつの感覚が開かれるとあらゆる感覚が鋭敏になって怒涛のレミニサンスに襲われることがある。今当地は乾季から雨季への端境期で蝉が鳴きだした。その蝉しぐれで「開け、胡麻!」が起こった。


夜半からの沛雨の翌朝、いつものように二階の書斎兼寝室の東西の窓を開ける。日除け用の木立の葉むらを透き通しての早朝の陽の光。大気はまだひどく湿っている。かすかに窒素臭の入り混じった腐葉土の匂いがもわっと立ち昇ってくる。すると、故郷の町の家で夕方、小さな庭で水を撒いている少年の姿が立ち現れる。麦藁帽子と蝉しぐれ。蝉の声のする楓にホースの先をむけると、ジーという一啼きとともにひととき鳴声は消え去る。だがすぐに傍の百日紅に止まってまた勢いよく鳴き始める。実家の小さな庭は母方の祖父の家の裏庭が続き、ふたつの敷地を隔てる低い柵と木戸のむこうには夏みかんの木があった。ひどくすっぱい実しか生らなかったが、砂糖をいっぱいまぶして食べたあの懐かしい味。母は祖母に世話されて祖父の家の南側の台所と玄関の間にはさまれた六畳間で寝ていることが多かった時期のことだ。その部屋は南向きにもかかわらず庇が深く、前庭に立ち塞がる樟のせいでいつも薄暗く、母の体臭の饐えたにおいがした。



……近代の人間はおしなべて、耳の聡かったはずの古代の人間にくらべれば、論理的になったその分、耳が悪くなっているのではないか、すぐれた音楽を産み出したのも、じつは耳の塞がれかけた苦しみからではなかったか、とそんなことを思ったものだが、この夜、昼の工事の音と夜更けの蒸し返しのために鈍磨の極みに至ったこの耳に、ひょっとしたら、往古の声がようやく聞えてきたのか、と耳を遠くへやると、窓のすぐ外からけたたましく、蜩の声が立った。

 

夜半に街灯の明るさに欺れてか、いきなり嗚咽を洩らすように鳴き出し、すぐに間違いに気がついたらしく、ふた声と立てなかった。狂って笑い出したようにも聞こえた。声に異臭を思った。


異臭は幼年の記憶のようだった。蜩というものを初めて手にした時のことだ。空襲がまだ本格には本土に及ばなかった、おそらく最後の夏のことになるか。蜩は用心深くて滅多に捕まらぬものなので、命が尽きて地に落ちたのを拾ったのだろう。ツクツク法師と似たり寄ったりの大きさで、おなじく透明な翅にくっきり翅脈が浮き出て、胴体の緑と黒の斑紋の涼しさもおなじだったが、地肌が茶から赤味を帯びて、その赤味が子供の眼に妖しいように染みた。箱に仕舞って一夜置いた。そして翌朝取り出して眺めると、赤味はひときわ彩やかさをましたように見えたが、厭な臭いがしてきた。残暑の頃のことで虫もさずがに腐敗を来たしていたのか、子供には美しい色彩そのものの発する異臭と感じられた。すぐに土に埋めて手を洗ったが、異臭は指先にしばらく遺った。


箪笥に仕舞われた着物から、樟脳のにおいにまじってえ立ち昇ってくる、知らぬ人のにおいにも似ていた。(古井由吉「蜩の声」2011年)








私は橋のうえからその鑵が沈んでゆくのを見まもり、いつまでもそれを憶えておこうと思った。しかし、その空鑵はいつか私の頭から忘れさられた。ただ裏の女の子とこのようにして別れた苦痛は後までよく憶いだされた。そして、そのたびに私はあの樟のざわめきや、女中部屋の匂いや、池水の冷たい反映をふと憶いうかべるのであった。(辻邦生『夏の砦』)


…………………



古井由吉は結局、レミニサンスの作家だ。身体の出来事、外傷性記憶の回帰の作家。この身体の出来事の別名が固着、トラウマへの固着だ。






頼朝公卿幼少の砌の髑髏〔しゃれこうべ〕、という古い笑い話があるが、誰しも幼少年期の傷の後遺はある。感受性は深くて免疫のまだ薄い年頃なので、傷はたいてい思いのほか深い。はるか後年に、すでに癒着したと見えて、かえって肥大して表れたりする。しかも質は幼年の砌のままで。


小児の傷を内に包んで肥えていくのはむしろまっとうな、人の成熟だと言えるのかもしれない。幼い頃の痕跡すら残さないというのも、これはこれで過去を葬る苦闘の、なかなか凄惨な人生を歩んできたしるしかと想像される。しかしまた傷に晩くまで固着するという悲喜劇もある。平生は年相応のところを保っていても、難事が身に起ると、あるいは長い矛盾が露呈すると、幼年の苦についてしまう。現在の関係に対処できなくなる。幼少の砌の髑髏が疼いて啜り泣く。笑い話ではない。


小児性を克服できずに育った、とこれを咎める者もいるだろうが、とても、当の小児にとっても後の大人にとってもおのれの力だけで克服できるようなしろものではない、小児期の深傷〔ふかで〕というものは。やわらかな感受性を衝いて、人間苦の真中へ、まっすぐに入った打撃であるのだ。これをどう生きながらえる。たいていはしばらく、五年十年あるいは二十年三十年と、自身の業苦からわずかに剥離したかたちで生きるのだろう。一身の苦にあまり耽りこむものではない、という戒めがすくなくとも昔の人生智にはあったに違いない。一身の苦を離れてそれぞれの年齢での、家での、社会での役割のほうに付いて。芯がむなしいような心地でながらく過すうちに、傷を克服したとは言わないが、さほど歪まずとも受け止めていられるだけの、社会的人格の《体力》がついてくる。人の親となる頃からそろそろ、と俗には思われているようだ。


しかし一身の傷はあくまでも一身の内面にゆだねられる、個人において精神的に克服されなくてはならない、克服されなくては前へ進めない、偽善は許されない、という一般的な感じ方の世の中であるとすれば、どういうことになるだろう。また社会的な役割の、観念も実態もよほど薄い、個人がいつまでもただの個人として留まることを許される、あるいは放置される世の中であるとすれば。(古井由吉「幼少の砌の」『東京物語考』1984年)