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2021年8月8日日曜日

芸術はトラウマの効果である

 


トラウマは、古代ギリシャ語の「τραύμα」が語源であり、傷という意味だ。精神科医により種々の意味で使われるが、中井久夫は、初期幼児期における「単語の記憶」はフラッシュバック記憶的だと言っている。


言語発達は、胎児期に母語の拍子、音調、間合いを学び取ることにはじまり、胎児期に学び取ったものを生後一年の間に喃語によって学習することによって発声関連筋肉および粘膜感覚を母語の音素と関連づける。要するに、満一歳までにおおよその音素の習得は終わっており、単語の記憶も始まっている。単語の記憶というものがf記憶的(フラシュバック記憶的)なのであろう。そして一歳以後に言語使用が始まる。しかし、言語と記憶映像の結び付きは成人型ではない。(中井久夫「記憶について」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)


フラッシュバック記憶的とはもちろんトラウマ的ということだ。「単語の記憶はトラウマの記憶的」とは通念からしたら奇妙に感じられるかも知れない。


中井久夫はこう書いている。


PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年)


今の二つは1996年の論だが、後年、次のようにも記している。


外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

一般記憶すなわち命題記憶などは文脈組織体という深い海に浮かぶ船、その中を泳ぐ魚にすぎないかもしれない。ところが、外傷性記憶とは、文脈組織体の中に組み込まれない異物であるから外傷性記憶なのである。幼児型記憶もまたーー。(中井久夫「外傷性記憶とその治療―― 一つの方針」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)


上の二文に「異物」とあるが、これがブロイアー&フロイトの定義における「トラウマの記憶」のことである。


トラウマないしはトラウマの記憶は、異物 Fremdkörper のように作用する。この異物は体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ。das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt, welcher noch lange nach seinem Eindringen als gegenwärtig wirkendes Agens gelten muß(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)


初期フロイトはブロイアーとともに上のように記述し、最晩年のフロイトはトラウマを自己身体の出来事とした。


トラウマは自己身体の出来事もしくは感覚知覚である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungenまた疑いもなく、初期の自我の傷である[gewiß auch auf frühzeitige Schädigungen des Ichs 〔・・・〕


このトラウマの作用はトラウマへの固着と反復強迫として要約できる[Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang. ]。


これは、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、不変の個性刻印と呼びうる[Sie können in das sog. normale Ich aufgenommen werden und als ständige Tendenzen desselben ihm unwandelbare Charakterzüge verleihen]。 (フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie1939年)


上に掲げた中井久夫1996年に「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」とあったが、おそらくフロイトの「トラウマへの固着=不変の個性刻印」に依拠しているのだろう。


ところで、ラカン派の原症状はサントームと呼ばれるが、これは身体の出来事である。つまりフロイトの定義におけるトラウマである。


サントームは身体の出来事として定義される[Le sinthome est défini comme un événement de corps(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/3/2011)

トラウマは自己身体の出来事もしくは感覚知覚である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen](フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie1939年)


さらにもうひとつ確認しておこう。


サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である[Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)

問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっている[le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme.   (Lacan, S23, 13 Avril 1976)


つまり「身体の出来事はトラウマであり、かつトラウマの反復である」となる。


ところでラカンはこうも言っている。


詩は意味の効果だけでなく、穴の効果である[la poésie qui est effet de sens, mais aussi bien effet de trou.  (Lacan, S24, 17 Mai 1977)


この穴とは、ラカンには穴=トラウマ[ troumatisme ]という造語があるように、トラウマのことである。


ラカンの現実界は、フロイトがトラウマと呼んだものである。ラカンの現実界は常にトラウマ的である。それは言説のなかの穴である[ce réel de Lacan …, c'est ce que Freud a appelé le trauma. Le réel de Lacan est toujours traumatique. C'est un trou dans le discours.  (J.-A. Miller, La psychanalyse, sa place parmi les sciences, mars 2011


つまり《詩は意味の効果だけでなく、穴の効果である》における後者の穴の効果とは「トラウマの効果」、あるいは「身体の出来事の効果」となる。


コレット・ソレールはおそらくこのラカンに依拠しつつこう書いている。


詩の言葉は、分析主体の言葉と同様、「言語という意味の効果」と「ララングという意味外の享楽の効果」を結び繋ぐ。それはラカンがサントームと呼んだものと相同的である。Le dire du poème, donc, tout aussi bien que le dire de l'analysant, noue, fait tenir ensemble les effets de sens du langage et des effets de jouis-sance hors sens de lalangue. Il est homologue à ce que Lacan nomme sinthome. Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011


ララングとは母の言葉、非意味の言葉ということである➡︎ララング文献集


「意味外の享楽の効果」とは、享楽とは現実界であり、つまり意味外の穴の効果、「トラウマの効果=身体の出来事の効果」となる。


だが、おそらく詩だけではない。すべての芸術は、トラウマの効果の相があるのではないか。たとえば私の場合、ときにふと襲われる音楽の断片、あれは穴の効果であるに違いないと思う。


芸術だけではない。匂い、光等々、過去の身体の出来事が遠くから突然やってくることがある。ロラン・バルトは、これを「身体の記憶」とした。


私の身体は、歴史がかたちづくった私の幼児期である[mon corps, c'est mon enfance, telle que l'histoire l'a faite]。匂いや疲れ、人声の響き、競争、光線など[des odeurs, des fatigues, des sons de voix, des courses, des lumières]、失われた時の記憶[le souvenir du temps perdu]を作り出すという以外に意味のないもの(幼児期の国を読むとは)身体と記憶[le corps et la mémoire]によって、身体の記憶[la mémoire du corps]によって、知覚することだ。(ロラン・バルト「南西部の光 LA LUMIÈRE DU SUD-OUEST1977年)


さてどうだろう。意味外のものであればすべて身体の記憶であり、トラウマの効果と言えるのではないか。単語の記憶だけではなく、身体の記憶ならすべてトラウマの記憶ではないか。


19歳のときに行き当たった私の愛する吉行淳之介の文がある。


長い病気の恢復期のような心持が、軀のすみずみまで行きわたっていた。恢復期の特徴に、感覚が鋭くなること、幼少年期の記憶が軀の中を凧のように通り抜けてゆくことがある。その記憶は、薄荷のような後味を残して消えてゆく。

 

立上がると、足裏の下の畳の感覚が新鮮で、古い畳なのに、鼻腔の奥に藺草のにおいが漂って消えた。それと同時に、雷が鳴ると吊ってもらって潜りこんだ蚊帳の匂いや、縁側で涼んでいるときの蚊遣線香の匂いや、線香花火の火薬の匂いや、さまざまの少年時代のにおいの幻覚が、一斉に彼の鼻腔を押しよせてきた。(吉行淳之介『砂の上の植物群』)


これはここまで記してきた定義に依拠するなら、トラウマの効果に他ならない。