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2021年8月8日日曜日

美の起源はトラウマ

 


前回の「芸術はトラウマの効果」の冒頭で、示したように、トラウマは、古代ギリシャ語の「τραύμα」が語源であり、傷という意味だ。


フロイトの定義であれば、「自己身体の出来事=自我の傷」である。


トラウマは自己身体の出来事もしくは感覚知覚である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]また疑いもなく、初期の自我の傷である[gewiß auch auf frühzeitige Schädigungen des Ichs (フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie1939年)


これはジュネ=ジャコメッティ も言っている、美には傷以外の起源はない[Il n’est pas à la beauté d’autre origine que la blessure]と。


美には傷以外の起源はない。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。(ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』宮川淳訳)


Il n’est pas à la beauté d’autre origine que la blessure, singulière, différente pour chacun, cachée ou visible, que tout homme garde en soi, qu’il préserve et où il se retire quand il veut quitter le monde pour une solitude temporaire mais profonde. (Jean Genet, L’atelier d’Alberto Giacometti)


つまりは美の起源はトラウマである。


さらにボードレールもそう言っていると捉えうる(プルーストにも「未知の表徴」signes inconnus や「肉体の傷」les lésions physiques 、「異者は少年の私」 l'étranger c'était moi-meme 等々の表現があり、事実上、トラウマ=身体の出来事を示しているが、ここでは長くなるので割愛する。これを言い出したら、私の知る範囲でも、ニーチェにもあるし、リルケにもある、さらにロラン・バルトにもあると言わねばならない)。


ボードレールについていくらか遠回りの道になるが厳密に示そう。


美は常に奇妙なものである。私が言いたいのは、美の中には、常に、少量の奇妙さ、素朴な、故意のものではない、無意識の奇妙さがふくまれており、「美」を特に「美」たらしめているものは、まさにこの奇妙さだということである。それは、美の登録証明であり、特徴なのだ。Le beau est toujours bizarre. ... Je dis qu'il contienttoujours un peu de bizarrerie, de bizarrerie naïve, non voulue, inconsciente, et que c'est cette bizarrerie qui le fait êtreparticulièrement Beau.C'est son immatriculation, sa caractéristique.(ボードレール, Curiosités esthétiques, 1868)


美は常に奇妙なもの[Le beau est toujours bizarre]とあるが、この "bizarrerie" は、フロイトラカン用語では、異者[étrangeté]であり、「異様なもの」と訳してもよい。事実、「美は常に異様なもの」と訳している人もいる。

ラカンは"bizarrerie"という語を使いながら、こう言っている。


フロイトは愛の狂気に陥ってしまうこと対して用心深かった。そう、ひとりの女と呼ばれるものに対して。言っておかねばならない。ひとりの女は奇妙なものである。ひとりの女は異者である。 parce qu'il avait pris la précaution d'être fou d'amour pour ce qu'on appelle une femme, il faut le dire, c'est une bizarrerie, c'est une étrangeté.  (Lacan, S25, 11  Avril  1978


ーーここでは「ひとつの女」には触れない➡︎「「ひとりの女」の意味


ラカンは上の文で、"bizarrerie" "étrangeté" を等置している。

そしてこの異者は「不気味なもの」unheimlichである。


異者がいる。異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)


不気味なもの[daß Unheimliche]とは、フロイトの定義において、親密なものでもある。


親密なもの[heimlich]は両価性(アンビヴァレンツ)に向けて意味を発展させてきた単語であり、最終的には、その反意語である不気味なもの[unheimlich]と重なり合うまでになる。不気味なものは、ある種の親密なものなのだ。Also heimlich ist ein Wort, das seine Bedeutung nach einer Ambivalenz hin entwickelt, bis es endlich mit seinem Gegensatz unheimlich zusammenfällt. Unheimlich ist irgendwie eine Art von heimlich.(『フロイト『不気味なもの』第1章、1919年)

不気味なものは秘密の親密なものであり、一度抑圧をへてそこから回帰したものである[daß Unheimliche das Heimliche-Heimische ist, das eine Verdrängung erfahren hat und aus ihr wiedergekehrt ist](フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』第3章、1919年)

不気味ななかの親密さ[heimisch im Unheimlichen](フロイト『ある錯覚の未来』第3章、1927年)


この不気味なものをラカンは「外密」extimitéと仏語に翻訳した。


私の最も内にある親密な外部、モノとしての外密[extériorité intime, cette extimité qui est la Chose(Lacan, S7, 03 Février 1960)


ようするにフロイトのモノ=異者=不気味なものが、外密である。


モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger](Lacan, S7, 09  Décembre  1959)

異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)


そしてこのモノ=モノ=異者=不気味なもの(外密)が、ラカンの現実界であり、フロイトのトラウマである。


フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel ](ラカン, S23, 13 Avril 1976

問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっている[le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme.   (Lacan, S23, 13 Avril 1976)


(心的装置に)同化不能の部分(モノ)[einen unassimilierbaren Teil (das Ding)](フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie1895

トラウマないしはトラウマの記憶は、異物 (異者としての身体[Fremdkörper )のように作用する。この異物は体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ[das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt, welcher noch lange nach seinem Eindringen als gegenwärtig wirkendes Agens gelten muß](フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)


ラカンはフロイトの同化不能 unassimilierbaren]という語を使ってこう言っている。


現実界は、同化不能の形式、トラウマの形式にて現れる[le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma, ](Lacan, S11, 12 Février 1964

フロイトの反復は、心的装置に同化されえない現実界のトラウマである。まさに同化されないという理由で反復が発生する[La répétition freudienne, c'est la répétition du réel trauma comme inassimilable et c'est précisément le fait qu'elle soit inassimilable qui fait de lui, de ce réel, le ressort de la répétition.](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011


以上、ボードレールの《美は常に奇妙なもの[Le beau est toujours bizarre]》とは、まずは「美は不気味なもの」とすることができ、さらには「美はトラウマ」とすることもできる。


ここではジュネ=ジャコメッティの《美には傷以外の起源はない[Il n’est pas à la beauté d’autre origine que la blessure]》を生かして、「美の起源はトラウマである」としておく。


もちろんフロイトのトラウマの定義を使って、「美の起源は自己身体の出来事」としてもよいし、前回示したように「美は穴の効果」としてもよい。


ポエジーは意味の効果だけでなく、穴の効果である[la poésie qui est effet de sens, mais aussi bien effet de trou.  (Lacan, S24, 17 Mai 1977)