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2021年9月13日月曜日

帝国主義的フェミニズム Imperial Feminism

 「帝国主義的フェミニズム」(Imperial Feminism)という概念があるんだな、知らなかったね。

アフガニスタン問題をいくらか追ってゆくと、米国のフェミニスト言説に対して頭にくることがままあるんだが、この概念は、あの苛立ちを言い表すのにピッタンコだ。

グーグルで「帝国主義的フェミニズム」で検索してもまったく当たらないのはどうしたわけだろう? 英語で検索するとWikipediaにさえその項目があるのに。フェミニスト運動を相対化するためにも是非流通させなくちゃいけない概念だよ。

以下、清水愛砂さんがこの概念を示している論文を引用する。


「「対テロ」戦争と女性の均質化――アフガニスタン にみる〈女性解放〉という陥穽」(清水愛砂 2014年)

2〈女性解放〉ーー21世紀の「対テロ」戦争の論理とその矛盾


(1) アフガニスタンに対する軍事攻撃における論理の転換


200110月,米英軍等によるアフガニスタンに対する軍事攻撃が始まった。米政府は,9.11の同時多発攻撃がアルカーイダによってなされ,ターリバーン政権がそのアルカーイダを匿っていると断定し,攻撃に踏み出した。 それは,同時多発攻撃に対する 「報復」,および米国の「正義」と 「価値」を守るための闘いであると主張された。 しかしながら, 11月には同攻撃を正当化するための論理に大きな転換がなされ, 「報復」 に代わる 〈アフガン女性解放論〉が登場した。


そのことは,20011117日に米国務省民主主義・人権・労働局が公表した「ターリバーンによる女性に対する戦争」(The Taliban's War AgainstWomen)と題する報告書3)からみることができる。同報告書ではターリバーンによる抑圧性が強調され,「米国ではアフガン女性と女児に対する社会的関心が高まっている」,「アフガン民衆は,ターリバーン後のアフガニスタンに,女性を含む幅広い代表者からなる政権が誕生することを望んでおり, 米国もそれを支持する」4)ことが述べられていた。また,同報告書の概要版には,「アフガニスタンに対する人道支援の最大援助国であり続けている米国政府は,ターリバーンによる女性の抑圧が終わらなければならないと信じている」ことが明記されていた。さらには,同報告書の公表日に米大統領の妻ローラ・ブッシュ(当時)が大統領による恒例のラジオ演説の時間を使い,同報告書と同じ題名で演説5)を行った。同演説では,「近頃,,米軍がアフガニスタンの多くの地域を掌握したことにより,女性はもはや家のなかで囚われの身となっていない」「テロに対する闘いは女性の権利と意見を求めるための闘いでもある」こと等が謳われ,米軍による軍事攻撃がアフガン女性の解放をもたらしたかのような主張がなされた。

(2) 帝国主義的フェミニズムの発想ーー救世主としての位置づけ


以上でみてきたように,米国はターリバーンに抑圧された〈アフガン女性〉の「救世主」 「解放者」として自らを位置づけることで軍事攻撃を正当化するとともに,アフガニスタン国内の反ターリバーン勢力である北部同盟(Northern Alliance) へ肩入れしてきた。〈アフガン女性解放論〉を成り立たせるためには,ターリバーンによって解放されるベき〈アフガン女性),すなわち,ターリバーンによりブルカ(女性の身体を頭からつま先まですっぽりと被う衣装)で身体を覆い隠すことを強要され,教育や医療へのアクセス,就労の機会を奪われた保護されるベき女性の存在が必要となる。その存在を不特定多数の人々に「衝撃的」に知らしめるための手段として選ばれたものがブルカであり,ブルカを纏うアフガン女性の姿はターリバーン政権の女性に対する抑圧性を示す象徴的画像として,メディアの報道等を通して積極的に流された。


また,アフガニスタンに対する軍事攻撃においては,ターリバーンが誕生した政治的背景および米国のかかわりは問われることはなかった。一方的にオリエンタリスト的発想の下で,〈イスラーム主義者の「テロリスト」 vs.救世主〉,すなわち〈野蛮なターリバーンvs. 文明化された我々〉という単純化された二分法に基づく〈闘い〉が繰り広げられたのであった。このような二分法においては,女性や女児が同攻撃の犠牲になるということや,さらなる貧困や難民化を助長するという視点は一切なかった。言い換えると,〈アフガン女性解放論〉というのは,まさしく米国のジェンダー研究者であるアン・ルッソが指摘したように,ブッシュ政権による「帝国主義的フェミニズム」(Imperial Feminism)そのものであった。




もうひとつ、上にもあるブッシュ夫人に触れている論に行き当たった。ここには帝国主義的フェミニズム概念そのものは使用されていないが、その内実が巧みに説明されている、と私は思う。



「《特集》ムスリム社会における名誉に基づく暴力」序、田中雅一、嶺崎寛子 2017

〔・・・〕第三世界の女性の救済は、政治的に効果のある言説だからこそ、アメリカの対テロ戦争の際に多用された。アイゼンシュタインやモーハンティー ら米在住のフェミニスト研究者は、フェミニズム が国際政治の力学の中で対テロ戦争の文脈でいかに利用・動員されるかを、イラクやアフガン戦争を事例に、現地のフェミニストとの関係をも視野に入れつつ批判的に論じてきた[Eisenstein 2004, 2007Riley, Mohanty and Pratteds. 2008]。


典型例としては、2001年に米大統領ブッシュがアフガン侵攻の正当化のため「アフガン女性の解放」を掲げたことや、妻のローラ・ブッシュがアフガン女性の解放や権利の擁護を積極的に訴えた ことなどがある(アフガン女性の表象と国際政治との関係については本特集所収の辻上による研究ノートも参照) 。 


近年の同様の動向で注目すべきは、9.11の同時多発テロ以降、LGBTやクィアの人権が、欧米や中東の表象の政治に動員されていることである。 ジュディス・バトラーは、2010年のベルリンのプライドパレードでの市民勇気賞(Civil Courage Prize)の受賞拒否スピーチにおいて、主催者の中に明らかに人種差別的な発言をする人間がいたと指摘し、そこには反ムスリム人種主義が含まれるとはっきり述べている[Butler 2010 。さらにバ トラーは、LGBTやクィアが、イラクやアフガニスタンでの戦争や、イスラーム嫌悪を用いて移民に反対する文化的戦争を進めたい人々に利用され 得ることと、ナショナリズムや軍事主義にLGBT が動員される可能性を指摘、注意を喚起した Butler 2010 14)。〔・・・〕


以上の事例は、どれも「われわれ」と「彼ら」という二項対立を前提とし、われわれに肯定的な意味を、鏡像としての彼らに否定的な意味を振るという共通の構造を持つ。この二項対立構造は、 救済者とされる西欧の男性および女性、加害者の現地男性、被害者の現地女性(あるいはLGBT どの性的マイノリティ)の4者からなる16)。二つの対立軸がこの構造を支える。一つはわれわれ= 先進国の住民と彼ら=遅れた第三世界の住人とい う対立軸、もう一つは彼らの内部の、女性への暴 力の加害者=極悪非道な男たちと被害者=無力な女性たちという対立軸である。そして「われわれ」は白い救世主という役割を占める。一部の西欧女性フェミニストは、多くの批判を浴びつつも 現在に至るまで、白人救世主として振る舞い続けているcf. Eisenstein 2004, 2007]。アブー=ルゴドは、欧米女性は第三世界の女性たちのことを連帯する相手としてではなく、救うべき相手として認識しがち、と指摘している[Abu-Lughod 2013]。 

白い女性救世主たちは、結果として第三世界を排除する保守層の男性と結託してしまうか、あるいは彼らに格好の口実を与えてしまうことがあ17)。この構造から零れ落ちるのは、自立したム スリム女性や敬虔なムスリム・フェミニスト―― 現地の文化を肯定的に捉え、その中で主体的なエイジェントたろうとする女性たち――である。 


しばしばムスリム・フェミニストたちは、だまされている、無知で浅はかである、女性解放とムスリムであることは両立し得ない18)などと、 「われわれ」側から非難される。現地の女性たちを抑圧するのは現地の男性たちや、イスラームに代表される、現地の「遅れた」文化であるとされるからである。その理解枠組みから零れ落ちるものは 欧米では理解されない。〔・・・〕


女性の主体性を過大評価することの問題点は、 軍事的暴力やそれによる痛みや苦しみの隠蔽につながることばかりではない。歴史的経緯や文化的背景が捨象されてしまうこともまた問題である。 軍事的暴力や苦しみ、あるいは抵抗自体、歴史的背景を持つ。権力構造も文化も時代とともに変化する動態的なものであるにもかかわらず、女性の主体性を過度に強調すると、女性たちの抵抗を歴史的、文化的な文脈の中で捉えることが難しくなる。ムスリム・フェミニストを、アッラーへの敬虔さとフェミニズムとは同居し得ないとし胡散臭いと非難する人々は、そのアイデンティティや抵抗のありようが、彼女たちが生きている固有の場所、時間、時代とどうしようもなく絡み合っていることを見落としているのである。異文化の女性を能動的に描くにはその文化的背景を剥奪しなければならないとしたら、それもまたオリエンタリズムの実践と言えよう。〔・・・〕

エジプトのムスリム女性たちは欧米の女性のことを、 「彼女たちは身体を万人に晒さなければ認 めてもらえなくて、大変だ」、「ミニスカートや化粧などで、つねにセクシーに美しく装わなきゃいけないなんて自由じゃない」などと言う。ムスリム女性は、 「男性基準でいつも化粧をして男性のために装うことを強制」されていて、さらには彼女たちにそれを「降りる」方法がない欧米人を哀れんで、そう言う。「私たちは、自分の大事な人にだけ、髪や化粧をした姿を見せる25)。私たちは 大事にしまい込まれているダイヤモンドみたいなもの。それはとっても特別なこと。特別だからこそ、自分のためだけの女性を、男性は大事にしようと思うのよ」と語った大学生もいた。 


それらを、娼婦役割が女性役割の欠かせない一部として浸透している、欧米社会への批判ととることもできよう。中田は「程度の違いこそあれ 「性を商品化する視線」は今の社会の至る所にあるし、どんなにフェミニストたちがいきり立っても決してなくならないだろう。そうした視線から女性を守れるのはヒジャーブ〔ヴェール〕しかない。蜂蜜の皿に蓋もせず外に晒しておきながら、 寄って来る蝿に「いまいましい」と苛立つのは愚かしいことだ」と書く[中田 199530]。性的なまなざしを蝿にたとえ、それがなくならないこと を前提とした上で、自衛としてヴェールをまとうことを是とするその言説は、ヴェールをまとうことで性的な視線を逃れられるというムスリム社会 の構造を示すと同時に、その女性にとっての利点をも雄弁に語る。 


つまりムスリム女性は、ヴェールをまとうことで娼婦役割から自分の意思で「一抜けた」ができるのである。ヴェールは男性の視線よけやセクハラ・痴漢よけであると同時に、自分は性的にまなざされていいような女ではない、という雄弁な宣言でもある。男性の性的なまなざしに対する対抗策としても、ヴェールは機能する。ただしそれは、 そのような手段を選ばない女性をふしだらな女へと落とし込む負の力としても作用する。 


重要なのは、ムスリム社会では、暴力に晒される女性側が男性のまなざしをコントロールするための手段が、構造自体にあらかじめ組み込まれていることである。ムスリム女性は男性にまなざされ、暴力に一方的に晒されるだけの客体ではなく、 客体でありながらヴェールという、まなざしを拒否する道具を持っている。この点はユニークである。日本のジェンダー構造には、性的なまなざしを女性自身がコントロールする手段はほぼない26)。





何度かカミール・パーリアの「フェミニストのイデオロギーは新しい宗教」を引用してきたが、帝国主義的フェミニズムというのはまさにトンデモ宗教だよ。

フェミニズムは死んだ。運動は完全に死んでいる。女性解放運動は反対者の声を制圧しようとする道をあまりにも遠くまで進んだ。異をとなえる者を受け入れる余地はまったくない。まさに意地悪女のようだ。〔・・・〕フェミニストのイデオロギーは、数多くの神経症女の新しい宗教のようなものだ。


Feminism is dead. The movement is absolutely dead. The women’s movement tried to suppress dissident voices for way too long. There’s no room for dissent. It’s just like Mean Girls.  〔・・・〕Feminist ideology is like a new religion for a lot of neurotic women. Camille Paglia on Rob Ford, Rihanna and rape culture, 2013


私は全きフェミニストだ。他のフェミニストたちが私を嫌う理由は、私が、フェミニスト運動を修正が必要だと批判しているからだ。フェミニズムは女たちを裏切った。男と女を疎外し、ポリティカルコレクトネス討論にて代替したのである。

I'm absolutely a feminist. The reason other feminists don't like me is that I criticize the movement, explaining that it needs a correction. Feminism has betrayed women, alienated men and women, replaced dialogue with political correctness. Camille Paglia, Playboy interview, May 1995)