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2021年10月26日火曜日

「母の欲望」は欲望ではなく享楽

 


前回示したこの母の欲望=享楽の名のひとつだな。


父の名は母の欲望を隠喩化する。この母の欲望は、享楽の名のひとつである。この享楽は禁止されなければならない。我々はこの拒否を「享楽の排除」あるいは「享楽の外立」用語で語りうる。二つは同じである。


Le nom du père métaphorise le désir de la mère … ce désir de la mère, c'est un des noms de la jouissance.…jouissance est interdite …on peut aussi parler de ce rejet en terme de forclusion de la jouissance, ou d'ex-sistence de la jouissance. C'est le même. (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un - 25/05/2011


ふつうは奇妙と思うだろうけど、「母の欲望」というのは、母側からみれば欲望だけれど、それを受けとめる最初期の幼児にとっては享楽なんだよ。エディプス期、つまり成人言語の世界にまだ入場していないのだから。


この母の欲望のシニフィアンを「一者のシニフィアンS1」(原シニフィアン)というのだけれど、エディプス期以降は、このS1は、「S1-S2」となる、このS2とは知のシニフィアンであり、S2と繋がることによって、S1は意味化される。このとき初めて、幼児にとっての非意味の享楽が意味化され欲望になる。いわゆる父の隠喩の効果である。


エディプスコンプレックスにおける父の機能は、他のシニフィアンの代理シニフィアンである…他のシニフィアンとは、象徴化を導入する最初のシニフィアン(原シニフィアン)、母なるシニフィアン である[La fonction du père dans le complexe d'Œdipe, est d'être  un signifiant substitué au signifiant,… c'est-à-dire au premier signifiant introduit dans la symbolisation,  le signifiant maternel.  ](Lacan, S5, 15 Janvier 1958)


この父の隠喩によって意味化される以前の「母なるシニフィアン」が単独的な一者のシニフィアンS1であり、母の欲望のシニフィアンだ。


思い起こそう、いかにラカンがDMを設置したかを。一者のシニフィアン[Un signifiant]、つまり母の欲望[le désir de la mère を。ーー、母は常に乳幼児とともにいるわけではない[Un signifiant, le désir de la mère – elle n'est pas tout le temps auprès de son petit, elle l'abandonne et revient]。子供を捨て去りまた帰ってくる。行ったり来たりする。現れては消える[elle n'est pas tout le temps auprès de son petit, elle l'abandonne et revient, il y a des va-et-vient, des apparitions et disparitions]、これが一者のシニフィアンDMとしての登録を正当化する[ce qui justifie de l'inscrire comme un signifiant –, DM]。……現前と不在のシニフィアン[le signifiant de sa présence et de son absence]としての「母の欲望 le désir de la mère」であり、行ったり来たりのシニフィアン[le signifiant de ses va-et-vient. である。 (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse VI, 17 décembre 2008




ラカンは後年、この母なるシニフィアン[le signifiant maternel.]としての一者のシニフィアンを《一者がある[y'a d'l'Un]》とも表現した。


一者のシニフィアン Le signifiant Un[S1]=「一者がある« y'a d'l'Un »」(Lacan, S20, 26 Juin 1973、摘要)


このアンコールセミネールの段階では原症状としてのサントーム概念はまだないが、この母なるシニフィアンとしての「一者がある」が、サントームのシニフィアンだ。


事実上、サントームは「一者がある」である。[le sinthome en fait, c'est …Le Yadl'Un]( J.-A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 18/05/2011)


そしてこれがフロイトの固着のシニフィアンでもある。


S2に付着したS1ではない単独的な一者のシニフィアン[le signifiant, et singulièrement le signifiant Un – …non pas le S1 attaché au S2 ]ーーS2なきS1[S1 sans S2]ーーこれが厳密にフロイトが固着と呼んだものである[précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation.] (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011、摘要)


つまりは母への固着の表象が、母なるシニフィアンという原シニフィアンということになる。


女への固着(おおむね母への固着)[Fixierung an das Weib (meist an die Mutter)](フロイト『性理論三篇』1905年、1910年注)

おそらく、幼児期の母への固着の直接的な不変の継続がある[Diese war wahrscheinlich die direkte, unverwandelte Fortsetzung einer infantilen Fixierung an die Mutter. ](フロイト『女性同性愛の一事例の心的成因について』1920年)


この、S2なきS1[S1 sans S2]という母なるシニフィアンは、別にS(Ⱥ)とも書かれ、対象aでもある。


シグマΣ、サントームのシグマは、シグマとしてのS(Ⱥ) と記される[c'est sigma, le sigma du sinthome, …que écrire grand S de grand A barré comme sigma] (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 6 juin 2001)

言わなければならない、S(Ⱥ)の代わりに対象aを代替しうると[il faut dire … à substituer l'objet petit a au signifiant de l'Autre barré[S(Ⱥ)](J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 16/11/2005)


このリアルな対象aについては、骨象[osbjet]あるいは文字[lettre]とも、ラカンは表現している。


私が « 骨象 osbjet »と呼ぶもの、それは文字[la lettre]、文字対象a[la lettre petit a]として特徴づけられる。そして骨象はこの対象a[ petit a]に還元しうる…最初にこの骨概念を提出したのは、フロイトの唯一の徴[trait unaire] 、つまり[einziger Zug]について話した時からである。

…quelque chose que j'appellerai dans cette occasion : « osbjet  », qui est bien ce qui caractérise  la lettre dont je l'accompagne cet « osbjet  », la lettre petit a.   …que j'ai en somme promue  la première fois que j'ai parlé du trait unaire  :  einziger Zug  dans FREUD.  (Lacan, S23, 11 Mai 1976)


ま、要するに、取り消せない「身体に突き刺さった骨」のシニフィアンであり、これが母への固着のシニフィアンである。


後年のラカンは「文字理論」を展開した。この文字[lettre]とは、固着[ Fixierung]、あるいは、身体の上への欲動の刻印[inscription of the drive on the body]を理解するラカンなりの方法である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年)

享楽の固着を、ラカンはときに文字と呼んだ[une fixion de jouissance …que Lacan appelle lettre à l'occasion.]. (コレット・ソレール Colette Soler, La passe réinventée ? , 2010)


もっとも、リアルな対象aがフロイトの固着であるのは、セミネールⅩの段階で既に言っている。


対象aはリビドーの固着点に現れる[petit(a) …apparaît que les points de fixation de la libido ](Lacan, S10, 26 Juin 1963)


以上でいいかな、たぶんちょっと難しいだろうけど。


要するに、「母の欲望=母なるシニフィアン=S2なきS1=S(Ⱥ)=骨象a=固着」であり、これが享楽のシニフィアンである。


サントームは固着である[Le sinthome est la fixation]. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)

サントームという享楽自体 [la jouissance propre du sinthome] (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 17 décembre 2008)


人がみな持っている原症状というサントームは、事実上、母の名なんだ。


ラカンがサントームと呼んだものは、ラカンがかつてモノと呼んだものの名、フロイトのモノの名である[Ce que Lacan appellera le sinthome, c'est le nom de ce qu'il appelait jadis la Chose, das Ding, ou encore, en termes freudiens](J.-A.MILLER,, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)

モノは母である[das Ding, qui est la mère](ラカン, S7, 16 Décembre 1959)


父の名に対する母の名という概念をラカンは一度も使っていないが、ミレールは次のような形で使っている。


われわれが父の名による隠喩作用を支える瞬間から、母の名は原享楽を表象するようになる。à partir du moment où on fait supporter cette opération de métaphore par le Nom-du-Père, alors c'est le nom de la mère qui vient représenter la jouissance primordial(J.-A. Miller, CAUSE ET CONSENTEMENT, 23 mars 1988)



現実界の享楽のシニフィアン、これが「母の欲望=母なるシニフィアン」としての母への固着の表象だということになる。


フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel ](ラカン, S23, 13 Avril 1976)

サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)


ーー《シニフィアンは(S1-S2 という)連鎖外にあるとき現実界的なものになる[le signifiant devient réel quand il est hors chaîne]》(Colette Soler, L'inconscient Réinventé, 2009)



このあたりは、ラカン研究者プロパでもまだわかってない人が多いよ。とはいえ何よりもまず、母の欲望は欲望ではなく享楽だということが肝腎。ラカンを読むなら、この出発点だけはしっかり認知しておいたほうがいいよ。


そこを手始めとして最終的には固着の内実を掴むことだね。


分析経験の基盤は厳密にフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである[fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)

精神分析における主要な現実界の到来は、固着としての症状である[l'avènement du réel majeur de la psychanalyse, c'est Le symptôme, comme fixion,](Colette Soler, Avènements du réel, 2017年)


享楽は欲望とは異なり、固着された点である。享楽は可動機能はない。享楽はリビドーの非可動機能である。La jouissance, contrairement au désir, c'est un point fixe. Ce n'est pas une fonction mobile, c'est la fonction immobile de la libido. (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse III, 26 novembre 2008)

人の生の重要な特徴はリビドーの可動性であり、リビドーが容易にひとつの対象から他の対象へと移行することである。反対に、或る対象へのリビドーの固着があり、それは生を通して存続する。Ein im Leben wichtiger Charakter ist die Beweglichkeit der Libido, die Leichtigkeit, mit der sie von einem Objekt auf andere Objekte übergeht. Im Gegensatz hiezu steht die Fixierung der Libido an bestimmte Objekte, die oft durchs Leben anhält. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)


…………


ここまでだけだとボクの気分としてはひどく物足りないので、こう付け加えておくよ。


例えば「母の乳房への固着」というのがある。


母の乳房の、いわゆる原イマーゴの周りに最初の固着が形成される。sur l'imago dite primordiale du sein maternel, par rapport à quoi vont se former […] ses premières fixations, (Lacan, S4, 12 Décembre 1956)


あるいはこういうのもある。


出産外傷「Das Trauma der Geburt]=母への原固着[ »Urfixierung«an die Mutter ]=原抑圧[Urverdrängung]=原トラウマ [Urtrauma](フロイト『終りある分析と終りなき分析』第1章、1937年、摘要)


これは事実上、ランクの「女性器への固着」だ。


出生の器官としての女性器の機能への不快な固着は、究極的には成人の性的生のすべての神経症的障害の底に横たわっている[Die unlustvolle Fixierung an diese Funktion des weiblichen Genitales als Gebärorgan, liegt letzten Endes noch allen neurotischen Störungen des erwachsenen Sexuallebens zugrunde](オットー・ランク『出産外傷』Otto Rank "Das Trauma der Geburt" 1924年)


不快とあるが、不快=享楽であり、「女性器への享楽の固着」だ。


不快は享楽以外の何ものでもない [déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. ](Lacan, S17, 11 Février 1970)


な、母の乳房への固着や母胎への固着ってのは、男女ともにその生の核だよ。その代理品を抱えている女が自己愛傾向にあり、男が対象愛傾向にある原因はここだね。


母へのエロス的固着の残滓は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。そしてこれは女への拘束として存続する。Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her, die sich später als Hörigkeit gegen das Weib fortsetzen wird. (フロイト『精神分析概説』第7章、1939年)


男女とも女拘束[Hörigkeit gegen das Weib] があるんだ。男性の同性愛だけ一見例外に見えるが、フロイトラカンの臨床的実践から得られた「事実」はそうではない。


同性愛において見られる数多くの痕跡がある。何よりもまず、母への深く永遠な関係である。Il y a un certain nombre de traits qu'on peut voir chez l'homosexuel.   On l'a dit d'abord :  un rapport profond et perpétuel à la mère. (Lacan, S5, 29 Janvier 1958)

男性の同性愛者の女への愛[L'amour de l'homosexuel pour les femmes]は、昔から知られている。われわれは名高い名、ワイルド、ヴェルレーヌ、アラゴン、ジイドを挙げることができる。彼らの欲望は女へは向かわなかったとしても、彼らの愛は「ひとりの女 Une femme 」に落ちた。すくなくとも時に。


男性の同性愛者は、その人生において少なくとも一人の女をもっている。フロイトが厳密に叙述したように、彼の母である。…


私はすべてがそうであると言うつもりはない。同性愛者の多様性は数限りない。それにもかかわらず、ラカンがセミネール「無意識の形成」にて例として覆いを解いた男性の同性愛者のモデルは、「母への深く永遠な関係」という原理を基盤としている。( Jean-Pierre Deffieux, Pour vivre heureux vivons mariés ーーLe Journal extime de Jacques-Alain Miller、2013)



繰り返せば、両性とも、フロイトのいう「母へのエロス的固着の残滓[Rest der erotischen Fixierung an die Mutter]」が女への拘束をもたらす。この残滓が、リアルな対象aであり、享楽だ。


残滓がある。分割の意味における残存物である。この残滓が対象aである[il y a un reste, au sens de la division, un résidu.  Ce reste, …c'est le petit(a).  ](Lacan, 21 Novembre  1962)

享楽は残滓 (а)  による[la jouissance…par ce reste : (а)  ](Lacan, S10, 13 Mars 1963)

ーー《母は構造的に対象aの水準にて機能する。C'est cela qui permet à la mamme de fonctionner structuralement au niveau du (а).  》(Lacan, S10, 15 Mai 1963 )



男女の性関係の厄介さの起源はここにしかないよ。


男の愛と女の愛は、心理的に別々の位相にある、という印象を人は抱く[Man hat den Eindruck, die Liebe des Mannes und die der Frau sind um eine psychologische Phasendifferenz auseinander.](フロイト『新精神分析入門講義』第33講「女性性 Die Weiblichkeit」 1933年)


ーーというあたりでやめとくか、ボクの芋蔓式脳髄は、ニーチェを引用することを促すんだが、ここでは押しとどめておくよ