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2021年10月26日火曜日

惑わし神のタタリ

 


僕は作品でエロティックなことをずっと追ってきました。そのひとつの動機として、空襲の中での性的経験があるんですよ。爆撃機が去って、周囲は焼き払われて、たいていの人は泣き崩れている時、どうしたものか、焼け跡で交わっている男女がいます。子供の眼だけれども、もう、見えてしまう。家人が疎開した後のお屋敷の庭の片隅とか、不要になった防空壕の片隅とか、家族がみんな疎開して亭主だけ残され、近所の家にお世話になっているうちにそこの娘とできてしまうとか、いろんなことがありました。(古井由吉『人生の色気』)



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瓦礫の中で闇の品をおおっぴらに取りひきする者もあれば、崩れのこった壁の陰にわずかに 人目を隠して、そそくさとまじわる男女もいた。(古井由吉「安堵と不逞と」『楽天の日々』)


ところが、その場所にどうしても行き着けない。女に初めて声をかけられた所はわかった。それに問違いはなかった。そこを起点として、あたり一帯がいくら変わり果てたと言っても、おのずと知ってたどっていたはずの道のことだから、たやすくたどり返せると思って歩き出すと、それらしい焼跡にあっさりと出る。しかし立ち停まって見渡せば、夕日にあまねく赤く照らされて、あちこちに瓦礫の山はあっても、男女の交わる物陰はありそうにもない。時刻が早すぎたかと思って、夕闇の降りかかるまであたりをうろついたが、暗くなるほどに、違った場所に見えてくる。


つぎの時には暮れようともしないその焼跡を横目にして通り過ぎ、その先は足にまかせて、たそがれるまで歩くと、それらしい場所も見つからなかったかわりに、遠くまで来ていた。あの日も女と交わった所が自分の帰る道から大きく逸れていたことを、女と別れて引き返す道々、そんなことのあった後の放心の中から、自分は一体、どこへ行くつもりだったのだろう、と不思議がったものだが、それよりも、そこまで女の先に立って、ロもきかず、振り向いて顔も見ず、どこをどう、たそがれるまで歩いて来たのだろう、といまさら驚くと、幼い頃に聞かされて怯えた、惑わし神という名が耳もとに息づかいのようにふくらんで、足もとから慄えが突き抜け、恐怖ともつかず、一瞬つのった女への恋情ともつかず、立ちながらに精を洩らした。(古井吉吉「瓦礫の陰に」『やすらい花』)



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焼け跡で交わる男女⋯⋯焼き払われると、境がなくなってしまうんですね。敷地と敷地の境も、町と町の境も、それから時間の境もなくなってしまう。そういう無境の中で、男女が交わる。(古井由吉「すばる」2015年9月号)


人間は、ぎりぎりの極限状態に置かれるとかえって生命力が亢進します。昨日を失い、明日はない。今の今しかない。時間の流れが止まった時こそ、人は永遠のものを求める。


その時、人間同士の結びつきで一番確かなものは、ひょっとして性行為ではないのか。赤剝けになった心と心を重ね合わせるような、そんな欲求が生まれたんじゃないか。


一般的に、エロスとは性欲や快楽を指す言葉かもしれません。が、僕の追求するエロスは、そんな甘いものじゃない。人間が生きながらえるための根源的な欲求のことです。(古井由吉「サライ」2011年3月号)



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一般的に神と呼ばれるものがある。だが精神分析が明らかにしたのは、神とは単に女なるものだということである[C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile  que c'est tout simplement « La femme ».  ](ラカン, S23, 16 Mars 1976)

(原母子関係には)母なる女の支配がある。語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。女なるものは、享楽を与えるのである、反復の仮面の下に[une dominance de la femme en tant que mère, et :   - mère qui dit,  - mère à qui l'on demande,  - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme.  La femme donne à la jouissance d'oser le masque de la répétition.] (ラカン, S17, 11 Février 1970)


ーー《quoad matrem(母として)、つまり女なるものは、母として以外には性関係へ入ることはない[quoad matrem, c'est-à-dire que La femme n'entre en fonction dans le rapport sexuel qu'en tant que la mère ]》(ラカン, S20, 09 Janvier 1973)



享楽自体は裂け目を含有している。享楽自体は穴を為すもの、取り去らねばならない過剰を含有している。c'est la jouissance même qui comporte une béance. C'est la jouissance même qui fait trou, qui comporte une part excessive qui doit être soustraite,


そして、一神教の神としてのフロイトの父は、このエントロピーの包被・覆いに過ぎない et le père freudien comme le Dieu du monothéisme n'est que l'habillage, la couverture de cette entropie. 〔・・・〕


フロイトによる神の系譜は、ラカンによって、父から、女なるものに取って変わられた。la généalogie freudienne de Dieu se trouve déplacée du père à La femme.


神の系図を設立したフロイトは、父の名において立ち止まった。ラカンは父の隠喩を掘り進み、母の欲望と補填としての女性の享楽に至る。Freud, établissant la généalogie de Dieu, s'arrêtait au Nom-du- Père. La généalogie lacanienne fore la métaphore paternelle jusqu'au désir de la mère et la jouissance supplémentaire de la femme. (J.-A. Miller, Passion du nouveau, 2013)


父の名は母の欲望を隠喩化する。この母の欲望は、享楽の名のひとつである。この享楽は禁止されなければならない。我々はこの拒否を「享楽の排除」あるいは「享楽の外立」用語で語りうる。二つは同じである。


Le nom du père métaphorise le désir de la mère … ce désir de la mère, c'est un des noms de la jouissance.…jouissance est interdite …on peut aussi parler de ce rejet en terme de forclusion de la jouissance, ou d'ex-sistence de la jouissance. C'est le même. (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un - 25/05/2011)


私が排除[forclusion]について、その象徴的関係の或る効果を正しく示すなら、〔・・・〕象徴界において抑圧されたもの全ては現実界のなかに再び現れる。というのは、まさに享楽はまったき現実界的なものだから[Si j'ai parlé de forclusion à juste titre pour désigner certains effets de la relation symbolique,[…]tout ce qui est refoulé dans le symbolique reparaît dans le réel, c'est bien en ça que la jouissance est tout à fait réelle. ](Lacan、S16, 14 Mai 1969)

穴を為す現実界に、享楽は外立する[C'est au Réel comme faisant trou, que la jouissance ex-siste. ](Lacan, S22, 17 Décembre 1974)



神のタタリ(外立)[l'ex-sistence de Dieu] (Lacan, S22, 08 Avril 1975)

後代の人々の考へに能はぬ事は、神が忽然幽界から物を人間の前に表す事である。〔・・・〕たゝると言ふ語は、記紀既に祟の字を宛てゝゐるから奈良朝に既に神の咎め・神の禍など言ふ意義が含まれて来てゐたものと見える。其にも拘らず、古いものから平安の初めにかけて、後代とは大分違うた用語例を持つてゐる。最古い意義は神意が現れると言ふところにある。〔・・・〕たゝりはたつのありと複合した形で、後世風にはたてりと言ふところである。「祟りて言ふ」は「立有而言ふ」と言ふ事になる。神現れて言ふが内化した神意現れて言ふとの意で、実は「言ふ」のでなく、「しゞま」の「ほ」を示すのであつた。(折口信夫『「ほ」・「うら」から「ほかひ」へ』)




ハイデガーは、フライ・ウント・オッフェン(frei und offen)つまり、フリー・エンド・オープンと言っています。さらに エクスターティッシュ・オッフェン(ekstatisch offen)、ecstasically open と言っています。エクスターゼによって開いてある、とおおよそそんな意味になりますか。エク・スターシス ek-stasis とは本来、自身の外へ出てしまう、ということです。忘我、恍惚、驚愕、狂気ということでもある。(古井由吉・木田元「ハイデガ ーの魔力」2001 年)




原抑圧の外立[ l'ex-sistence de l'Urverdrängt] (Lacan, S22, 08 Avril 1975)


抑圧の第一段階ーー原抑圧された欲動ーーは、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, (primär verdrängten Triebe) dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ]。

この欲動の固着[Fixierungen der Triebe] は、以後に継起する病いの基盤を構成する。〔・・・〕


抑圧されたものの回帰は固着点から起こる[der Wiederkehr des Verdrängten …erfolgt von der Stelle der Fixierung her](フロイト『症例シュレーバー 』1911年、摘要)


抑圧されたものの回帰は欲動的享楽に関係する[le retour du refoulé dans le rapport à la jouissance pulsionnelle](J.-A. MILLER, L'expérience du réel dans la cure analytique - 3/02/99)

「抑圧されたものの回帰」は、症状の形態における「享楽の回帰」と相同的である[retour du refoulé, …symétriquement il y a retour de jouissance, sous la forme du symptôme.](J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 10/12/97)


ひとりの女とは何か? ひとりの女は症状である! « qu'est-ce qu'une femme ? » C'est un symptôme ! (Lacan, S22, 21 Janvier 1975)


モノは享楽が刻印されており、症状である[la Chose, où s'inscrit la jouissance , c'est le symptôme,](J.-A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011)

モノは母である[das Ding, qui est la mère ](ラカン、 S7 16 Décembre 1959)

母は「原リアルの名」であり、「原穴の名」である。Mère, …c’est le nom du premier réel, …c’est le nom du premier trou (Colette Soler, Humanisation ? , 2014、摘要)

母なる対象はいくつかの顔がある。まずは「要求の大他者」である。だがまた「身体の大他者」、「原享楽の大他者」である[L'objet maternel a plusieurs faces : c'est l'Autre de la demande, mais c'est aussi l'Autre du corps…, l'Autre de la jouissance primaire.](Colette Soler , LE DÉSIR, PAS SANS LA JOUISSANCE Auteur :30 novembre 2017)


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疑いもなく、症状は享楽の固着である[sans doute, le symptôme est une fixation de jouissance. ](J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 12/03/2008)

享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation …on y revient toujours.] (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 20/5/2009)

分析経験の基盤は厳密にフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである[fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)


ラカンの現実界は、フロイトの無意識の核であり、固着のために置き残される原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、表象への・言語への移行がなされないことである。The Lacanian Real is Freud's nucleus of the unconscious, the primal repressed which stays behind because of a kind of fixation . "Staying behind" means: not transferred into signifiers, into language(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年)

幼児期の純粋な偶然的出来事は、リビドーの固着を置き残す傾向がある[daß rein zufällige Erlebnisse der Kindheit imstande sind, Fixierungen der Libido zu hinterlassen. ](フロイト 『精神分析入門』 第23講 1917年)


ーー《フロイトは、幼児期の享楽の固着の反復を発見したのである[Freud l'a découvert… une répétition de la fixation infantile de jouissance. ]》(J.-A. MILLER, LES US DU LAPS -22/03/2000)



頼朝公卿幼少の砌の髑髏〔しゃれこうべ〕、という古い笑い話があるが、誰しも幼少年期の傷の後遺はある。感受性は深くて免疫のまだ薄い年頃なので、傷はたいてい思いのほか深い。はるか後年に、すでに癒着したと見えて、かえって肥大して表れたりする。しかも質は幼年の砌のままで。


小児の傷を内に包んで肥えていくのはむしろまっとうな、人の成熟だと言えるのかもしれない。幼い頃の痕跡すら残さないというのも、これはこれで過去を葬る苦闘の、なかなか凄惨な人生を歩んできたしるしかと想像される。しかしまた傷に晩くまで固着するという悲喜劇もある。平生は年相応のところを保っていても、難事が身に起ると、あるいは長い矛盾が露呈すると、幼年の苦についてしまう。現在の関係に対処できなくなる。幼少の砌の髑髏が疼いて啜り泣く。笑い話ではない。


小児性を克服できずに育った、とこれを咎める者もいるだろうが、とても、当の小児にとっても後の大人にとってもおのれの力だけで克服できるようなしろものではない、小児期の深傷〔ふかで〕というものは。やわらかな感受性を衝いて、人間苦の真中へ、まっすぐに入った打撃であるのだ。これをどう生きながらえる。たいていはしばらく、五年十年あるいは二十年三十年と、自身の業苦からわずかに剥離したかたちで生きるのだろう。一身の苦にあまり耽りこむものではない、という戒めがすくなくとも昔の人生智にはあったに違いない。一身の苦を離れてそれぞれの年齢での、家での、社会での役割のほうに付いて。芯がむなしいような心地でながらく過すうちに、傷を克服したとは言わないが、さほど歪まずとも受け止めていられるだけの、社会的人格の《体力》がついてくる。人の親となる頃からそろそろ、と俗には思われているようだ。


しかし一身の傷はあくまでも一身の内面にゆだねられる、個人において精神的に克服されなくてはならない、克服されなくては前へ進めない、偽善は許されない、という一般的な感じ方の世の中であるとすれば、どういうことになるだろう。また社会的な役割の、観念も実態もよほど薄い、個人がいつまでもただの個人として留まることを許される、あるいは放置される世の中であるとすれば。(古井由吉「幼少の砌の」『東京物語考』1984年)


女は子供を連れて危機に陥った場合、子供を道連れにしようという、そういうすごいところがあるんです。(古井由吉「すばる」2015年9月号)