このブログを検索

2021年12月28日火曜日

若い経済的マゾヒストに対する不作法な同情

  確かにフロイトのマゾヒズムの定義は自己破壊であり、これが原欲動(原破壊欲動)だ。そしてその投射として他者破壊、つまりサディズムがある。


マゾヒズムはその目標として自己破壊をもっている。〔・・・〕そしてマゾヒズムはサディズムより古い。サディズムは外部に向けられた破壊欲動であり、攻撃性の特徴をもつ。或る量の原破壊欲動は内部に居残ったままでありうる。

Masochismus […] für die Existenz einer Strebung, welche die Selbstzerstörung zum Ziel hat. […] daß der Masochismus älter ist als der Sadismus, der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstrieb, der damit den Charakter der Aggression erwirbt. Soundsoviel vom ursprünglichen Destruktionstrieb mag noch im Inneren verbleiben; 〔・・・〕


我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊傾向から逃れるために、他の物や他者を破壊する 必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい開示だろうか!

es sieht wirklich so aus, als müßten wir anderes und andere zerstören, um uns nicht selbst zu zerstören, um uns vor der Tendenz zur Selbstdestruktion zu bewahren. Gewiß eine traurige Eröffnung für den Ethiker! (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)


だがこのマゾヒズム/サディズム(自己破壊/他者破壊)の穏やかヴァージョンがある。受動性/能動性(女性性/男性性)だ。



男性的と女性的は、あるときは能動性と受動性の意味に、あるときは生物学的な意味に、また時には社会学的な意味にも用いられている[Man gebraucht männlich und weiblich bald im Sinne von Aktivität und Passivität, bald im biologischen und dann auch im soziologischen Sinne.]。〔・・・〕


だが人間にとっては、心理学的な意味でも生物学的な意味でも、純粋な男性性または女性性[reine Männlichkeit oder Weiblichkeit]は見出されない。個々の人間はすべて、自らの生物学的な性特徴と異性の生物学的な特徴との混淆[Vermengung] をしめしており、また能動性と受動性という心的な性格特徴が生物学的なものに依存しようと、それに依存しまいと同じように、この能動性と受動性との融合[Vereinigung von Aktivität und Passivität」をしめしている。(フロイト『性欲論三篇』第3章、1905年)


容易に観察されるのは、セクシャリティの領域ばかりではなく、心的経験の領域においてはすべて、受動的に受け取られた印象[passiv empfangener Eindruck]が小児に能動的な反応を起こす傾向[Tendenz zu einer aktiven Reaktion]を生みだすということである。以前に自分がされたりさせられたりしたことを自分でやってみようとするのである。


それは、小児に課された外界に対処する仕事[Bewältigungsarbeit an der Außenwelt]の一部であって、…厄介な内容のために起こった印象の反復の試み[Wiederholung solcher Eindrücke bemüht]というところまでも導いてゆくかもしれない。


小児の遊戯もまた、受動的な体験を能動的な行為によって補い[passives Erlebnis durch eine aktive Handlung zu ergänzen] 、いわばそれをこのような仕方で解消しようとする意図に役立つようになっている。

医者がいやがる子供の口をあけて咽喉をみたとすると、家に帰ってから子供は医者の役割を演じ、自分が医者に対してそうだったように、自分に無力な幼い兄弟をつかまえて、暴力的な処置を反復する[die gewalttätige Prozedur an einem kleinen Geschwisterchen wiederholen]。受動性への反抗と能動的役割の選択 [Eine Auflehnung gegen die Passivität und eine Bevorzugung der aktiven Rolle]は疑いない。(フロイト『女性の性愛』第3章、1931年)



基本的には受動性がマゾヒズムだよ、ーー《マゾヒズム的とは、その根において女性的受動的 である。masochistisch, d. h. im Grunde weiblich passiv.》(フロイト『ドストエフスキーと父親殺し』1928年)




例えば、ラカンはこう言っている。


他者の欲望の対象として自分自身を認めたら、常にマゾヒスト的である[que se reconnaître comme objet de son désir, …c'est toujours masochiste.] (ラカン, S10, 16 janvier 1963)


つまり惚れられ体験ってのはマゾヒズム体験だ。それをサディズム的に投射するか否かは人によるんだろうがね。


でもフロイトが言っているように受動的体験は能動的な行為で補うのが普通だ。


ツイッターなんかで他者破壊的に吠えているヤツはおそらくその大半がマゾヒズム的体験の投射だろうな。とくに最近の若いのは経済的マゾヒズム体験ーーつまり金欠ーーをしてるヤツが多いから、ツイッターで鬱憤晴らしてるんだろうよ



私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性とは時に紙一重である、それは、天秤の左右の皿かもしれない。〔・・・〕私たちは、自分たちの中の破壊性を何とか手なずけなければならない。かつては、そのために多くの社会的捌け口があった。今、その相当部分はインターネットの書き込みに集中しているのではないだろうか。(中井久夫「「踏み越え」について」2003年初出『徴候・記憶・外傷』所収)



この意味では、同情してあげなくちゃいけないところがあるんだな






そこのキミらに同情するなんて不作法はおかしたくないけどさ。


わたしが同情心の持ち主たちを非難するのは、彼らが、恥じらいの気持、畏敬の念、自他の間に存する距離を忘れぬ心づかいというものを、とかく失いがちであり、共感がたちまち賤民のにおいを放って、不作法と見分けがつかなくなるからである。

Ich werfe den Mitleidigen vor, dass ihnen die Scham, die Ehrfurcht, das Zartgefühl vor Distanzen leicht abhanden kommt, dass Mitleiden im Handumdrehn nach Pöbel riecht und schlechten Manieren zum Verwechseln ähnlich sieht, (ニーチェ『この人を見よ』1888年)



でも連中はほかの吠える場処、見つからないんだろうよ。祭りとかの社会的捌け口も身近にはなくなっちまったからな。


かなまら祭りのたぐいが「若者救済」のために全国的にあるべきだね





そもそも、かなマラがあってどうして蓮メコ祭りがないんだろ。経済的マゾヒストの男性諸君のために是非必要なんだがな。


次のようなのを男女逆にしてさ、荷台には蓮華でものしとけばいいさ。ツイッターで吠えてるのよりずーっとマシ。




いやカナマラ自体、もういくら工夫すればそれですむかも。呪物を唐津の道祖神みたいなのにしてさ。




若きマゾヒスト的男女両性のために、全国で道祖神祭おこし運動するべきだね、これが実現したらツイッターでのフェミ対アンチフェミのたぐいのお医者さんごっこがいくらかおさまる筈だがな