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2021年2月27日土曜日

マレビト


フロイトの異物 [Fremdkörper] ーー異者としての身体ーーはマレビトと訳すこともできる語である(参照)。

たとえばフロイトはこう言っている。


原抑圧と同時に固着が行われ、暗闇に異者が蔓延る。Urverdrängung[…] Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; […]wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen, (フロイト『抑圧』1915年、摘要)


そしてラカン。

原抑圧の外立 l'ex-sistence de l'Urverdrängt (Lacan, S22, 08 Avril 1975)

神の外立 l'ex-sistence de Dieu (Lacan, S22, 08 Avril 1975)


ーーこれは快原理に彼岸にカミとしてのマレビトがタタルという風に捉えうる。


別の言葉で言えば、享楽がタタルのである。


享楽は外立する la jouissance ex-siste (Lacan, S22, 17 Décembre 1974)

現実界のなかの異物概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある。une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance (J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)


ここで折口のタタルを引こう。


・後代の人々の考へに能はぬ事は、神が忽然幽界から物を人間の前に表す事である。


・たゝると言ふ語は、記紀既に祟の字を宛てゝゐるから奈良朝に既に神の咎め・神の禍など言ふ意義が含まれて来てゐたものと見える。其にも拘らず、古いものから平安の初めにかけて、後代とは大分違うた用語例を持つてゐる。最古い意義は神意が現れると言ふところにある。


・たゝりはたつのありと複合した形で、後世風にはたてりと言ふところである。「祟りて言ふ」は「立有而言ふ」と言ふ事になる。神現れて言ふが内化した神意現れて言ふとの意で、実は「言ふ」のでなく、「しゞま」の「ほ」を示すのであつた。(折口信夫『「ほ」・「うら」から「ほかひ」へ』)


折口の日本古代研究における語解釈は、エディプスの彼岸を思考するフロイトラカンの語彙群の意味合いとときに驚くほど相同性があるように思える。もちろん完全に一致するわけではまったくない。


ここでは当面、マレビトの文献を二つだけ掲げる。



「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫

稀に来る人と言ふ意義から、珍客をまれびとと言ひ、其屈折がまらひと・まらうどとなると言ふ風に考へて居るのが、従来の語原説である。近世風に見れば、適切なものと言はれる。併し古代人の持つて居た用語例は、此語原の含蓄を拡げなくては、釈かれない。〔・・・〕


まれびととは何か。神である。時を定めて来り臨む大神である。(大空から)或は海のあなたから、ある村に限つて富みと齢とその他若干の幸福とを齎して来るものと、その村々の人々が信じてゐた神の事なのである。此神は、空想に止らなかつた。古代の人々は、屋の戸を神の押ぶるおとづれと聞いた。おとづるなる動詞が訪問の意を持つ事になつたのは、本義音を立てるが、戸の音にのみ聯想が偏倚したからの事で、神の「ほと〳〵」と叩いて来臨を示した処から出たものと思ふ。戸を叩く事について深い信仰と、聯想とを持つて来た民間生活からおしてさう信じる。宮廷に於いてさへ、神来臨して門を叩く事実は、毎年くり返されて居た。


其神の常在る国を、大空に観じては高天原と言ひ、海のあなたと考へる村人は、常世の国と名づけて居た。〔・・・〕

常世は富み・齢・恋の国であると共に、魂の国であつた。人々の祖々の魂は常世の国に充ちてゐるものとした。〔・・・〕


常世からする神に対する感情は、寧「人」と言ふのが適してゐた。又、其が「人」のする事である事を知つて居たからかも知れない。我々の祖先は、之にまれびとと命けた。

(折口信夫「「とこよ」と「まれびと」と」1929年(昭和4年))




◼️「折口信夫の霊魂論覚書」小川直之 2007年

柳田國男と折口信夫は、ともに日本の神道を、戦後の混乱の中から復興しようと腐心したが、霊魂観をはじめとする日本人の神観念についての見解は、両者に大きな隔たりがある。その隔たりは石田英一郎の司会で行われた対談「日本人の神と霊魂の観念そのほか」(『民族学研究』第一四巻第二号、昭和二十四年十二月)にはっきりと現れている。対談は、柳田國男を師と仰ぐ折口は、控え目で柳田を立てるような発言をしつつも、決して譲ることなく持論を展開し、学問的方法の違いをもあらわにしながらしのぎを削りあい、緊迫したその場の雰囲気が伝わってくるような記録となっている。


よく知られているようにこの対談では、「まれびと」論をめぐって真っ向から両者が対立している。柳田は「いい機会だから折口君のマレビトといふことについて、一つ研究してみたいと思ひます。あなたも研究してゐる。私も書かれたものを注意して来てゐるが、私の学問の面にはさうはつきりしたものが出て来ない。」と、否定しつつも取り上げ、しかも柳田は「いい機会だから、あなたがマレビトといふことに到達した道筋みたいなものを、考へてみようぢやありませんか。これはかなり大きな問題と思ひますから。」と挑発的である。これに続いて折口のマレビトについての説明、柳田の意見と質問があって、石田の「マレビトの中には祖霊とか祖先神とかいふ観念は含まれて居りませうか。」という質問に対して折口は、「それは一番整頓した形で、最初とも途中とも決定出来ませんが、日本人は第一次と見たいでせうな─。」と、マレビトには祖霊・祖先神としての性格が与えられていることを認め、その祖霊・祖先神は、「常世国なる死の島」「常世の国」に集まって男女それぞれの霊魂に帰した祖先の霊魂で、「村の祖先」として来訪するのが本来の考え方であると言っている。 


この折口の発言に対して柳田は、「常世から来たとみるか、または鉢叩きの七兵衛と見るか、受け方だけの事情ではなかつたらうか」と批判をこめた異義を唱え、一族がまつる自族の神より力の強い他族の神への信仰がうまれ、これによって「stranger-god(客神)の信用は少しづつ発生しかかつてゐたのではなからうか」と、自らの見解を示している。 


こうしたマレビトに関する議論に続いて取り上げられるのが、「タマとカミとムスビ」「主神・客神・統御神・末社」「モおよびモノについて」「祖霊と神」で、ここで神や霊魂観に関する議論が行われている。 


まず「タマとカミとムスビ」では、石田の、霊魂観念と神観念との関係性に対する問いに、柳田は「強くは言へないが、無論私は関係があると思ふ。タマとカミの関係はまだつかない。何時からが神で、何時までがタマだつたか分らない。折口君、何か説明がつかないものかな。」という。これに対して折口は、「タマといふ語とカミといふ語には相当はつきりした区劃があつた。それが段々『国魂』の神などいふ表現を持つやうになつて来ました。そのタマと別でゐて、混乱し易く、また事実関係の深かつたのは八神殿の神々でせう。」といい、八神殿の神について、タカミムスビ、カムムスビ、イクムスビ、タルムスビ、タマツメムスビは、「霊魂を人の身体につける呪術師、鎮魂の技術者で」、「さいうふ呪術者は、神を創る人といふわけで」神聖視されて神というようになった。また、「屋敷─土地─の霊魂、食物の霊魂、宮殿の霊魂としてのコトシロヌシ、ミケツカミ、オホミヤノメといふ三つの霊魂」は、産霊神によって鎮呪されることで神として出現したと考えることができ、こうした「考へ方は、霊魂を神より先に考げてゐたからだと思います」と解釈している。


さらに、一方では「天御中主」は霊魂が入って出来る神以前に神としての観念があり、「魂は神の身中にあつたと見てゐたものが、人間の身の中にも鎮呪によつて、這入ることが出来、そこに人間に生命が生じると思つたものと考へてよいか、或はこの人間の上の事実─古代人としては、これほど確かな事がないと考へてゐた─の方が先で神の霊魂を考へたのか、それは 日本だけでは決定出来さうですが、宗教民族学の知識をもつと参照する必要があります」と述べている。


折口は続いて、八神殿の傍の斎戸殿は天子の御魂の鎮まっているところで、斎戸から天皇霊を迎えて御躰に鎮魂するのが産霊神で、「比較民族学からして見れば、その産霊呪術の事なども、もつと明るくなつて来るのではないか」と研究の見通しを示している。しかし柳田は、「それ(産霊呪術)が根本の問題ですね」といいながらも、その本体は民族学でも認められない。だから自分の研究は「現存するものからやつていかうとする。そこに二人の研究の開きがある」と、折口と自分との研究手法の違いをいい、折口も「私臭い民俗学の癖といふものも御座いまして、その為に、石田、岡さんの方の民族学に非常に近くなつて来てゐる」と、違いを認めている。


折口は日本人の神観念には、霊魂を神とする観念、霊魂を内にそなえた神の観念、鎮魂呪術を行う呪術者を神とする観念の三つがあると説いている。しかし、この対談の中では霊魂を神とする観念と「既存者」とも表現している霊魂を内にそなえた神の観念との関係、「既存者」と鎮魂呪術を行う呪術者を神とする観念との関係については論じておらず、三者の構造的関連性については未完と言わざるを得ない。ここで重視されているのは、鎮魂を行う呪術者を神とする観念で、石田の求めに応じて折口は、「産霊」について、「ムスブ」というのは「霊魂を物質の中に入れると、物質が生命を得て大きくなつていくと共にその霊魂も育つて行く。さうした呪術を施すことをムスブといふのが、この語の用語例で」、「鎮魂の為の所置法をいふ」と説明し、「沖縄などでも、マブイクミ(霊魂籠め)の呪術として、ユタ並びに、物馴れた老女がする唯の呪術に残つてゐます」と実例をあげている。 



こうして対談では産霊神の位置づけをめぐって議論が進み、再び日本人の神観念に対する基本的認識に戻り、「祖霊と神」では、次のような問い直しが行われる。 


石田 (前略)要するに柳田先生のお考へでは、日本の神といふものの一番もとの形といふものは、やはり祖先の霊魂(タマ)といふやうなところに帰着すると解釈して差支へありませんでせうか。 


柳田 忌憚なく言へば、折口君の考へられてゐるのは、非常に精巧な原理だから、最初の日本人がさういふものを考へ出すことは一朝一夕には出来なかつたのではなからうか。言葉を換へて言へば、或る単純な霊魂が先か、神が先かが問題になる。 


石田 さうしてその単純な霊魂が祖霊といふ観念だつたとお考へですか。 


柳田 それは一番身に近い、また切実な経験が、古代凡人の信仰の種子双葉だつたらうといふ点から、私は 迂闊に学者の哲学くさい解釈には附いて行かぬだけで、仮定としては決して粗末にはしない。(後略) 


この発言に続けて、柳田は、自分が考えているのは「国つ神の信仰」で、「朝廷や大きな神社の奉仕者には、天つ神にふさはしい神学が支配してゐたかもしれぬ」、こういう天つ神の神学に対して、「折口君は国学院大学の先生で」除外するわけにはいかないだろうと言う。これに対して折口は「私ども従来の神道家の学説を肯定する為にばかり学問してゐるわけではございませんし、肯定するにしても、従来の人たちの持つてゐた概念や観念をも一度たて直しておかねば、正しい学問としての研究の対象となることが出来ません」、それで三十年来、柳田先生の方法に泥んで民俗学研究と、民俗学的方法で文学や神道などの立て直しに かかってきた。だから行き方は柳田先生と変わっているとは思わない、と返答している。 


柳田は、折口の言う霊魂や神観念論は「非常に精巧な原理だから、最初の日本人がさういふものを考へ出すことは一朝一夕には出来なかつたのではなからうか」と疑問を呈し、それは「天つ神にふさはしい神学」なのではないかとする。しかし、自分は「国つ神の信仰」で、「一番身に近い、また切実な経験が、古代凡人の信仰の種子双葉だつたらうと」考えるので、日本の神のもとの形に祖先の霊魂、祖霊を考えるとするのである。仮説としては折口説を粗末にはしないが、「私は迂闊に学者の哲学くさい解釈には附いて行かぬ」というのは、いうまでもなく柳田の痛烈な折口批判である。 


昭和二十四年四月十六日に柳田邸で行われた(『折口信夫全集』三六の年譜による)如上の対談は、学史上の単なる一齣では済まされない内容をもつといえよう。それは日本人の霊魂観や神観念に、いかに迫り、どのような歴史モデルを設定するのか、その基本的パラダイムにかかわる内容をもち、しかもここには未だに解決されてない幾つもの課題が横たわっているからである。 対談は柳田七十四歳、折口六十三歳の時だが、ここではたとえば柳田は前述のように「stranger-god(客神)」の発生について新たな見解を示し、これに折口が「先生のお考へ─さういふ見方は、私にとつては、はじめてで。その考へによつて、考へ直してみませう」と言ったり、折口が「氏(うち)」の観念を「稜威(ウチ)」と関連づけ、「氏人は一つの神のウチに与り得る人であり、ウチの人のウチを授ける神がウヂ神(氏神)で」、ここから氏の観念が出て来たという見解を示したの対し、柳田が「非常に面白い問題だから、早く書いたらいいでせう」と言ったりしている。 


柳田と折口は、霊魂や神についての日本人の観念に関するパラダイムで対立しながらも、一方では新たな論理の構築を予見しあうといった相乗性をもった議論を展開している。ただし、折口についていうなら、対談以後に進める新たな霊魂論や神観念論については、ここでは話題にしてないのが気にかかる。それは、亡くなる前年に苦しみながら口述、執筆を行う「民族史観における他界観念」(昭和二十七年十月、『古典 の新研究』、全集二〇所収)で示す完成霊・未完成霊の論理や、対談の翌年昭和二十五年二月の「日本芸能史序説」(『本流』創刊号、全集二一所収)で示す、村に訪れる来訪神は本来、野山の精霊であったとする仮説である。


柳田との対談以後に示される新たな論理や仮説は、これまでに自らが示してきた日本人の精神構造や信仰体系のモデルを再構築しようというものだが、「民族史観における他界観念」の第二章である「完成した霊魂」では、「何の為に、神が来り、又その世界に到ると言ふ考へを持つやうになつたか。さうして又何の為に、邪悪神の出現を思ふやうになつたか。」 (全集二〇、二二頁)と自らに問い、それまでの異郷・常世論を、マイノリティーである神・霊物を視点に加え、「他界観念」という術語で再構築しようとしている。そして、通説化しようとしている祖霊論について、  

 最簡単に霊魂の出現を説くものは、祖先霊魂が、子孫である此世の人を慈しみ、又祖先となり果さなかつた未完成の霊魂が、人間界の生活に障碍を与へよう、と言つた邪念を抱くと言う風に説明している。さうして、其が大体において、日本古代信仰をすら説明することになつてゐる。(全集二〇、二二頁) 


というのは、「近代の民俗的信仰が、さう言う傾きを多く持つてゐる為であつて、必しも徹底した考へ方ではない」と言う。こうした考え方は、民俗的信仰の近代化、つまり合理化によってもたらされたもので、これで他界やそこにいるとする神・霊物は説明しきれないのであり、  


 私は、さう言ふ風に祖先観をひき出し、その信仰を言ふ事に、ためらひを感じる。この世界における我々─さうして他界における祖先霊魂。何と言ふ単純さか。宗教上の問題は祖・裔即、死者・生者の対立に尽きてまふ。我々は、我々に到るまでの間に、もつと複雑な霊的存在の、錯雑混淆を経験して来た。(全集二〇、二二頁) 


と強く再考を促す。さらに、右のような「祖裔二元」論的な考え方で他界観念や霊魂信仰を大方解釈できるようになったのは、近世になってからだとする。これは柳田の『先祖の話』に向けられた批判であり、また、最初にあげた柳田・折口の対談「日本人の神と霊魂の 観念そのほか」での、前述した柳田の折口批判に対する反論とみてよかろう。 


ここでは折口の霊魂論について、戦後の展開の一部を見てきたが、その論理や基本的なパラダイムは柳田國男の行論と対比させることでより鮮明になることは明らかで、また、こうすることによって今後の日本人の霊魂観研究に一つの道筋をつけていけると考えられる。

(小川直之「折口信夫の霊魂論覚書」2007年)



…………………………



ところであなたはどう思うだろうか、私のすべての新しいヒステリー前史理論はすでに知られており、数世紀前だが何百回も出版されているという観点について。あなたは覚えているだろうか、私がいつも言っていたことを。中世の理論、強迫観念の霊的法廷は、私たちのマレビト理論[Fremdkörpertheorie]と意識の分裂と同一だと。


Was sagst Du übrigens zu der Bemerkung, daß meine ganze neue Hysterie-Ur-geschichte bereits bekannt und hundertfach publiziert ist, allerdings vor mehreren Jahrhunderten? Erinnerst Du Dich, daß ich immer gesagt, die Theorie des Mittelalters und der geistlichen Gerichte von der Besessenheit sei identisch mit unserer Fremdkörpertheorie und Spaltung des Bewußtseins?  (フロイト、フリース宛書簡、Freud: Brief an Wilhelm Fließ vom 17. Januar 1897)


疎外(マレビト分離 Entfremdungen)は注目すべき現象である。〔・・・〕この現象は二つの形式で観察される。現実の断片がわれわれにとってマレビトのように現れるか、あるいはわれわれの自己自身がマレビトのように現れるかである。Diese Entfremdungen sind sehr merkwürdige, […] Man beobachtet sie in zweierlei Formen; entweder erscheint uns ein Stück der Realität als fremd oder ein Stück des eigenen Ichs.(フロイト書簡、ロマン・ロラン宛、Brief an Romain Rolland ( Eine erinnerungsstörung auf der akropolis) 1936年)



➡︎私の中にあって私以上のもの=マレビト(プルースト)



タマツキ

 

小津安二郎、非常線の女、1933


ゴダール、探偵、1985


侯孝賢、最好的時光、2005



鎮魂をタマシヅメとよぶ以前に、タマフリ(魂を振り立たせ増大さす)と訓ずるのが古義とおもわれる。(山上伊豆母「『七瀬の祓』の源流」1970年)



ゴダール、中国女、1967



2021年2月26日金曜日

失敗が深刻なほど今を逃れることしか考えなくなるのは人間の性

ははあ、魔笛さんという人はとっても言いこと書いてるな


金融政策、果断に出口戦略を

日本経済新聞「大機小機」2021年2月25日 

政府の債務残高は2020年末時点で、対国内総生産(GDP)比238%と世界最悪である。貨幣量も異次元緩和で618兆円にまで膨らんだ。異常な金融緩和でカネがだぶつき、株価はバブル崩壊後30年ぶりの高値で、新型コロナウイルス禍以前よりもはるかに高い。米国株価も同様で史上最高値を更新した。


危機的状況なのは明らかなのに、日銀も政府も出口戦略のシナリオをまったく示さない。政府は成長戦略に必要と言い、日銀はインフレ期待に働きかけると言い続け、効果がないのは緩和がまだ足りないからだという。


こういうときには、都合の良い理論も登場する。巨額の財政赤字には現代貨幣理論、異次元緩和にはインフレ・ターゲット理論だ。コロナ禍が重なり、先の見えない拡張政策はますます正当化される。


株高についても同様だ。投資会社はワクチン登場をその理由に挙げるが、効果も副作用も不確実な点があるのに、株価がコロナ禍以前の値を回復し、さらに超えるはずがない。同じことは米株価でも言える。いずれも異常な財政拡大と金融緩和が引き起こしたバブルと考えるのが自然だ。30年前を思い起こせば、今後の行方が恐ろしい。


政府も日銀も投資会社もなぜ危機を直視せず、これほど大胆で無謀になれるのか。理由は失うものが大き過ぎるからであろう。人は小さな間違いなら簡単に直せるが、間違いが深刻で責任が大きいほど、それを認めまいと言い訳を探し、固執する。


経済学には時間選好という概念がある。人々が将来と比べて今をどのくらい重視するかという指標だ。最近の行動経済学の研究では、時間選好は豊かな者ほど低く、貧しい者ほど高い。つまり、現状で余裕がある人ほど先を考え、追い詰められている人ほど考えない、ということだ。


実際、失敗が深刻なほど今を逃れることしか考えなくなるのは人間の性であり、権力者も同様だ。個人なら失敗が顕在化しても被害は個人にとどまるが、権力者なら被害を受けるのは一般庶民だ。人間の性だとのんびり構えてはいられない。


すぐ対処してもらうために過度な責任追及を控え、心機一転して出口戦略を練ってもらう必要があろう。それが無理なら、新たな人に交代してもらうしかない。

(魔笛)



もう今更遅いけどさ、新しい人に交代したって。


でも「失敗が深刻なほど今を逃れることしか考えなくなるのは人間の性」ってのはとってもいいねえ、ジャン=ピエール・デュピュイ的で。



数多くのカタストロフィーが示している特性とは、次のようなものです。すなわち、私たちはカタストロフィーの勃発が避けられないと分かっているのですが、それが起こる日付や時刻は分からないのです。私たちに残されている時間はまったくの未知数です。このことの典型的な事例はもちろん、私たちのうちの誰にとっても、自分自身の死です。けれども、人類の未来を左右する甚大なカタストロフィーもまた、それと同じ時間的構造を備えているのです。私たちには、そうした甚大なカタストロフィーが起ころうとしていることが分かっていますが、それがいつなのかは分かりません。おそらくはそのために、私たちはそうしたカタストロフィーを意識の外へと追いやってしまうのです。もし自分の死ぬ日付を知っているなら、私はごく単純に、生きていけなくなってしまうでしょう。


これらのケースで時間が取っている逆説的な形態は、次のように描き出すことができます。すなわち、カタストロフィーの勃発は驚くべき事態ですが、それが驚くべき事態である、という事実そのものは驚くべき事態ではありませんし、そうではないはずなのです。自分が否応なく終わりに向けて進んでいっていることをひとは知っていますが、終わりというものが来ていない以上、終わりはまだ近くない、という希望を持つことはいつでも可能です。終わりが私たちを出し抜けに捕らえるその瞬間までは。


私がこれから取りかかる興味深い事例は、ひとが前へと進んでいけばいくほど、終わりが来るまでに残されている時間が増えていく、と考えることを正当化する客観的な理由がますます手に入っていくような事例です。まるで、ひとが終わりに向かって近づいていく以上のスピードで、終わりのほうが遠ざかっていくかのようです。

自分ではそれと知らずに、終わりに最も近づいている瞬間にこそ、終わりから最も遠く離れていると信じ込んでしまう、完全に客観的な理由をひとは手にしているのです。驚きは全面的なものとなりますが、私が今言ったことはみな、誰もがあらかじめ知っていることなのですから、驚いたということに驚くことはないはずです。時間はこの場合、正反対の二つの方向へと向かっています。一方で、前に進めば進むほど終わりに近づいていくことは分かっています。しかし、終わりが私たちにとって未知のものである以上、その終わりを不動のものとして捉えることは本当に可能でしょうか? 私が考える事例では、ひとが前へと進んでも一向に終わりが見えてこないとき、良い星が私たちのために終わりを遠く離れたところに選んでくれたのだ、と考える客観的な理由がますます手に入るのです。(ジャン=ピエール・デュピュイ「極端な出来事を前にしての合理的選択」PDF)



➡︎「終わりに最も近づいている瞬間にこそ、終わりから最も遠く離れていると信じ込んでしまう」メカニズム










ラカンの鍵

 多くの場合、言葉の使用法で人は混乱してしまうのであり、それはフロイトラカンだけではないが、この両者の場合とくにそうだ。

たとえば後期ラカンの二文を引こう。

現実界は書かれることを止めない le Réel ne cesse pas de s'écrire (Lacan, S 25, 10 Janvier 1978)

問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている。le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme.  (Lacan, S23, 13 Avril 1976)


この二つの文を混淆させれば、「トラウマは書かれることを止めない」となる。


この「書かれることを止めない」は、「無意識のエスの反復強迫」のことであり、「トラウマは無意識のエスの反復強迫」となる。これは気づいてみればある意味できわめて当たり前の話。


フロイトにとって症状は反復強迫に結びついたこの「止めないもの」である。

Pour Freud remarquons que le symptôme est par excellence lié à ce qui ne cesse pas, lié à la compulsion de répétition


フロイトは『制止、症状、不安』の第10章にて指摘している、症状は固着を意味し、固着する要素は、無意識のエスの反復強迫に見出されると。le symptôme implique une fixation et que le facteur de cette fixation est à trouver dans la compulsion de répétition du ça inconscient. . (J.-A. MILLER, L'Autre qui  n'existe pas  et ses comités d'éthique - 26/2/97)


ここでミレールの言ってる症状は、原症状としてのサントームのこと。


サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)


したがって「サントームはトラウマであり、かつトラウマの反復」となる。


ミレールは1990年代後半から何度も繰り返しているが、フロイトの『制止、症状、不安』が後期ラカンの鍵。


私は昨年言ったことを繰り返そう、フロイトの『制止、症状、不安』は、後期ラカンの教えの鍵である。Je répète ce que j'ai dit l'année dernière, qu'Inhibition, symptôme et angoisse est la clef du dernier enseignement de Lacan,(J.-A. MILLER, Le Partenaire Symptôme Cours n°1 - 19/11/97 )


とはいえラカンでさえフロイトを真に読めるようになったのは、1970年代、つまり70歳過ぎてからということになる。


ここでサントーム概念をもう少し吟味しておこう。


サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps(MILLER, L'Être et l'Un, 30/3/2011)

サントームは固着である[Le sinthome est la fixation]. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011、摘要

サントームは反復享楽であり、S2なきS1(フロイトの固着)を通した身体の自動享楽に他ならない。ce que Lacan appelle le sinthome est […] la jouissance répétitive, […] elle n'est qu'auto-jouissance du corps par le biais du S1 sans S2(ce que Freud appelait Fixierung, la fixation) (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 23/03/2011、摘要)


ーーここに前回示した「トラウマへの固着と反復強迫」がある。




ラカン自身、リアルの症状について「刻印」等の話をしている。


症状は刻印である。現実界の水準における刻印である。Le symptôme est l'inscription, au niveau du réel. (Lacan, LE PHÉNOMÈNE LACANIEN,  30. Nov.1974)

症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

症状は現実界について書かれることを止めない。le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン『三人目の女 La Troisième』1974)



そして、

サントームという享楽自体 la jouissance propre du sinthome (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 17 décembre 2008)

われわれはトラウマ化された享楽を扱っている。Nous avons affaire à une jouissance traumatisée. (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 20 mai 2009)

享楽は身体の出来事である。身体の出来事の価値は、トラウマの審級にある、衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。この身体の出来事は固着の対象である。la jouissance est un événement de corps. La valeur d'événement de corps est […]  de l'ordre du traumatisme , du choc, de la contingence, du pur hasard,,[…] elle est l'objet d'une fixation. ,(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)


以上、「享楽は固着であり、かつ固着の反復強迫である」となる。


これは事実上、ニーチェに既にある。


人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する自己固有の出来事を持っている。Hat man Charakter, so hat man auch sein typisches Erlebniss, das immer wiederkommt.(ニーチェ『善悪の彼岸』70番、1886年)


ーー《身体の出来事は、固着の対象である。un événement de corps…est l'objet d'une fixation.》(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)


享楽はまさに固着にある。人は常にその固着に回帰する。La jouissance, c'est vraiment à la fixation […] on y revient toujours. (Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)


すなわち享楽の固着は永遠回帰する。


享楽における単独性の永遠回帰の意志[vouloir l'éternel retour de sa singularité dans la jouissance](J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)

単独的な一者のシニフィアン[singulièrement le signifiant Un]…私は、この一者と享楽の結びつきが分析経験の基盤だと考えている。そしてこれが厳密にフロイトが固着と呼んだものである。je le suppose, c'est que cette connexion du Un et de la jouissance est fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011ーー「一者がある Y'a d'l'Un」)



フロイト自身、不変の個性刻印の永遠回帰を『快原理の彼岸』で明示している。


同一の体験の反復の中に現れる不変の個性刻印[gleichbleibenden Charakterzug]を見出すならば、われわれは同一のものの永遠回帰[ewige Wiederkehr des Gleichen]をさして不思議とも思わない。〔・・・〕この反復強迫[Wiederholungszwang]〔・・・〕あるいは運命強迫 [Schicksalszwang nennen könnte ]とも名づけることができるようなものについては、合理的な考察によって解明できる点が多い。(フロイト『快原理の彼岸』第3章、1920年)






2021年2月25日木曜日

死の欲動について


すべての欲動は実質的に、死の欲動である。 toute pulsion est virtuellement pulsion de mort(ラカン, E848, 1966年)


ラカンが言うように、欲動はすべて死の欲動ーー死への回帰運動ーーであるにせよ、ダイレクトに死に向かう運動としてよりもまず反復強迫を死の欲動の原点と見做したほうがよい。


われわれは反復強迫の特徴に、何よりもまず死の欲動を見出だす。

Charakter eines Wiederholungszwanges […] der uns zuerst zur Aufspürung der Todestriebe führte.(フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年)


この欲動とは基本的には「喪われた対象」を取り戻す運動であり、この喪われた対象の起源には「去勢された自己身体」がある。


反復強迫はより厳密に言えば「無意識のエスの反復強迫」であり、その動因はたとえば以下の用語群がある。



ーーこれらの語彙群は基本的にはすべて同じ内実を持っている(参照)。


この無意識のエスの反復強迫としての欲動は、身体的要求、つまり身体から湧き起こる駆り立てる力である。


エスの背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は心的生に課される身体的要求である。Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.(フロイト『精神分析概説』第2章1939年)




この身体的要求を「リビドー=欲動エネルギー」と呼んだり、「愛の欲動=性欲動」呼んだり、「エロスエネルギー」と呼んだりする。


われわれは情動理論 [Affektivitätslehre]から得た欲動エネルギー [Energie solcher Triebe] をリビドー[Libido]と呼んでいるが、それは愛[Liebe]と要約されるすべてのものに関係している。〔・・・〕プラトンのエロスは、その由来や作用や性愛[Geschlechtsliebe]との関係の点で精神分析でいう愛の力[Liebeskraft]、すなわちリビドーと完全に一致している。〔・・・〕この愛の欲動[Liebestriebe]を、精神分析ではその主要特徴と起源からみて、性欲動[ Sexualtriebe]と名づける。 (フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年、摘要)

すべての利用しうるエロスエネルギーを、われわれはリビドーと名付ける。die gesamte verfügbare Energie des Eros, die wir von nun ab Libido heissen werden(フロイト『精神分析概説』第2章, 1939年)


おそらく人はまずここでつまずくだろう。欲動エネルギー=エロスエネルギーがなぜ死の欲動なのかと。これはフロイト自身、最後まではっきり言っていない。彷徨っている。愛の欲動が死の欲動であることを明示したのはラカンである。


(表向きの言説ではなく)フロイトの別の言説が光を照射する。フロイトにとって、死は愛である。Un autre discours est venu au jour, celui de Freud, pour quoi la mort, c'est l'amour. (Lacan, L'Étourdit  E475, 1970)


これだけでなく既にセミネールⅩⅠの「ラメラ神話」にてリビドーの目標が死であることを提示している。


そしてこのリビドーがラカンの享楽(享楽の意志)だ。


ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)

享楽の意志は欲動の名である。欲動の洗練された名である。享楽の意志は主体を欲動へと再導入する。。Cette volonté de jouissance est un des noms de la pulsion, un nom sophistiqué de la pulsion. Ce qu'on y ajoute en disant volonté de jouissance, c'est qu'on réinsè-re le sujet dans la pulsion.. (J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS, 17 MAI 1989)


フロイトの定義において欲動には次の特徴がある。


以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』1920年)


究極の以前の状態とは母胎である。


人には、出生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、母胎回帰がある。Man kann mit Recht sagen, mit der Geburt ist ein Trieb entstanden, zum aufgegebenen Intrauterinleben zurückzukehren, […] eine solche Rückkehr in den Mutterleib. (フロイト『精神分析概説』第5章、1939年)


母胎とは事実上、母なる大地である。フロイトは死の欲動概念提出以前の1913年のシェイクピア論で既に、沈黙の死の女神としての母なる大地を語っている(参照)。

こういった文脈のなかでラカンは次のように言うのである。


死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。[le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance] (ラカン、S17、26 Novembre 1969)

享楽は現実界にある。[la jouissance c'est du Réel.] (ラカン、S23, 10 Février 1976)

死の欲動は現実界である。死は現実界の基盤である[La pulsion de mort c'est le Réel …la mort, dont c'est  le fondement de Réel ](Lacan, S23, 16 Mars 1976)




以上に見たように欲動つまりリビドーは究極的には死と結びついているが、生き続ける存在としての我々は、この死よりも反復強迫としての死の欲動への視点がいっそう重要である。


人はみな反復強迫している、その強度の多寡はあれ、身体の上に徴づけられた刻印を。フロイトはこの「不変の個性刻印」による反復を「トラウマへの固着と反復強迫」と呼んだ(参照)。




このトラウマへの固着が、現実界の審級にある原症状としてのサントームである。フロイトラカンにおけるトラウマは通念としての事故的トラウマよりももっと大きな意味合いをもっており、基本的には成人言語入場以前の幼児期における自我への傷であり些細な出来事でも不変の刻印となりうる。この傷はフロイトラカンにおいて心的装置に同化不能の身体的な残滓と表現されており、同化不能にもかかわらずそれを取り戻そうとするゆえに反復強迫が生じる。


ラカンにとってトラウマとは穴でもあり、フロイトの「トラウマへの固着」は「穴への固着」とも言い換えうる。


「人はみなトラウマ化されている。…この意味はすべての人にとって穴があるということである[tout le monde est traumatisé …ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou.  ](J.-A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010 )


別の言い方をすれば、人にはみな女性の享楽がある(参照)。


享楽は身体の出来事である。身体の出来事の価値は、トラウマの審級にある、衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。この身体の出来事は固着の対象である。ラカンはこの身体の出来事を女性の享楽と同一のものとした。la jouissance est un événement de corps. La valeur d'événement de corps est […]  de l'ordre du traumatisme , du choc, de la contingence, du pur hasard,[…] elle est l'objet d'une fixation. […] Lacan… a pu dégager comme telle la jouissance féminine, (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)


ーー享楽は身体の出来事とあるが、上に見たようにフロイトの定義上、「身体の出来事=トラウマへの固着」である。


そしてこの女性の享楽とは結局、男にも女にもある原症状としてのサントームの享楽である。とはいえこういったラカン語彙よりもフロイトの固着、この語が何よりも重要である。そもそもサントーム自体、フロイトの固着のことである(参照)。


文献をいくらか列挙しよう。


現実界は「常に同じ場処に回帰するもの」として現れる。le réel est apparu comme « ce qui revient toujours à la même place »  (Lacan, S16, 05  Mars  1969 ーー参照


享楽はまさに固着にある。…人は常にその固着に回帰する。La jouissance, c'est vraiment à la fixation […] on y revient toujours. (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)


精神分析における主要な現実界の到来は、固着としての症状・シニフィアンと享楽の結合としての症状である。l'avènement du réel majeur de la psychanalyse, c'est Le symptôme, comme fixion, coalescence de signifant et de jouissance


現実界のすべての定義は次の通り。常に同じ場処かつ象徴界外に現れるものーーなぜならそれ自身と同一化しているため--であり、反復的でありながら、差異化された他の構造の連鎖関係なきものである。Toutes les définitions du réel s'y appliquent : toujours à la même place, hors symbolique, car identique à elle-même ; réitérable mais sans rapport de chaîne à d'autre Sa, (Colette Soler, Avènements du réel, 2017年)


私は、一者と享楽の結びつきが分析経験の基盤だと考えている。そしてこれが厳密にフロイトが固着と呼んだものである。je le suppose, c'est que cette connexion du Un et de la jouissance est fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. 〔・・・〕フロイトが固着点と呼んだもの、この固着点の意味は、「享楽の一者がある」ということであり、常に同じ場処に回帰する。この理由で固着点に現実界の資格を与える。ce qu'il appelle un point de fixation. …Ce que veut dire point de fixation, c'est qu'il y a un Un de jouissance qui revient toujours à la même place, et c'est à ce titre que nous le qualifions de réel. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)

享楽の一者の純粋な反復をラカンはサントームと呼んだ。la pure réitération de l'Un de jouissance que Lacan appelle sinthome, (J.-A. Miller, L'ÊTRE ET L'UN - 30/03/2011)




このようにラカニアンの注釈を列挙すると一般には難解に思われるだろうが、固着とはーー成人後のトラウマ的出来事への固着はあるにしろーー基本的には幼少の砌の髑髏に関わる。



頼朝公卿幼少の砌の髑髏〔しゃれこうべ〕、という古い笑い話があるが、誰しも幼少年期の傷の後遺はある。感受性は深くて免疫のまだ薄い年頃なので、傷はたいてい思いのほか深い。はるか後年に、すでに癒着したと見えて、かえって肥大して表れたりする。しかも質は幼年の砌のままで。


小児の傷を内に包んで肥えていくのはむしろまっとうな、人の成熟だと言えるのかもしれない。幼い頃の痕跡すら残さないというのも、これはこれで過去を葬る苦闘の、なかなか凄惨な人生を歩んできたしるしかと想像される。しかしまた傷に晩くまで固着するという悲喜劇もある。平生は年相応のところを保っていても、難事が身に起ると、あるいは長い矛盾が露呈すると、幼年の苦についてしまう。現在の関係に対処できなくなる。幼少の砌の髑髏が疼いて啜り泣く。笑い話ではない。


小児性を克服できずに育った、とこれを咎める者もいるだろうが、とても、当の小児にとっても後の大人にとってもおのれの力だけで克服できるようなしろものではない、小児期の深傷〔ふかで〕というものは。やわらかな感受性を衝いて、人間苦の真中へ、まっすぐに入った打撃であるのだ。これをどう生きながらえる。たいていはしばらく、五年十年あるいは二十年三十年と、自身の業苦からわずかに剥離したかたちで生きるのだろう。一身の苦にあまり耽りこむものではない、という戒めがすくなくとも昔の人生智にはあったに違いない。一身の苦を離れてそれぞれの年齢での、家での、社会での役割のほうに付いて。芯がむなしいような心地でながらく過すうちに、傷を克服したとは言わないが、さほど歪まずとも受け止めていられるだけの、社会的人格の《体力》がついてくる。人の親となる頃からそろそろ、と俗には思われているようだ。


しかし一身の傷はあくまでも一身の内面にゆだねられる、個人において精神的に克服されなくてはならない、克服されなくては前へ進めない、偽善は許されない、という一般的な感じ方の世の中であるとすれば、どういうことになるだろう。また社会的な役割の、観念も実態もよほど薄い、個人がいつまでもただの個人として留まることを許される、あるいは放置される世の中であるとすれば。(古井由吉「幼少の砌の」『東京物語考』1984年)



ーー《結局、成人したからといって、原初のトラウマ的不安状況の回帰に対して十分な防衛をもたない。Gegen die Wiederkehr der ursprünglichen traumatischen Angstsituation bietet endlich auch das Erwachsensein keinen zureichenden Schutz;》 (フロイト『制止、症状、不安』第9章、1926年)


以上、質問を受けたので記した。





忽然冥界からたたる女


身体の実体は、《自ら享楽する身体》として定義される。Substance du corps, …qu'elle se définisse seulement de « ce qui se jouit ».  (Lacan, S20, 19 Décembre 1972)






自ら享楽する身体とは、フロイトが自体性愛と呼んだもののラカンによる翻訳である。「性関係はない」とは、この自体性愛の優越の反響に他ならない。il s'agit du corps en tant qu'il se jouit. C'est la traduction lacanienne de ce que Freud appelle l'autoérotisme. Et le dit de Lacan Il n'y a pas de rapport sexuel ne fait que répercuter ce primat de l'autoérotisme. (J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, - 30/03/2011)



現代ラカン派では女性の享楽は男にも女にもある本来の享楽ーー自ら享楽する身体ーーとされるんだが、女性の享楽度は、やはり解剖学的女性のほうがはるかに高いに決まってる。



女性の享楽ゆえに性関係はない



だから男女平等なんていう勝手な夢見てたらダメだ。そんなことしてたら男女の性のあいだの非対称性という「性関係はない」があからさまに露出してしまう。



男は、間違ってひとりの女に出会い、その女とともにあらゆることが起こる。つまり通常、「性交の成功が構成する失敗 」が起きる。L'homme, à se tromper, rencontre une femme, avec laquelle tout arrive : soit d'ordinaire ce ratage en quoi consiste la réussite de l'acte sexuel. (ラカン, テレヴィジョン, AE538, Noël 1973)


我々は、無と本質的な関係性をもつ主体を女たちと呼ぶ。私はこの表現を慎重に使用したい。というのは、ラカンの定義によれば、どの主体も、無に関わるのだから。しかしながら、ある一定の仕方で、女たちである主体が「無」と関係をもつあり方は、(男に比べ)より本質的でより接近している。nous appelons femmes ces sujets qui ont une relation essentielle avec le rien. J'utilise cette expression avec prudence, car tout sujet, tel que le définit Lacan, a une relation avec le rien, mais, d'une certaine façon, ces sujets que sont les femmes ont une relation avec le rien plus essentielle, plus proche. (J-A. MILLER, Des semblants dans la relation entre les sexes, 1997)



要するに「無の享楽」度は解剖学的女のほうがはるかに高い。そんなことはむかしからみんなわかってることだ。この無の享楽は現在、「穴の享楽」「空虚の享楽」等と呼ぶ注釈者もいるが(参照)、ま、これは冥界機械ということだ。



女の身体は冥界機械 [chthonian machin] である。その機械は、身体に住んでいる魂とは無関係だ。The female body is a chthonian machine, indifferent to the spirit who inhabits it. (カミール・パーリア Camille Paglia「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)



だいたいある種の女がイクときのさまは「神のタタリ」と多くの男は感じているはずだ。







神の外立(タタリ) l'ex-sistence de Dieu (Lacan, S22, 08 Avril 1975)

問題となっている「女というもの」は、「神の別の名」である。La femme dont il s'agit est un autre nom de Dieu,(ラカン、S23、18 Novembre 1975)


要するに女のタタリだ。


・後代の人々の考へに能はぬ事は、神が忽然幽界から物を人間の前に表す事である。


・たゝると言ふ語は、記紀既に祟の字を宛てゝゐるから奈良朝に既に神の咎め・神の禍など言ふ意義が含まれて来てゐたものと見える。其にも拘らず、古いものから平安の初めにかけて、後代とは大分違うた用語例を持つてゐる。最古い意義は神意が現れると言ふところにある。


・たゝりはたつのありと複合した形で、後世風にはたてりと言ふところである。「祟りて言ふ」は「立有而言ふ」と言ふ事になる。神現れて言ふが内化した神意現れて言ふとの意で、実は「言ふ」のでなく、「しゞま」の「ほ」を示すのであつた。


・此序に言ふべきは、たゝふと言ふ語である。讃ふの意義を持つて来る道筋には、円満を予祝する表現をすると言ふ内容があつたのだとばかりもきめられない事である。「たつ」が語原として語根「ふ」をとつて、「たゝふ」と言ふ語が出来、「神意が現れる」「神意を現す様にする」「予祝する」など言ふ風に意義が転化して行つたものとも見られる。さう見ると、此から述べる「ほむ」と均しく、「たゝふ」が讃美の義を持つて来た道筋が知れる。だから、必しも「湛ふ」から来たものとは言へないのである。(折口信夫『「ほ」・「うら」から「ほかひ」へ』)




誤解のないように付け加えておくが、男たちもあの神のタタリ、無の享楽に戦慄しつつも魅惑されているのである。



三人目の女…私を好ませる女ーーくわばらくわばらーー、この女たちの猫撫で声は疑いもなく、猫の享楽[la jouissance du chat]だよ。それが喉から発せられるのか別の場所から来るのかは私には皆目わからないが。私が彼女たちを愛撫するときを思うと、それは身体全体から来ているように見える。


« Troisième ». [...] me favorise - touchons du bois - me favorise de ce que le ronron, c'est sans aucun doute la jouissance du chat. Que ça passe par son larynx ou ailleurs, moi j'en sais rien, quand je les caresse  ça a l'air d'être de tout le corps, (ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)



猫の享楽度が少ない女には敬意を払いつつも物足りなさを感じる。


一度気をやれば暫くはくすぐつたくてならぬといふ女あり。又二度三度とつゞけさまに気をやり、四度目五度目に及びし後はもう何が何だか分らず、無暗といきづめのやうな心持にて、骨身のくたくたになるまで男を放さぬ女もあり。男一遍行ふ間に、三度も四度も声を揚げて泣くやうな女ならでは面白からず。男もつい無理をして、明日のつかれも厭はず、入れた侭に蒸返し蒸返し、一番中腰のつゞかん限り泣かせ通しに泣かせてやる気にもなるぞかし。  (荷風『四畳半襖の下張』)



もっとも配偶関係にある女の場合はまったく別である・・・



そのとき中戸川が急に声を細めて、女房といふものはたゞ淫慾の動物だよ、毎晩幾度も要求されるのでとてもさうは身体がつゞかないよ、すると牧野信一が我が意を得たりとカラ〳〵と笑ひ、同感だ、うちの女房もさうなんだ、――とみゑさん、ごめんなさい、私はあんたを辱めてゐるのではないのです。どうして私があなたを辱め得ませうか。あなたは病みつかれ、然し、肉慾のかたまりで、遊びがいのちの火であつた。その悲しいいのちを正しい言葉で表した。遊びたはむれる肉体は、あなたのみではありません。あらゆる人間が、あらゆる人間の肉体が、又、魂が、さうなのです。あらゆる人間が遊んでゐます。そしてナマ半可な悟り方だの憎み方だのしてゐます。あなたはいのちを賭けたゞけだ。それにしても、あなたは世界にいくつもないなんと美しい言葉を生みだしたのだらう。(坂口安吾「蟹の泡」1946年)