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2021年5月1日土曜日

何も描かない白いままがいちばん美しい

 きのうからきゅうに蝉がなきだした。




熊谷守一はこう言ったらしい。


紙でもキャンパスでも何も描かない白いままがいちばん美しい。95歳 1975年


わたしは好きで絵を描いているのではないのです。

絵を描くより遊んでいるのが一番楽しいんです。

石ころひとつ、

紙くずひとつでも見ていると、

まったくあきることがありません。

火を燃やせば、一日燃やしていても面白い。

でも時に変わったことがしてみたくなります。 95歳 1975年


なくなった坂本繁二郎さんは、若いころから名誉とか金とかには、全く関心のない人でしたが、いい絵を一生懸命に描かなければならないという感じは持っていたようです。しかし、私は名誉や金はおろか、[ぜひすばらしい芸術を描こう]などという気持ちもしないのだから、本当に不心得なのです。1971年

ーー「ひとりたのしむ―熊谷守一画文集」1998より



音楽もそうだな

蝉しぐれきいてるほうがずっと美しいよ

風の音、木の葉のざわめき、鳥の声

をきいてるほうが。


名誉と金以外になにがあるんだい?

きっとなにかがあるはずだから

それを問わないとな


たぶん何かを忘れるためってのもあるだろうよ







忘れるっていうことは、人間に大切なことですよ。

いやな事は忘れればいい。

忘れるという人体の構造になっているのは、造化の妙というより、生きている間の人間の知恵だね。

人間の優れた能力のひとつだよ。


忘れるには血の巡りをよくして、血液の循環をよくすることだね。

下水が詰まったときは、うんと水を流すのと、人間の体の仕組みも同じだね。

うんと飯を喰って、うんと排泄するといい。


とにかく嫌な事は忘れて、楽しい瞬間をなるべく多く作ることだね。

そのために稼いだり、乗り物に乗って移動したりするんだから。

稼ぐのはめんどうだけど、楽しい時間を作るための支度だからね。


とにかく、生きているうちは暇つぶしがいい。


ギターを弾いたり野菜を作ったりするのも暇つぶしだね。


俺には生きていることが青春だからね。

死ぬまではずーっと青春の暇つぶしだね。


まあ、暇をつぶしながら、死ぬまではボーっと生きている。


それが俺の人生の道、世渡り術というものだよ。


ーー深沢七郎「生きているのはひまつぶし 」


2021年4月30日金曜日

過去のよろこびと痛みのすべてが詰まった「身体の壺」


プルーストはこう書いている。


私は作品の最後の巻―ーまだ刊行されていない―ーで、無意識的再想起の上に私の全芸術論をすえる[ces ressouvenirs inconscients sur lesquels j'asseois, dans le dernier volume non encore publié de mon œuvre, toute ma théorie de l'art,  ](Marcel Proust, « À propos du “ style ” de Flaubert » , 1er janvier 1920)


人によるだろうが、ある年齢以降は、なぜこの芸術に、なぜこの美にこんなに感動するのかを問うとき、ほぼこの無意識的再想起がかかわっていると思うように私はなった。


そして身体の壺には、過去のよろこびと痛みのすべてが詰まっており、些細な感覚が一挙にこの「閉ざされた壺」vases closーープルーストはこの表現を何度か使っているーーを開くと。これが前回「喜ばしいトラウマ回帰」で記したことだ。


記憶の混濁 [troubles de la mémoire ]には心の間歇 [les intermittences du cœur] がつながっている。われわれの内的な機能の所産のすべて、すなわち過去のよろこびとか痛みとかのすべて [tous nos biens intérieurs, nos joies passées, toutes nos douleurs]が、いつまでも長くわれわれのなかに所有されているかのように思われるとすれば、それはわれわれの身体の存在 [l'existence de notre corps]のためであろう、身体はわれわれの霊性が封じこまれている壺[un vase où notre spiritualité serait enclose]のように思われているからだ。(プルースト「ソドムとゴモラ」)


以下の中井久夫のいう解離が前回示したフロイトラカンの排除=外立そして固着であることを念頭に置きつつ、もう一度読んでみよう。


「心の間歇 intermittence du cœur」は「解離 dissociation」と比較されるべき概念である。〔・・・〕


解離していたものの意識への一挙奔入…。これは解離ではなく解離の解消ではないかという指摘が当然あるだろう。それは半分は解離概念の未成熟ゆえである。フラッシュバックも、解離していた内容が意識に侵入することでもあるから、解離の解除ということもできる。反復する悪夢も想定しうるかぎりにおいて同じことである。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007年)


私の場合、真のよろこびと痛みは、遠くのものがいきなり耐えがたいほど近くにやってくるという以外の何ものでもない。


痛みは明らかに苦しみと対立する。痛みは、異者性・親密性・遠くにあるものの顔である。la douleur, ici nettement opposée à la souffrance. Douleur qui prend les visages, […] de l'étrangeté, de l'intime, des lointains. 〔・・・〕


最も近くにあるものは最も異者である。すなわち近接した要素は無限の距離にある。le plus proche soit le plus étranger ; que l’élément contigu soit à une infinie distance. . (ミシェル・シュネデールMichel Schneider La tombée du jour : Schumann)


そう、あのレミニサンスの花柄の恩寵だ。


これは極めて現実的な(リアルな)書 livre extrêmement réel だが、 「無意志的記憶 mémoire involontaire」を模倣するために、…いわば、恩寵 grâce により、「レミニサンスの花柄 pédoncule de réminiscences」により支えられている。 (Comment parut Du côté de chez Swann. Lettre de M.Proust à René Blum de février 1913)


ラカンはトラウマとレミニサンスを関連づけている。


私は問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっていると考えている。これを「強制 forçage」呼ぼう。これを感じること、これに触れることは可能である、「レミニサンスréminiscence」と呼ばれるものによって。レミニサンスは想起とは異なる。Je considère que …le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. …Disons que c'est un forçage.  …c'est ça qui rend sensible, qui fait toucher du doigt… mais de façon tout à fait illusoire …ce que peut être ce qu'on appelle la réminiscence.   …la réminiscence est distincte de la remémoration (ラカン、S.23, 13 Avril 1976、摘要)


フロイトラカンにおけるトラウマとは最も基本的には「身体の出来事」である。





それは、身体の記憶 [la mémoire du corps]呼んでもよいだろう。


私の身体は、歴史がかたちづくった私の幼児期である [mon corps, c'est mon enfance, telle que l'histoire l'a faite]。…匂いや疲れ、人声の響き、競争、光線など [des odeurs, des fatigues, des sons de voix, des courses, des lumières]、…失われた時の記憶 [le souvenir du temps perdu ]を作り出すという以外に意味のないもの…(幼児期の国を読むとは)身体と記憶[le corps et la mémoire]によって、身体の記憶 [la mémoire du corps]によって、知覚することだ。(ロラン・バルト「南西部の光 LA LUMIÈRE DU SUD-OUEST」1977年)


ラカンは身体の出来事としての固着を骨象a[osbjet a]とも呼んだが、つまりは身体に突き刺さった骨だ。ここでどうしてプルースト の「過去が刻印された傷」と結びつけていけない筈があろう?


われわれの過去と、その過去が刻印された肉体の傷 notre passé, et les lésions physiques où il s'est inscrit,(プルースト 「逃げ去る女」)


そしてジュネ=ジャコメッティを。


美には傷以外の起源はない。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。Il n’est pas à la beauté d’autre origine que la blessure, singulière, différente pour chacun, cachée ou visible, que tout homme garde en soi, qu’il préserve et où il se retire quand il veut quitter le monde pour une solitude temporaire mais profonde. (ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』1958年)




喜ばしいトラウマ回帰

 ボクはトラウマをめぐって投稿を連発しているが、主にプルースト的レミニサンス、つまり「喜ばしいトラウマ回帰」を考えているわけで、そもそもこれがなかったら人生ありかい?


PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年)


私の現時の思考とあまりにも不調和な何かの印象に打たれたような気がして、はじめ私は不快を感じたが、ついに涙を催すまでにこみあげた感動とともに、その印象がどんなに現時の思考に一致しているかを認めるにいたった。〔・・・〕最初の瞬間、私は腹立たしくなって、誰だ、ひょっこりやってきておれの気分をそこねた見知らぬやつ(異者)は、と自問したのだった。その異者は、私自身だった、かつての少年の私だった。


je me sentis désagréablement frappé comme par quelque impression trop en désaccord avec mes pensées actuelles, jusqu'au moment où, avec une émotion qui alla jusqu'à me faire pleurer, je reconnus combien cette impression était d'accord avec elles.[…] Je m'étais au premier instant demandé avec colère quel était l'étranger qui venait me faire mal, et l'étranger c'était moi-même, c'était l'enfant que j'étais alors, (プルースト「見出された時」Le temps retrouvé (Deuxième partie)  )



少年期の異者が回帰して「涙を催すまでにこみあげた感動」ってあるだろ? ボクはどうも他の人より頻繁に起こるみたいだけど。


もう少し前後を長く引用しよう。


ちょうどこの図書室にはいる際に、私はゴンクールが語っているりっぱな初版本の数々が所蔵されていることを思いだして、ここに自分が入れられているあいだに、それらをよくながめておこうと心にきめていたのであった。そして、一方で推理を進めながらも、私はそれらの貴重な本を、一冊一冊、もっとも大して注意をはらわずに、ひっぱりだしていた、そのとき、それらのなかの一冊、ジョルジュ・サンドの「フランソワ・ル・シャンピ」を何気なくひらこうとした瞬間に、私の現時の思考とあまりにも不調和な何かの印象に打たれたような気がして、はじめ私は不快を感じたが、ついに涙を催すまでにこみあげた感動とともに、その印象がどんなに現時の思考に一致しているかを認めるにいたった。〔・・・〕

最初の瞬間、私は腹立たしくなって、誰だ、ひょっこりやってきておれの気分をそこねた見知らぬやつ(異者[l'étranger])は、と自問したのだった。その見知らぬやつ(異者[l'étranger])は、私自身だった、当時の少年の私だった。そんな私を、いまこの本が私のなかにさそいだしたのだ、というのも、この本は、私についてはそんな少年しか知らないので、この本がただちに呼びだしたのもそんな少年であり、その少年の目にしか見られたくない、彼の心にしか愛されたくない、彼にしか話しかけたくない、とそうこの本は思ったからなのだ。コンブレーで、ほとんど朝まで、私の母が声高に読んでくれたこの本は、だから、その夜の魅力のすべてを、私のために保存していたのだ。p343-345 (プルースト「見出された時」井上究一郎訳)



ボクの場合は音楽が多いね、それと母の歌声だな。匂いもあるよ、すこし前自転車トラウマの記述をしたけど。


プルーストの異者は、異物(異者としての身体[Fremdkörper])のことに相違ない。




外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

一般記憶すなわち命題記憶などは文脈組織体という深い海に浮かぶ船、その中を泳ぐ魚にすぎないかもしれない。ところが、外傷性記憶とは、文脈組織体の中に組み込まれない異物であるから外傷性記憶なのである。幼児型記憶もまたーー。(中井久夫「外傷性記憶とその治療―― 一つの方針」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)



何度も引用している文だが、やはりフロイトからも再掲しておこう。


トラウマないしはトラウマの記憶は、異物 [Fremdkörper] のように作用する。この異物は体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ。das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt, welcher noch lange nach seinem Eindringen als gegenwärtig wirkendes Agens gelten muß(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)

エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。〔・・・〕われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物(異者としての身体 Fremdkörper)ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状と呼んでいる。〔・・・〕この異物は内界にある自我の異郷部分である。Triebregung des Es […] ist Existenz außerhalb der Ichorganisation […] der Exterritorialität, […] betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen […] das ichfremde Stück der Innenwelt (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)



 で、ラカン派的にはこうなる。


現実界のなかの異物概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある。une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance (J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)



原抑圧=固着による異者である。


原抑圧と同時に固着が行われ、暗闇に異者が蔓延る。Urverdrängung[…] Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; […]wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen, (フロイト『抑圧』1915年、摘要)



原抑圧=固着の別の呼び方は、排除=外立である。


原抑圧の外立 l'ex-sistence de l'Urverdrängt (Lacan, S22, 08 Avril 1975)

「享楽の排除」、あるいは「享楽の外立」。それは同じ意味である。terme de forclusion de la jouissance, ou d'ex-sistence de la jouissance. C'est le même. (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un - 25/05/2011)



フロイトにおいても次の二文にて、原抑圧=固着=排除とすることができる。


抑圧の第一段階ーー原抑圧された欲動ーーは、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, (primär verdrängten Triebe) dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ]。(フロイト『症例シュレーバー 』1911年、摘要)

排除された欲動 [verworfenen Trieb](フロイト『快原理の彼岸』第4章、1920年)



ここでふたたび中井久夫である。解離=排除だ。


解離とその他の防衛機制との違いは何かというと、防衛としての解離は言語以前ということです。それに対してその他の防衛機制は言語と大きな関係があります。…解離は言葉では語り得ず、表現を超えています。その点で、解離とその他の防衛機制との間に一線を引きたいということが一つの私の主張です。PTSDの治療とほかの神経症の治療は相当違うのです。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

サリヴァンも解離という言葉を使っていますが、これは一般の神経症論でいう解離とは違います。むしろ排除です。フロイトが「外に放り投げる」という意味の Verwerfung という言葉で言わんとするものです。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)



次の「解離していたものの意識への一挙奔入」がラカンの排除=外立に相当する。


解離していたものの意識への一挙奔入…。これは解離ではなく解離の解消ではないかという指摘が当然あるだろう。それは半分は解離概念の未成熟ゆえである。フラッシュバックも、解離していた内容が意識に侵入することでもあるから、解離の解除ということもできる。反復する悪夢も想定しうるかぎりにおいて同じことである。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007年)



つまり排除のあるところには、現実界の享楽が外立する。


排除のあるところには、現実界の応答がある。Là où il y a forclusion, il y a réponse du réel   (J.-A. Miller, Ce qui fait insigne,  3 JUIN 1987)


現実界は外立するLe Réel ex-siste(lacan, S22, 17 Décembre 1974)

享楽は外立するla jouissance ex-siste. (lacan, S22, 17 Décembre 1974)    



そして外立とは常にトラウマと関係する。


外立の場は常に穴と相関関係がある。la position d'une ex-sistence est toujours corrélative d'un trou (J.-A. Miller LE LIEU ET LE LIEN, 9 mai 2001)

現実界は穴=トラウマを為す[le Réel … ça fait « troumatisme ».](ラカン、S21、19 Février 1974)


フロイトラカン的なトラウマとは最も基本的には「身体の出来事」という意味だ。


享楽は身体の出来事である。身体の出来事の価値は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。この身体の出来事は固着の対象である。ラカンはこの身体の出来事を女性の享楽と同一のものとした。la jouissance est un événement de corps. La valeur d'événement de corps est […]  de l'ordre du traumatisme , du choc, de la contingence, du pur hasard,[…] elle est l'objet d'une fixation. […] Lacan… a pu dégager comme telle la jouissance féminine, (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)


バルト的に「身体の記憶」と言ってもよい。


私の身体は、歴史がかたちづくった私の幼児期である mon corps, c'est mon enfance, telle que l'histoire l'a faite。…匂いや疲れ、人声の響き、競争、光線など des odeurs, des fatigues, des sons de voix, des courses, des lumières、…失われた時の記憶 le souvenir du temps perdu を作り出すという以外に意味のないもの…(幼児期の国を読むとは)身体と記憶 le corps et la mémoireによって、身体の記憶 la mémoire du corpsによって、知覚することだ。(ロラン・バルト「南西部の光 LA LUMIÈRE DU SUD-OUEST」1977年)




ここでプルースト的解離=排除の「開け胡麻!」の説明を引用すれば、喜ばしいトラウマ回帰の内実が瞭然とする筈である。


病的解離の代表的なものとは、「心の間歇」は、言葉でいい表せば同じになることでも内実は大いに異なる。たとえば、同じ誘発因子を以て突然始まるといっても、臨床的に問題になる解離は、石段の凹みを踏んだ“深部感覚”、マドレーヌを紅茶に浸して口に含んだ口腔感覚といったものではない。引き金になるのは、性的被害を受けた現場に似ている場所や、戦場を思わせる火災である。さらに、現れる状態は誘発因子との関連が深く、「再体験」といわれる。また、同じく例外的状態といっても、侵入される苦痛の程度が格段に違う。それに、自己意識が消失したり、合目的的ではあるが自動運動に置換されたり、私が私であるという基本的条件が震撼させられる点もちがう。意識内容の一時的支配といっても程度の差は著しい。過去との記憶の関連があるといっても、病的解離においては不動静止画像が多く、時間が停止する。運動は混乱の極みに達し、しばしばパニックを起こす。「心の間歇」では動きがあり、感覚的に楽しささえある(精神医学的には「自我親和的」といってよかろう)。〔・・・〕


敢えて私自身の言葉を用いれば、マドレーヌや石段の窪みは「メタ記憶の総体としての〈メタ私〉」から特定の記憶を瞬時に呼び出し意識に現前させる一種の「索引 ‐鍵 indice-clef 」である(拙論「世界における徴候と索引」1990年)。もちろん、記憶の総体が一挙に意識に現前しようとすれば、われわれは潰滅する。プルーストは自らが翻訳した『胡麻と百合』の注釈において、「胡麻」という言葉の含みを「扉を開く読書、アリババの呪文、魔法の種」と解説したといっているが〔・・・〕、この言葉は、読書内容をも含めて一般に記憶の索引 ‐鍵をよく言い表している。フラッシュバックほどには強制的硬直的で頑固に不動でなく、通常の記憶ほどにはイマージュにも言語にも依存しない「鍵 ‐ことば‐ イマージュ mot- image-clef」は、呪文、魔法、鍵言葉となって、一見些細な感覚が一挙に全体を開示する。〔・・・〕それは痛みはあっても、ある高揚感を伴っている。敢えていえば、解離スペクトルの中位に位置する「心の間歇」は、解離のうち、もっとも生のさわやかな味わい saveur をももたらしうるものである。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007年)




最後にボクの愛する吉行淳之介のレミニサンス文も引用しておこう。


長い病気の恢復期のような心持が、軀のすみずみまで行きわたっていた。恢復期の特徴に、感覚が鋭くなること、幼少年期の記憶が軀の中を凧のように通り抜けてゆくことがある。その記憶は、薄荷のような後味を残して消えてゆく。

 

立上がると、足裏の下の畳の感覚が新鮮で、古い畳なのに、鼻腔の奥に藺草のにおいが漂って消えた。それと同時に、雷が鳴ると吊ってもらって潜りこんだ蚊帳の匂いや、縁側で涼んでいるときの蚊遣線香の匂いや、線香花火の火薬の匂いや、さまざまの少年時代のにおいの幻覚が、一斉に彼の鼻腔を押しよせてきた。(吉行淳之介『砂の上の植物群』)



ボクはプルーストを読むまえに、十九歳のときにこの文に感激したね、ああ、あの開け胡麻! ああ、あの些細な感覚が一挙に全体を開示する瞬間!と。



2021年4月29日木曜日

埋まるかい、あの穴?


まだわかんねえかな、わかんねえだろうよ。何度も言ってるつもりだが、フロイトラカンってのはトラウマの臨床家・トラウマの理論家だ。この基本が認知されてないのなら日本で流通してるフロイトラカン注釈書の質が悪すぎるんだ。



問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている。le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme.  (Lacan, S23, 13 Avril 1976)


で、トラウマの別名は穴ウマだ、ーー《現実界は穴=トラウマを為す[le Réel … ça fait « troumatisme ».]》(ラカン、S2119 Février 1974)。象徴界(言語界)や想像界(イマージュ界)ってのはこのリアルな穴に対する防衛に過ぎない。



明らかに、現実界はそれ自体トラウマ的であり、基本的情動として原不安を生む。想像界と象徴界内での心的操作はこのトラウマ的現実界に対する防衛を構築することを目指す。[The Real is apparently traumatic in itself and yields a primal anxiety as a basic affect. The psychical working-over of it within the Imaginary and the Symbolic aims at building up a defence against this traumatic Real.](ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Does the woman exist? 1997)

人はそれぞれの仕方で、リアルな穴を穴埋めしている。イデオロギーを信仰したり、父なる神を信仰したり。「真理」とかいってさ。ーー《父の名という穴埋め bouchon qu'est un Nom du Père 》 (Lacan, S17, 18 Mars 1970)、あるいは《父は症状である le père est un symptôme》(S23, 18 Novembre 1975)



このたびは私は決定的な問いを発したい、すなわち、嘘と確信とのあいだには総じて一つの対立があるのであろうか? ――全世界がそう信じている、しかし全世界の信じていないものなど何もない! Diesmal möchte ich die entscheidende Frage tun: besteht zwischen Lüge und Überzeugung überhaupt ein Gegensatz? ― Alle Welt glaubt es; aber was glaubt nicht alle Welt! (ニーチェ『反キリスト者』第55番 )



この信仰=嘘の別名は妄想だ。


実際は、妄想は象徴的なものだ。妄想は象徴的迷信だ。妄想はまた世界を秩序づけうる。En tout état de cause, un délire est symbolique. Un délire est un conte symbolique. Un délire est aussi capable d'ordonner un monde. 〔・・・〕私は言いうる、ラカンはその最後の教えで、すべての象徴秩序は妄想だと言うことに近づいたと。Je dois dire que dans son dernier enseignement, Lacan est proche de dire que tout l'ordre symbolique est délire(J.-A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire;  2009)


要するに妄想とは言語によって世界を秩序化することであり悪いもんじゃないよ、マジで信仰しなかったらな、ブラセボ効果があるさ、ーー《象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage》(Lacan, S25, 10 Janvier 1978)


言語化への努力はつねに存在する。それは「世界の言語化」によって世界を減圧し、貧困化し、論弁化して秩序だてることができるからである。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)



穴の話に戻そう。


ラカンの現実界は、フロイトがトラウマと呼んだものである。ラカンの現実界は常にトラウマ的である。それは言説のなかの穴である。ce réel de Lacan […], c'est ce que Freud a appelé le trauma. Le réel de Lacan est toujours traumatique. C'est un trou dans le discours.  (J.-A. Miller, La psychanalyse, sa place parmi les sciences, mars 2011)


たとえばラカンが《現実界のなかの穴は主体である。Un trou dans le réel, voilà le sujet.》 (Lacan, S13, 15 Décembre 1965)と言うとき、主体はみなトラウマ化されてるってことだーー《人はみなトラウマ化されている。この意味はすべての人にとって穴があるということである[tout le monde est traumatisé …ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou.  ]》(J.-A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010)



最晩年にはこう言っている。


現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (Lâcn, S 25, 10 Janvier 1978)


この「書かれることを止めない」とは反復強迫のことであり、現実界はトラウマ、したがって「トラウマは反復強迫する」となる。


フロイトにとって症状は反復強迫[compulsion de répétition]に結びついたこの「止めないもの qui ne cesse pas」である。『制止、症状、不安』の第10章にて、フロイトは指摘している、症状は固着を意味し、固着する要素は無意識のエスの反復強迫に見出されると。[le symptôme implique une fixation et que le facteur de cette fixation est à trouver dans la compulsion de répétition du ça inconscient. ]フロイトはこの論文で、症状を記述するとき、欲動要求の絶え間なさを常に示している。欲動は、行使されることを止めないもの[ne cesse pas de s'exercer]である.。(J.-A. MILLER, L'Autre qui  n'existe pas  et ses comités d'éthique - 26/2/97)


固着とは何度も示しているように「トラウマへの固着」Fixierung an das Traumaである。




要するに身体の出来事という「トラウマへの固着=不変の個性刻印」は永遠回帰する。これがフロイトによるニーチェの永遠回帰の脱神秘化だ。


人はみなそれぞれの仕方で永遠回帰する出来事がある筈だよ。


人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する自己固有の出来事を持っている。Hat man Charakter, so hat man auch sein typisches Erlebniss, das immer wiederkommt.(ニーチェ『善悪の彼岸』70番、1886年)

享楽はまさに固着にある。人は常にその固着に回帰する。La jouissance, c'est vraiment à la fixation […] on y revient toujours. (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)


ーー《享楽は身体の出来事であり、トラウマの審級にある。la jouissance est un événement de corps.…de l'ordre du traumatisme 》(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)


ここでの享楽はもちろん《現実界の享楽 Jouissance du réel (Lacan, S23, 10 Février 1976)のことだ。


現実界は「常に同じ場処に回帰するもの」として現れる。le réel est apparu comme « ce qui revient toujours à la même place »  (Lacan, S16, 05  Mars  1969 )



次のフロイト版も何度も引用しているけど再び掲げておくよ


すべての神経症的障害の原因は混合的なものである[Die Ätiologie aller neurotischen Störungen ist ja eine gemischte; ]。すなわち、それはあまりに強すぎる欲動が自我による飼い馴らしに反抗しているか、あるいは幼児期の、すなわち初期の外傷体験 を、当時未成熟だった自我が支配することができなかったためかのいずれかである[es handelt sich entweder um überstarke, also gegen die Bändigung durch das Ich widerspenstige Triebe, oder um die Wirkung von frühzeitigen, d. h. vorzeitigen Traumen, deren ein unreifes Ich nicht Herr werden konnte. ]


概してそれは二つの契機、素因的なものと偶然的なものとの結びつきによる作用である。素因的なものが強ければ強いほど、速やかに外傷は固着を生じやすく、精神発達の障害を後に残すものであるし、外傷的なものが強ければ強いほどますます確実に、正常な欲動状態においてもその障害が現われる可能性は増大する。[In der Regel um ein Zusammenwirken beider Momente, des konstitutionellen und des akzidentellen. Je stärker das erstere, desto eher wird ein Trauma zur Fixierung führen und eine Entwicklungsstörung zurücklassen; je stärker das Trauma, desto sicherer wird es seine Schädigung auch unter normalen Triebverhältnissen äußern. ](フロイト『終りある分析と終りなき分析』第2章、1937年)


フロイトは上で「神経症」と言っているけど、これは通常の神経症(精神神経症)だけでなく、現勢神経症も含んでおり、基本的にはこの二つがフロイトにとって全症状だ。


現勢神経症の症状は、しばしば、精神神経症の症状の核であり先駆である。das Symptom der Aktualneurose ist nämlich häufig der Kern und die Vorstufe des psychoneurotischen Symptoms. (フロイト『精神分析入門』第24講、1917年)


次の文もこの文脈のなかでフロイトは「神経症」という語彙を使っている。


神経症はトラウマの病いと等価とみなしうる。その情動的特徴が甚だしく強烈なトラウマ的出来事を取り扱えないことにより、神経症は生じる。Die Neurose wäre einer traumatischen Erkrankung gleichzusetzen und entstünde durch die Unfähigkeit, ein überstark affektbetontes Erlebnis zu erledigen. (フロイト『精神分析入門』第18講「トラウマへの固着 Die Fixierung an das Trauma」1917年)


で、最後のフロイトにとってトラウマの治療法は「魔女のメタサイコロジー」。


欲動要求の永続的解決[dauernde Erledigung eines Triebanspruchs]とは、…欲動の飼い馴らし[die »Bändigung«des Triebes]とでも名づけるべきものである。


それは、欲動が完全に自我の調和のなかに受容され、…もはや欲動満足に向けて自らの道を行くことはない、という意味である[das will heißen, daß der Trieb ganz in die Harmonie des Ichs aufgenommen, …nicht mehr seine eigenen Wege zur Befriedigung geht.]


しかし、いかなる方法、いかなる手段によってそれはなされるかと問われると、返答に窮する。われわれは、「するとやはり魔女の厄介になるのですな[So muß denn doch die Hexe dran]」(ゲーテ『ファウスト』)と呟かざるをえない。つまり魔女のメタサイコロジイ[Die Hexe Metapsychologie ]である。(フロイト『終りある分析と終わりなき分析』第3章、1937年、摘要)


要するにトラウマは治せねえよ、と言って死んでいったわけだ(フロイト自身「母の裸 Matrem nudam」に起因する汽車恐怖症に終生苦しんだ)。


ラカンだって似たようなもんだよ。結局「人はみな妄想する」の「妄想」が治療法なんだから。あるいは何らかの仕方でトラウマの穴を穴埋めしなくちゃいけないって言ったわけだけど、結局、穴は埋まらないと言って死んでいったのだから。



結局、固着が身体の物質性としての享楽の実体のなかに穴を為す。固着が無意識のリアルな穴を身体に掘る。このリアルな穴は閉じられることはない。ラカンは結び目のトポロジーにてそれを示すことになる。要するに、無意識は治療されない。

Une fixation qui finalement fait trou dans la substance jouissance qu'est le corps matériel, qui y creuse le trou réel de l'inconscient, celui qui ne se referme pas et que Lacan montrera avec sa topologie des nœuds. En bref, de l'inconscient on ne guérit pas. (ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, ON NE GUÉRIT PAS DE L'INCONSCIENT, 2015)



テキトーにやり過ごすしかないね、穴なんか埋まりっこない。で、代表的な穴はオメコの穴だよ。埋まるかい、あの穴? あれこそ究極のダナイデスの樽さ。






享楽はダナイデスの樽である。la jouissance, c'est « le tonneau des Danaïdes » (ラカン, S17, 11 Février 1970)

愛は穴を穴埋めする。きみらが知っているようにね、そう、ちょっとしたコットンだ。l'amour bouche le trou. Comme vous le voyez, c'est un peu coton.  (Lacan, S21, 18 Décembre 1973)





2021年4月28日水曜日

トリフクンクンのレミニサンス

 いやあちょっと調子がでないな、ボクには自転車トラウマってのがあるからな




こんなふうにスーッと走られるだけで漏れそうになっちゃうよ、




穴の彼方から来られるのが一番やばいね。




中学のときとっても惚れてた女の子の自転車のサドルをトリュフォークンクンやって学生ズボンにとっても大きいシミを作ったのだけど、その後もいろんな災難にあったね。






じつは朝、歩いて三分ぐらいのところに煙草を買いにいく途中で悪いものに出会っちゃったんだ、この色のサドルだ、これがとくによくない。




ボクのビロードのスリッパみたいなもんだ。


ある男がいる。現在、女の性器や他の魅力 [das Genitale und alle anderen Reize des Weibes]にまったく無関心な男である。だが靴を履いた固有の形式の足にのみ抵抗しがたい性的興奮[unwiderstehliche sexuelle Erregung ]へと陥る。


彼は6歳のときの出来事を想い起こす。その出来事がリビドーの固着[Fixierung seiner Libido]の決定因だった。


彼は背もたれのない椅子に座っていた。女の家庭教師の横である。初老の干上がった醜いオールドミスの英語教師。血の気のない青い目とずんぐりした鼻。その日は足の具合が悪いらしく、ビロードのスリッパ Samtpantoffelを履いてクッションの上に投げ出していた。

彼女の脚自体はとても慎み深く隠されていた。痩せこけた貧弱な足。この家庭教師の足である。彼は、思春期に平凡な性行動の臆病な試み後、この足が彼の唯一の性的対象になった。男は、このたぐいの足が英語教師のタイプを想起させる他の特徴と結びついていれば、否応なく魅惑させられる。彼のリビドーの固着は、彼を足フェチ[Fußfetischisten]にしたのである。(フロイト『精神分析入門』第22章、1917年)



はるかに遠い昔の場所の空気を吸うことを強制されて、昏倒しちゃったよ。






過去の復活 résurrections du passé は、その状態が持続している短いあいだは、あまりにも全的で、並木に沿った線路とあげ潮とかをながめるわれわれの目は、われわれがいる間近の部屋を見る余裕をなくさせられるばかりか、われわれの鼻孔は、はるかに遠い昔の場所の空気を吸うことを強制され Elles forcent nos narines à respirer l'air de lieux pourtant si lointains、われわれの意志は、そうした遠い場所がさがしだす種々の計画の選定にあたらせられ、われわれの全身は、そうした場所にとりかこまれていると信じさせられるか、そうでなければすくなくとも、そうした場所と現在の場所 les lieux présents とのあいだで足をすくわれ、ねむりにはいる瞬間に名状しがたい視像をまえにしたときどき感じる不安定にも似たもののなかで、昏倒させられる。(プルースト「見出された時」)





強制された過去の復活、すなわちレミニサンスだ


私は問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっていると考えている。これを「強制 forçage」呼ぼう。これを感じること、これに触れることは可能である、「レミニサンスréminiscence」と呼ばれるものによって。Je considère que […] le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. […] Disons que c'est un forçage.  […] c'est ça qui rend sensible, qui fait toucher du doigt… mais de façon tout à fait illusoire …ce que peut être ce qu'on appelle la réminiscence.   (Lacan, S23, 13 Avril 1976)


トラウマないしはトラウマの記憶は、異物 [Fremdkörper] のように作用する。この異物は体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ。〔・・・〕この異物は引き金を引く動因として、たとえば後の時間に目覚めた意識のなかに心的な痛みを呼び起こす。ヒステリー はほとんどの場合、レミニサンスに苦しむのである。


das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt, welcher noch lange nach seinem Eindringen als gegenwärtig wirkendes Agens gelten muß..[…] als auslösende Ursache, wie etwa ein im wachen Bewußtsein erinnerter psychischer Schmerz […]  der Hysterische leide größtenteils an Reminiszenzen.(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)



ーー《誰だ、ひょっこりやってきておれの気分をそこねた見知らぬやつ(異者)は、と自問したのだった。その異者は、私自身だった、かつての少年の私だった。Je m'étais au premier instant demandé avec colère quel était l'étranger qui venait me faire mal, et l'étranger c'était moi-même, c'était l'enfant que j'étais alors, 》(プルースト「見出された時」)



異物 [Fremdkörper]ってのはつまり異者としての身体だ。







ひとりの女は異者である。 une femme, […] c'est une étrangeté.  (Lacan, S25, 11  Avril  1978)

異者がいる。…異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである。Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)

女性器は不気味なものである。das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches. (フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)










ボクは後ろを通りぬける美女にはひややかであり、プチットマドレーヌの貝の身の匂のレミニサンスにふけっていた。


彼らが私の注意をひきつけようとする美をまえにして私はひややかであり、とらえどころのないレミニサンス réminiscences confuses にふけっていた…戸口を吹きぬけるすきま風の匂を陶酔するように嗅いで立ちどまったりした。「あなたはすきま風がお好きなようですね」と彼らは私にいった。(プルースト「ソドムとゴモラ」)





溝の入った帆立貝の貝殻のなかに鋳込まれたかにみえる〈プチット・マドレーヌ〉と呼ばれるずんぐりして丸くふくらんだあのお菓子の一つ un de ces gâteaux courts et dodus appelés Petites Madeleines qui semblent avoir été moulés dans la valve rainurée d'une coquille de Saint-Jacques(「スワン家のほうへ」)

厳格で敬度な襞の下の、あまりにぼってりと官能的な、お菓子でつくった小さな貝の身petit coquillage de pâtisserie, si grassement sensuel sous son plissage sévère et dévot (「スワン家のほうへ」)





トリュフォークンクンってのはエロスとタナトスの匂クンクンだからな、死にそうになるに決まってるさ


菌臭は、死ー分解の匂いである。それが、一種独特の気持ちを落ち着かせる、ひんやりとした、なつかしい、少し胸のひろがるような感情を喚起するのは、われわれの心の隅に、死と分解というものをやさしく受け入れる準備のようなものがあるからのように思う。自分のかえってゆく先のかそかな世界を予感させる匂いである。〔・・・〕


菌臭は、単一の匂いではないと思う。カビや茸の種類は多いし、変な物質を作りだすことにかけては第一の生物だから、実にいろいろな物質が混じりあっているのだろう。私は、今までにとおってきたさまざまの、それぞれ独特のなつかしい匂いの中にほとんどすべて何らかの菌臭の混じるのを感じる。幼い日の母の郷里の古い離れ座敷の匂いに、小さな神社に、森の中の池に。日陰ばかりではない。草いきれにむせる夏の休墾地に、登山の途中に谷から上がってくる風に。あるいは夜の川べりに、湖の静かな渚に。〔・・・〕


菌臭は、われわれが生まれてきた、母胎の入り口の香りにも通じる匂いではなかろうか。ここで、「エロス」と「タナトス」とは匂いの世界では観念の世界よりもはるかに相互の距離が近いことに思い当たる。恋人たちに森が似合うのも、これがあってのことかもしれない。公園に森があって彼らのために備えているのも、そのためかもしれない。(中井久夫「きのこの匂いについて」1986年『家族の深淵』所収)



トリフがレミニサンスしたらヒョウタン磨くしかないよ


秋   西脇順三郎


灌木について語りたいと思うが

キノコの生えた丸太に腰かけて

考えている間に

麦の穂や薔薇や菫を入れた

籠にはもう林檎や栗を入れなければならない。

生垣をめぐらす人々は自分の庭の中で

神酒を入れるヒョウタンを磨き始めた。



享楽という語は、二つの満足ーーリビドーの満足と死の欲動の満足ーーの価値をもつ一つの語である。Le mot de jouissance est le seul qui vaut pour ces deux satisfactions, celle de la libido et celle de la pulsion de mort. Jacques-Alain Miller , L'OBJET JOUISSANCE , 2016/3 )

すべての利用しうるエロスエネルギーを、われわれはリビドーと呼ぶ。die gesamte verfügbare Energie des Eros, die wir von nun ab Libido(フロイト『精神分析概説』死後出版1940年)