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2022年1月18日火曜日

究極の三度の飯

 


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Die Kunst der Fugue BWV1080

Contrapunctus 13

Tatiana Nikolayeva 

1992年


そうか、タチアナ・ニコラーエワ、フーガの技法全曲録音してるのか、しかも死の前年に。知らなかったねえ。しかも何という喜ばしき演奏! グールドみたいだ。この曲こそ究極の三度の飯かもな、平均律以上に。


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Contrapunctus XIII, a 3

Glenn Gould

たぶん1967年

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Contrapunctus 13 inversus

Zhu Xiao Mei 


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Contrapunctus 13 

(Rectus et Inversus)

Jordi Savall

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Contrapunctus 13

Canadian Brass


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以下は1972年、アムスコ・ミュージック・カンパニーから出版された《平均律クラヴィーア曲集》第一巻の楽譜に寄せたグールドの序文「フーガの技法」(Art of Fugue)の抄訳(宮澤淳一訳)であり、バッハの最晩年の作品(The Art of Fugue)の解説ではない。


バッハはいつもフーガを書いていた。これほど彼の気質に合った探究の対象はなかったし、彼の技法の発展がこれほど的確に評価できるものはほかにない。


彼は常に自分の書いたフーガによって判断されてきた。晩年、当時の前衛作曲家たちがもっとメランコリーなものを志向するようになってからもフーガを書いていたため、彼は昔のあまり啓蒙されていない世代の生き残りとして斥けられた。偉大なる草の根のバッハ復興運動が19世紀初頭に始まったとき、それを担ったのは善意あるロマン派の人たちだった。彼らが《マタイ受難曲》や《ロ短調ミサ》のがっしりとした氷に覆われたような合唱に見たのは、演奏不可能ではないにしろ、解明不可能な謎の数々だった。彼らがそこに身を奉ずべき価値を認めたのは、それらの謎から誇らしげな信仰心が立ちのぼっていたからである。忘れ去られた文化の眠る下層土を掘り起こす考古学者のように、彼らは自分たちの発見したものに感銘を受けた。だが彼らにとっては何よりも、この発見において主導権を発揮したことが喜びだった。〔・・・〕

今日のわれわれもバッハの作品の意味するところと彼の創造的な衝動の多様性を理解したつもりでいるかもしれないが、とにかくわれわれは彼の全音楽活動の中心がフーガにあることを認めている。バッハの手法は常にフーガと隣り合わせにある。彼の磨いたあらゆるテクスチャは結局はフーガに向かう運命にあった。実に何気ない舞曲の調べであれ、きわめて厳粛なコラールの主題であれ、それらは応答を求めているかのようで、フーガ的な手法において十二分に実現しうる対位法的な飛翔を熱望しているように思える。彼が実例を示したあらゆる響きも、声楽と器楽のあらゆる組み合わせも、幾多の応答が行われるのを許し、またそうした応答がなければ完全性を欠く作り方になっているかのようだ。カンタータでコーヒーを出すときや、アンナ・マグダレーナのためのアリアを走り書きするときのような、この上なくゲミュートリヒな、つまりこの上なく居心地のよい瞬間さえ、フーガの始まりそうな気配が漂っている。〔・・・〕

なるほどバッハはフーガの手法を誰よりもたやすく身につけたかもしれない。だがフーガとは一晩で習得できる技能ではない。その証拠としてバッハ初期のフーガが残っており、その中には20歳前後に書かれたトッカータ風のぎこちないフーガもある。いつ果てるともなく反復し、稚拙な継起を繰り返し、編集者の赤鉛筆が絶望的なほど入るであろうそうしたフーガは、大袈裟な和声に幾度となく屈している。これこそが若き日のバッハが闘うべきものであった。当時のバッハは自己批判能力に欠けていて、主題と応答さえあれば満足だった。チェンバロのためのトッカータニ短調に含まれる2つのフーガのうち、先のものは、基本主題の提示を、主張においてだけで何と15回も延々と繰り返すのである。〔・・・〕素材の要求に見合った形式を確立するフーガは稀であった。


ここにフーガの歴史的な課題がある。つまりフーガとは、ソナタ(少なくとも古典派のソナタの第1楽章)が形式であるという意味での形式ではない、むしろフーガとは、作品それぞれの奇妙な要求に見合った形式を発明するための誘発剤なのである。よいフーガが書けるかどうかは、形式を生み出すことへの興味において紋切り型をどれほど手放せるかにかかっている。だからこそフーガという音の冒険は、どうしようもなくマンネリ化したものにも、きわめて挑発的なものになりうるのだ。


こうしたフーガへの10代のぎこちない試みからまるまる半世紀後、フーガにおける明らかに時代錯誤的な究極の試みがなされた。《フーガの技法The Art of Fugue》である。バッハはこの作品を完成することなく世を去ったが、フーガの巨大化の試みをそれなりに楽しんだ。これは、少なくとも時代的にみれば、フェルッチョ・ブゾーニがネオバロック的な誇張を行うまでは誰も手を出さなかったものである。記念碑的な大きさの作品だが、撤退しようという雰囲気が全体を包んでいる。確かにバッハは作曲の実践的な関心から撤退し、妥協を許さぬ創作の理念的な世界へと足を踏み入れつつあった。この撤退の一面として、旋法的とも呼べるような転調概念への回帰がある。最初の調へ必ず戻っていくという調性の帰巣本能は、彼の作品のうち、比較的説教臭くないものに発揮されていたが、この曲集の中でそれが行われている箇所はいくつもない。《フーガの技法》に用いられている和声法は、はなはだしく半音階的だが、初期のフーガよりも同時代性に欠けるし、そして調性の地図をあてもなくさまよううちに、私はチブリアーノ・デ・ローレやドン・カルロ・ジェズアルドの曖昧な半音階主義の精神的な子孫なのだとしばしば宣言してしまうのだ。〔・・・〕

ワイマール時代の未熟な作品と、自己の立場を堅持するような強烈な集中力を発揮した《フーガの技法》との間にも、バッハは文字どおり数百のフーガを書いた。明示の有無はともかく、あらゆる楽器編成のために書き、ほとんど完璧な対位法を、実によどみない形で示している。そうした作品すべてにとって、そしてその後に現れる同じ形式の作品すべてにとって、尺度となるのが、それぞれに24の前奏曲とフーガを収めた全2巻の《平均律クラヴィーア曲集》である。驚くほど多種多様なこの作品集は、線的な継続性と、和声的な安定感との調和を成し遂げている。これはバッハが初期に徹底的に避けてきたものであると同時に、《フーガの技法》では時代錯誤的な傾向のため、本当に小さな役割しか担わされていないものである。この《平均律》でバッハが調性に示す才能は、素材と堅く結ばれており、主題と対主題の動機的な気まぐれを強調できる転調の自由に駆り立てられているように思われる。このように素材と調性を同じ次元で実現することにおいて、バッハは様式的に束縛されなかったばかりか、ほとんど一曲ごとに別個の和声を用いることができた。……(グレン・グールド「フーガの技法」1972年)