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2022年1月20日木曜日

中井久夫の「「もの」としての言葉」とラカンの「言葉のモノ性」


中井久夫は次の文で、幼児の単語の記憶は事実上、トラウマ的だと言っている。


言語発達は、胎児期に母語の拍子、音調、間合いを学び取ることにはじまり、胎児期に学び取ったものを生後一年の間に喃語によって学習することによって発声関連筋肉および粘膜感覚を母語の音素と関連づける。要するに、満一歳までにおおよその音素の習得は終わっており、単語の記憶も始まっている。単語の記憶というものがf記憶的(フラシュバック記憶的)なのであろう。そして一歳以後に言語使用が始まる。しかし、言語と記憶映像の結び付きは成人型ではない。(中井久夫「記憶について」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)



フラシュバック記憶とは、定義上、外傷性フラッシュバック記憶である。


外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)



《語りとしての自己史に統合されない「異物」》とあるが、もうひとつ挙げよう。


一般記憶すなわち命題記憶などは文脈組織体という深い海に浮かぶ船、その中を泳ぐ魚にすぎないかもしれない。ところが、外傷性記憶とは、文脈組織体の中に組み込まれない異物であるから外傷性記憶なのである。幼児型記憶もまたーー。(中井久夫「外傷性記憶とその治療―― 一つの方針」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)



二つの文で、異物概念が使われているが、これがフロイトのトラウマであり、ラカンの享楽である。


トラウマないしはトラウマの記憶は、異物 (異者身体[Fremdkörper] )のように作用する[das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt](フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)

現実界のなかの異物概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ](J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)



ラカンは享楽を穴と呼んだが、穴とはトラウマのことである。


享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない[la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970)

現実界は穴=トラウマを為す[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)



つまり現実界の享楽とはフロイトのトラウマのことである。


ラカンの現実界は、フロイトがトラウマと呼んだものである。ラカンの現実界は常にトラウマ的である。それは言説のなかの穴である[ce réel de Lacan …, c'est ce que Freud a appelé le trauma. Le réel de Lacan est toujours traumatique. C'est un trou dans le discours.  ](J.-A. Miller, La psychanalyse, sa place parmi les sciences, mars 2011)




中井久夫は喃語を語るなかで《「もの」としての言葉》と言っている。


言語リズムの感覚はごく初期に始まり、母胎の中で母親の言語リズムを会得してから人間は生れてくる。喃語はそれが洗練されてゆく過程である。さらに「もの」としての発語を楽しむ時期がくる。精神分析は最初の自己生産物として糞便を強調するが、「もの」としての言葉はそれに先んじる貴重な生産物である。成人型の記述的言語はこの巣の中からゆるやかに生れてくるが、最初は「もの」としての挨拶や自己防衛の道具であり、意味の共通性はそこから徐々に分化する。もっとも、成人型の伝達中心の言語はそれ自体は詰まらない平凡なものである。(中井久夫「「詩の基底にあるもの」――その生理心理的基底」初出1994年『家族の深淵』所収)



ラカンにララング概念がある。


私が「メタランゲージはない」と言ったとき、「言語は存在しない」と言うためである。《ララング》と呼ばれる言語の多種多様な支えがあるだけである。

il n'y a pas de métalangage, c'est pour dire que le langage, ça n'existe pas. Il n'y a que des supports multiples du langage qui s'appellent « lalangue » (ラカン、S25, 15 Novembre 1977)



このララングが事実上、喃語である。


ラカンによれば、ララングは一つの言葉であり、"lallation 喃語"と同音的である。“Lallation” はラテン語の lallare から来ており、辞書が示しているのは、“la, la”と歌うことにより、幼児を寝かしつけることである。この語はまた幼児の「むにゃむにゃ語」をも示している。まだ話せないが、すでに音声を発することである。「Lallation 喃語」は、意味から分離された音声であるが、我々が知っているように、幼児の満足状態からは分離されていない。

Lalangue écrite en un mot, assonante avec la lallation selon Lacan. « Lallation » vient du lallare latin qui désigne le fait de chanter « la, la », disent les dictionnaires, pour endormir les enfants. Le terme désigne aussi le babillage de l'enfant qui ne parle pas encore, mais qui produit déjà des sons. La lallation, c'est le son disjoint du sens, mais cependant, comme on sait, pas disjoint de l'état de contentement de l'enfant. (Colette Soler, L'inconscient Réinventé, 2009)



このララングをラカンは言葉のモノ性[la matérialité des mots]、略して "motérialité" と言った。


最終的に、精神分析は主体のララングを基盤にしている[Enfin, une psychanalyse repose sur lalangue du sujet]。ミレールは厳しくララングと言語を区別した。主体の享楽の審級にあるのは言語ではなくララングだと[ce n'est pas le langage qui met en ordre la jouissance du sujet, mais lalangue]。たとえばミシェル・レリスの « …reusement »である。ミレールはこのレリスの事例を何度も注釈している。これを通して、精神分析は言葉のモノ性[motérialité]を見出だす。ある言葉との出会いの偶然性があるとき、《一者の身体の孤独における享楽を導き出す[retirent la jouissance dans la solitude du Un-corps]》。そして知の外部の場に位置付けられたその場を《人は何も知らない[où on n'en sait rien] 》(ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen 「一般化フェティシズムの時代の精神分析 PSYCHANALYSE AU SIÈCLE DU FÉTICHISME GÉNÉRALISÉ 」2010年)


《トラウマ》は日常言語の言葉になっている。だが出発においてのトラウマの語源は「傷を癒す」である[au départ, son étymologie est « guérir la blessure »]。ジャック=アラン・ミレールはミシェル・レリスの『闘牛鑑 L'Âge d'homme』について話していた。レリスは4歳で、テーブルの縁についていた。彼の母がとてもブルジョワ風にお茶を飲んでいた。彼はティーカップで遊び、突然起こるべきことが起こりカップが落ちた。レリスは目を瞠り、カップが割れるのを見て言った、《腹立つ![ …'reusement ! ]》。母はレリスに言った、《違うわ、可愛い坊や、幸運よ[nn mon chéri, Heureusement]》。そしてこれが彼の生のトラウマである。これが作家としての彼の生を決めた。トラウマを引き起こすものは、ときに、口にされたわずかなフレーズである。たんに大きな恐怖ではない[il lui sort : « …'reusement ! ». Et sa mère lui dit « non mon chéri, Heureusement », et c'est le trauma de sa vie, ça décide de sa vie d'écrivain. Ça m'évoque que ce qui fait trauma c'est parfois une petite phrase dite, c'est pas simplement le grand effroi.](Georges Haberberg,« Traumatismes »2018)



つまりララングは母の言葉である。


ララングが、母の言葉と呼ばれることは正しい。というのは、ララングは常に最初期の世話に伴う身体的接触に結びついているから[lalangue… est justifié de la dire maternelle car elle est toujours liée au corps à corps des premiers soins](コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)



そしてララングは現実界的シニフィアン、すなわちトラウマ的シニフィアンである。


ララングは象徴界的なものではなく、現実界的なものである。現実界的というのはララングはシニフィアンの連鎖外のものであり、したがって意味外にあるものだから(シニフィアンは、連鎖外にあるとき現実界的なものになる)。[Lalangue, ça n'est pas du Symbolique, c'est du Réel. Du Réel parce qu'elle est faite de uns, hors chaîne et donc hors sens (le signifiant devient réel quand il est hors chaîne)](Colette Soler, L'inconscient Réinventé, 2009)

問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている[le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme.]  (Lacan, S23, 13 Avril 1976)



簡単に言えば、人はみな《母なるララングのトラウマ的効果[L'effet traumatique de lalangue maternelle]》(Martine Menès, Ce qui nous affecte, 15 octobre 2011) を持っている。


上に引用した中井久夫は「詩の基底にあるもの」という表題をもつ論で、喃語とモノとしての言葉を語っているのを見たが、詩の基底にあるのは結局、母なるララングであるだろう。


詩は意味の効果だけでなく、穴の効果である[la poésie qui est effet de sens, mais aussi bien effet de trou.]  (Lacan, S24, 17 Mai 1977)


穴の効果、すなわちトラウマの効果であり、起源には《母なるララングのトラウマ的効果》があるだろうから。詩だけではない。例えば音楽の起源には母なるララングがある筈である。


トラウマ、つまり現実界の享楽の最も簡潔な定義は、固着(身体の出来事への固着)であり、反復強迫もしくは常に同じ場処に回帰することである。



現実界は「常に同じ場処に回帰するもの」として現れる[le réel est apparu comme « ce qui revient toujours à la même place »]  (Lacan, S16, 05  Mars  1969 )

フロイトが固着点と呼んだもの、この固着点の意味は、「享楽の一者がある」ということであり、常に同じ場処に回帰する。この理由で固着点に現実界の資格を与える[ce qu'il appelle un point de fixation. …Ce que veut dire point de fixation, c'est qu'il y a un Un de jouissance qui revient toujours à la même place, et c'est à ce titre que nous le qualifions de réel. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)




人はみなコミュニケーションの大他者の根に、この固着という享楽の一者、つまりトラウマの一者をもっている。


大他者の根には一者がある[la racine de l'Autre c'est le Un.](J.-A. MILLER, - L'Être et l'Un - 25/05/2011)


これがわれわれの根である。フロイトはこの固着を《欲動の根 [Triebwurzel]》(『終りある分析と終りなき分析』第7章、1937年)と呼んだ。