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2022年1月26日水曜日

人はみな風変わりな変人である

 

昨晩から久しぶりにツイッターを眺めてみたのだが、一部でヒドク賑わってるな・・・


最近は少しわけありで()ジジェクをあまり引用しないようにしてるんだが、私はジジェクからたくさん学んでいるのは間違いない。


で、以下にジジェクの文を引用するが、あの騒ぎは、ハラスメントの両刃性を痛いほど感受している「下品でふつうの下流の学者さん」とまったくそうでない「上中流クラスの学者さん」とのあいだの悶着という相が間違いなくあるように見えるね。


……ハラスメント。もちろん私はハラスメントに反対している。しかし私は、それがいかにしばしば両刃の概念であるかにひどく驚かされた。米国での経験が教えてくれたのは、ハラスメント概念はまた、とてもはっきりした階級的側面をもっていることだった。多くのミドルクラスの学者やリベラルたちにとって、ハラスメントが意味するのは、彼らは下品で攻撃的なふつうの人々の現前に我慢できないということだ。ハラスメントを叫ぶことは、上中流クラスの連中--学者・インテリ・リベラル--がふつうの人々を遠ざけておく方法なのだ。……harassment. Of course, I am against harassment, but I was quite surprised at how often it is a very double-edged notion. My time in the US taught me that it can also have a very clear class dimension. For many middle-class academics and liberals, harassment means they cannot really stand the presence of vulgar, aggressive, ordinary people. Crying harassment is a way for the upper-middle classes – academics, intellectuals and liberals – to keep their distance from ordinary people.(Migrants, Racists and the Left: An Interview with Slavoj Žižek、2016


これくらいは知っとかないとな、とくに上中流の学者さんたちは。


で、ついでにもうひとつ。難民問題について書かれている文だが、その文脈を外して、私にはエッセンスと思われる箇所を引く。とくに《人はみな、各人それぞれの仕方で、風変わりな変人だと認めること》。エリート学者やその卵はこれがことさら苦手なんだろうけど。


(『方法序説』のデカルトにとって)外国人の習慣や信念は、彼に滑稽で奇矯に見えた。だがそれは、彼が自問するまでだ、我々の習慣や信念も、彼らに同じように見えるのではないか、と。この反転の成り行きは、文化相対主義に一般化され得ない。そこで言われていることは、もっと根源的なことで注意を惹起する。すなわち、我々は自らを奇矯だと経験することを学ばなければならない。我々の習慣はひどく風変わりで、根拠のないものだ、ということを。〔・・・〕

文化固有の「生活様式」とは、ただたんに、一連の抽象的なーーキリスト教、イスラム教ーーの「価値」で構成されているのではない。そうではなく、日常の振る舞いのぶ厚いネットワークのなかに具現化されている。いかに飲食し、いかに歌ったり愛を交わしたりするのか。いかに権威とかかわるのか。我々「それ自身」が生活様式なのだ。それは、我々の第二の特性である。この理由で、直接的「教育」では、それを変えることはできない。何かはるかにラディカルなことが必要なのだ。ブレヒトの「異化」のようなもの、深い実存的経験、我々の慣習や儀式が何と馬鹿げて無意味であり根拠のないものであるかということに、唐突に衝撃を受けるような。〔・・・〕

大切なことは、異邦人のなかに我々自身を認知することじゃない。我々自身のなかに異邦人を認めることだ。人はみな、各人それぞれの仕方で、風変わりな変人だと認めること。異なった生活様式の寛容な共存にとっての唯一の希望を与えてくれるものはここにしかない。

The point is thus not to recognise ourselves in strangers, but to recognise a stranger in ourselves ….The recognition that we are all, each in our own way, weird lunatics, provides the only hope for a tolerable co-existence of different ways of life.(ジジェク, What our fear of refugees says about Europe, 29 FEBRUARY 2016





ごく一般的に教師のみなさんのためにこういう風に引用しといてもいいけど。


医療・教育・宗教を「三大脅迫産業」というそうだからひとのことはいえないが、罪や来世や過去の因縁などで脅かすことは非常に困る。また、自分の偉さやパワーを証明するために患者を手段とすることは、医者も厳に自戒しなければならないが、宗教者も同じであると思う。カトリックの大罪である「傲慢」(ヒュブリス)に陥らないことが大切である。(中井久夫「宗教と精神医学」初出1995年「日本医事新報」第三七〇二号『精神科医がものを書くとき』所収)

一般に「正義われにあり」とか「自分こそ」という気がするときは、一歩下がって考えなおしてみてからでも遅くない。そういうときは視野の幅が狭くなっていることが多い。 (中井久夫『看護のための精神医学』2004年 )


文学や自然科学の学生にとってお極まりの捌け口、教職、研究、または何かはっきりしない職業などは、また別の性質のものである。これらの学科を選ぶ学生は、まだ子供っぽい世界に別れを告げていない。彼らはむしろ、そこに留まりたいと願っているのだ。教職は、大人になっても学校にいるための唯一の手段ではないか。文学や自然科学の学生は、彼らが集団の要求に対して向ける一種の拒絶によって特徴づけられる。ほとんど修道僧のような素振りで、彼らはしばらくのあいだ、あるいはもっと持続的に、学問という、移り過ぎて行く時からは独立した財産の保存と伝達に没頭するのである。〔・・・〕


彼らに向かって、君たちもまた社会に参加しているのだと言ってきかせるくらい偽りなことはない。〔・・・〕彼らの参加とは、結局は、自分が責任を免除されたままで居続けるための特別の在り方の一つに過ぎない。この意味で、教育や研究は、何かの職業のための見習修業と混同されてはならない。隠遁であるか使命であるということは、教育や研究の栄光であり悲惨である。(レヴィ= ストロース『悲しき熱帯』 Ⅰ 川田順造訳 p77-79)