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2022年5月6日金曜日

(性的)コミュニケーション非関係図

 前回示したようにラカンの言説理論における「主人の言説」は、あらゆる言説ーー四つの言説プラスアルファ資本の言説ーーの基礎であり、交換関係=コミュニケーションにおける「主語の言説」とも呼びうる。



①左上のS1とは何よりもまず《シニフィアン私[signifiant « je » ]》(Lacan, S14, 24  Mai  1967)である。これはシニフィアンの主体[le sujet du signifiant]であり、「私表象」と言い換えられる。


②他方、右上のS2は「他表象」であり、他の人、他のものである。


③左下の主体$とは、穴、主体の穴である。


現実界のなかの穴は主体である[Un trou dans le réel, voilà le sujet.] (Lacan, S13, 15 Décembre 1965)

主体の穴 [le trou du sujet ](Lacan, S13, 08 Décembre 1965)


④右下の対象aは剰余享楽であり、穴埋めである。


装置が作動するための剰余享楽の必要性がある。つまり享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない[la nécessité du plus-de-jouir pour que la machine tourne, la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](ラカン, Radiophonie, AE434, 1970)

ラカンは享楽と剰余享楽を区別した。穴と穴埋めである[il distinguera la jouissance du plus-de-jouir…le trou et le bouchon]。(J.-A. Miller, Extimité, 16 avril 1986、摘要)


この意味で「主人の言説」とは、幻想の構造が最も鮮明化されている図である。


幻想が主体にとって根源的な場をとるなら、その理由は主体の穴を穴埋めするためである[Si le fantasme prend une place fondamentale pour le sujet, c'est qu'il est appelé à combler le trou du sujet]   (J.-A. Miller, DU SYMPTÔME AU FANTASME, ET RETOUR, 8 décembre 1982)


事実、底部にはラカンの幻想の式[$ ◊ a]が示されている。



上辺の矢印に示されているコミュニケーションの不可能性[Impossible]をラカンは《真理は半分しかいえない[le mi-dire de la vérité]》と表現した。言語の壁である。底辺の菱形紋における不能性[impuissance]とは、主体の穴の穴埋めは充分にはできないことを示しており、ゆえに右下(a)から左上(S1)への回帰があり、循環運動が起こる。



ラカンが主体という時、シニフィアンの主体S1と享楽の主体$がある。


主体にはシニフィアンの主体と享楽の主体がある[sujet qui est le sujet du signifiant et le sujet de la jouissance.](J.-A. MILLER, CE QUI FAIT INSIGNE, 11 MARS 1987)


とはいえ、この「享楽の主体」とはより厳密にいえば、「斜線を引かれた享楽の主体=穴の主体」である。


私は、斜線を引かれた享楽を斜線を引かれた主体と等価とする[le « J » majuscule du mot « Jouissance », le prélever pour l'inscrire et le barrer …- équivalente à celle du sujet :(- J) ≡ $ ] (J.-A. MILLER, - Tout le monde est fou – 04/06/2008)

穴は斜線を引かれた主体と等価である[Ⱥ ≡ $

[A barré est équivalent à sujet barré. [Ⱥ ≡ $]](J.-A. MILLER, -désenchantement- 20/03/2002)


つまりはこうなる。




したがって主人の言説の底部にある幻想の式[$ ◊ a]とは、先ほど示したように「穴 ◊ 穴埋め」であると同時に、「斜線を引かれた享楽 ◊ 剰余享楽」である。





この剰余享楽[plus-de-jouir]がマルクスの剰余価値[Mehrwert]であり、フェティッシュである。


剰余価値[Mehrwert]、それはマルクス的快[Marxlust]、マルクスの剰余享楽[le plus-de-jouir de Marx]である。(ラカン, Radiophonie, AE434, 1970)

私が対象a[剰余享楽]と呼ぶもの、それはフェティシュとマルクスが奇しくも精神分析に先取りして同じ言葉で呼んでいたものである[celui que j'appelle l'objet petit a [...] ce que Marx appelait en une homonymie singulièrement anticipée de la psychanalyse, le fétiche ](Lacan, AE207, 1966年)




……………



ラカンの享楽の穴とは現実界の穴(トラウマ)のことでもある。


我々はみな現実界のなかの穴を穴埋めするために何かを発明する。現実界には 「性関係はない」、 それが、穴=トラウマを為す。…tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)

穴、それは非関係によって構成されている[un trou, celui constitué par le non-rapport](Lacan, S22, 17 Décembre 1974)


現実界の享楽、それは、《享楽は関係性を構築しない。これは現実界的条件である[la jouissance ne se prête pas à faire rapport. C'est la condition réelle]》(Colette Soler, Les affects lacaniens , 2011)


ラカンの思考においては、このトラウマ的関係性の不在のリアルに対して見せかけの言説で防衛するのがわれわれ人間である。


言説はそれ自体、常に見せかけの言説である[le discours, comme tel, est toujours discours du semblant ](Lacan, S19, 21 Juin 1972)

我々の全言説は現実界に対する防衛である[tous nos discours sont une défense contre le réel] (Anna Aromí, Xavier Esqué, XI Congreso, Barcelona 2-6 abril 2018)



ここで主人の言説図を男女関係の図として置いてみよう。




男女関係の上辺の男♂と女♀は左右どちらに置いてもよろしい。古典的な男女記号においても男女両性には穴が空いている。それが何よりも重要である⁉︎


人はみなトラウマ化されている。 この意味はすべての人にとって穴があるということである。[tout le monde est traumatisé …ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou.](J.-A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010 )


上階の男女両性コミュニケーションは不可能である。なぜなら言語の壁があるから。この性的コミュニケーションにともなって穴埋め=剰余享楽というフェティッシュが生じる。だがこの穴埋めは元来の穴を充分には穴埋めしえない。これが地階の不能性(インポテンツ)であり、性的非関係である。実にわかりすい交換関係インポテ図ではなかろうか?


穴とは喪失(享楽の喪失)の意味を持っている。例えばヒト族においての享楽の性的非関係に対して《愛は穴を穴埋めする[l'amour bouche le trou.]》(Lacan, S21, 18 Décembre 1973)。だが、《剰余享楽としての享楽は穴埋めだが、享楽の喪失を厳密に穴埋めすることは決してない[la jouissance comme plus-de-jouir, c'est-à-dire comme ce qui comble, mais ne comble jamais exactement la déperdition de jouissance]》(J.-A. Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)。


なぜなら実は誰も知っている筈のように、人はみな穴埋め不能の穴が空いているから




享楽はダナイデスの樽である[la jouissance, c'est « le tonneau des Danaïdes » ](Lacan, S17, 11 Février 1970)

この穴とは究極的には喪われた母の穴(トラウマ)である。



ここでの父の名(P)=大他者(A)は言語であり、穴埋めである。



大他者とは父の名の効果としての言語自体である [grand A…c'est que le langage comme tel a l'effet du Nom-du-père.](J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 14/1/98)

父の名という穴埋め [bouchon qu'est un Nom du Père]  (Lacan, S17, 18 Mars 1970)


他方、母の名(- M)=享楽(- J)は、母なる穴である。


われわれが父の名による隠喩作用を支える瞬間から、母の名は原享楽を表象するようになる。à partir du moment où on fait supporter cette opération de métaphore par le Nom-du-Père, alors c'est le nom de la mère qui vient représenter la jouissance primordial (J.-A. Miller, CAUSE ET CONSENTEMENT, 23 mars 1988)

大文字の母は、その基底において、「原リアルの名」であり、「原穴の名 」である[Mère, au fond c’est le nom du premier réel, …c’est le nom du premier trou](Colette Soler, Humanisation ? ,2014)


残滓とは父の名では穴埋めしえない母の名の残存物である。


※残滓Reste(a)と剰余享楽(a)とはまったく異なった対象aなので最大限の注意(参照)。


………………


ここでマルクスの価値形態論からいくらか抜き出して確認しておこう。


まず『資本論』の「商品のフェティシズム的性格とその秘密」の節からである。


もし商品が話すことができるならこう言うだろう[Könnten die Waren sprechen, so würden sie sagen] 。われわれの使用価値[Gebrauchswert]は人間の関心をひくかもしれない。だが使用価値は対象としてのわれわれに属していない。対象としてのわれわれに属しているのは、われわれの(交換)価値である。われわれの商品としての交換-交通[Verkehr]がそれを証明している。われわれはただ交換価値[Tauschwerte]としてのみ互いに関係している。(マルクス 『資本論』第1篇第1章第4節「商品のフェティシズム的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」)

商品のフェティシズム…それは諸労働生産物が商品として生産されるや忽ちのうちに諸労働生産物に取り憑き、そして商品生産から切り離されないものである。[Dies nenne ich den Fetischismus, der den Arbeitsprodukten anklebt, sobald sie als Waren produziert werden, und der daher von der Warenproduktion unzertrennlich ist.](マルクス 『資本論』第一篇第一章第四節「商品のフェティシズム的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」)


つまりはこう置ける。



ーー価値関係はない。ゆえに無限の循環運動が起こる。ーー《ここがロードス島だ。ここで跳べ![Hic Rhodus, hic salta!  ]》(『資本論』第二篇第四章第二節「一般的定式の諸矛盾」)。ロドス菱形紋は飛べるわけがない。飛翔は死への道だ。迂回して循環せねばならない。



もうひとつ「資本の一般的形態」の節から引こう。


流通 G-W-G (貨幣-商品-貨幣)では、両方とも、商品も貨幣も、ただ価値そのものの別々の存在様式として、すなわち貨幣はその一般的な、商品はその特殊的な、いわばただ仮装しただけの存在様式として、機能するだけである。

In der Zirkulation G - W - G funktionieren dagegen beide, Ware und Geld, nur als verschiedne Existenzweisen des Werts selbst, das Geld seine allgemeine, die Ware seine besondre, sozusagen nur verkleidete Existenzweise.


価値は、この運動の中で消えてしまわないで絶えず一方の形態から他方の形態に移って行き、そのようにして、一つの自動的主体[ein automatisches Subjekt] に転化する。自分を増殖する価値がその生活の循環のなかで交互にとってゆく特殊な諸現象形態を固定してみれば、そこで得られるのは、資本は貨幣である、資本は商品である[Kapital ist Geld, Kapital ist Ware]、という説明である。

Er geht beständig aus der einen Form in die andre über, ohne sich in dieser Bewegung zu verlieren, und verwandelt sich so in ein automatisches Subjekt. Fixiert man die besondren Erscheinungsformen, welche der sich verwertende Wert im Kreislauf seines Lebens abwechselnd annimmt, so erhält man die Erklärungen: Kapital ist Geld, Kapital ist Ware.


しかし、実際には、価値はここでは一つの過程の主体になるのであって、この過程のなかで絶えず貨幣と商品とに形態を変換しながらその大きさそのものを変え、原価値[ursprünglichem Wert] としての自分自身から剰余価値[Mehrwert]としての自分を突き放し、自分自身を増殖する。なぜならば、価値が剰余価値をつけ加える運動は、価値自身の運動であり、価値の増殖であり、したがって自己増殖であるからである。

In der Tat aber wird der Wert hier das Subiekt eines Prozesses, worin er unter dem beständigen Wechsel der Formen von Geld und Ware seine Größe selbst verändert, sich als Mehrwert von sich selbst als ursprünglichem Wert abstößt, sich selbst verwertet. Denn die Bewegung, worin er Mehrwert zusetzt, ist seine eigne Bewegung, seine Verwertung also Selbstverwertung.

(マルクス『資本論』第一篇第二章第一節「資本の一般的形態 Die allgemeine Formel des Kapitals」)




ここではマルクス自身、主体という言葉を使っている、一つの自動的主体[ein automatisches Subjekt]と。しかも《資本は貨幣である、資本は商品である[Kapital ist Geld, Kapital ist Ware]と。主体$は貨幣S1であり、主体$は商品S2なのである。


資本の自動的主体とは、無目的な[end-less]=終わりなき[endless]自己増殖運動である。




資本の自動的主体がこのような常なる反復をしているのと同じように、人間も意図せずに自動反復している。フロイトはこの自動反復[Automatismus]をエスの欲動蠢動としての無意識のエスの反復強迫[Wiederholungszwang des unbewußten Es]と呼んだ。


柄谷行人はこれを資本の欲動と呼んだ。



資本家は、 G‐W‐G’ G )という自己運動に積極的にとびこんで行かねばならない〔・・・〕。使用価値は、けっして資本家の直接目的として取り扱われるべきではない。個々の利得もまたそうであって、資本家の直接目的として取り扱われるべきものは、利得の休みなき運動でしかないのだ。〔・・・〕


資本主義の原動力を、人々の欲望に求めることはできない。むしろその逆である。資本の欲動は「権利」(ポジション)を獲得することにあり、そのために人々の欲望を喚起し創出するだけなのだ。そして、この交換可能性の権利を蓄積しようとする欲動は、本来的に、交換ということに内在する困難と危うさから来る。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)


G‐W‐G’ G )とあるのは、もちろん貨幣+商品+貨幣’(貨幣+剰余価値)であり、先ほどの図に示されている。




これこそ「G ➡︎ W ➡︎ ⊿G ➡︎ G’ 」の永遠循環運動である。



・・・この過程の全形態は、G -W - G 'である。G' = G + ⊿ G であり、最初の額が増大したもの、増加分が加算されたものである。この、最初の価値を越える、増加分または過剰分を、私は"剰余価値"[Mehrwert (surplus value)]と呼ぶ。この独特な経過で増大した価値は、流通内において、存続するばかりでなく、その価値を変貌させ、剰余価値または自己増殖[Mehrwert zu oder verwertet sich]を加える。この運動こそ、貨幣の資本への変換である[diese Bewegung verwandelt ihn in Kapital]。(マルクス『資本論』第一篇第二章第一節「資本の一般的形態 Die allgemeine Formel des Kapitals」)



マルクスは最終的にはG ‐ G’と書いた。


利子生み資本では、自動的フェティッシュ[automatische Fetisch]、自己増殖する価値 、貨幣を生む貨幣[selbst verwertende Wert, Geld heckendes Geld]が完成されている。〔・・・〕

ここでは資本のフェティッシュな姿態[Fetischgestalt] と資本フェティッシュ [Kapitalfetisch]の表象が完成している。我々が [G - G‘]で持つのは、資本の中身なき形態 [die begriffslose Form des Kapitals]、生産諸関係の至高の倒錯と物件化[Verkehrung und Versachlichung]、すなわち、利子生み姿態・再生産過程に先立つ資本の単純な姿態である。それは、貨幣または商品が再生産と独立して、それ自身の価値を増殖する力能ーー最もまばゆい形態での資本の神秘化[Kapitalmystifikation]である。(マルクス『資本論』第三巻第二十四節 )



ここでの貨幣は(そして商品も)事実上、資本自体であり、資本フェティッシュ [Kapitalfetisch]とは先ほど示した自動的主体[ein automatisches Subjekt]の底部がそのまま現れたとするのが相応しい。




すなわち貨幣フェティッシュ[Geldfetisch]も商品フェティッシュ[Warenfetisch]もすっ飛ばした裸のままの資本の欲動が、資本フェティッシュ [Kapitalfetisch]である。


・・・しかしここまで完璧に一致していいものか、性的非関係の図と?




どこかマチガッテナイカナ、不安になってきたよ・・・


(実はこれを記している中で気になっていることがある。主体の穴とは主体の去勢のこと[参照]でもあるのだが、去勢には四種類ある。象徴界的去勢・想像界的去勢・現実界的去勢、原去勢である[参照]。言説理論における去勢とは象徴界的去勢、つまり言語による去勢である。想像界は象徴界によって支配されているのでこの際無視するとしても精神分析において最も重要なのは現実界的去勢である。これを固着の穴=トラウマという。固着とはエスに身体的なものを置き残すことである。(原去勢もこの際無視する。出産外傷なのだから)。ラカンが斜線を引かれた享楽という時、主にこの固着の穴を示す。フロイト用語で言えば自我分裂[Ichspaltung](自我とエスの分裂)であり[参照]、ラカンの斜線を引かれた主体$の起源はここにある。他方、マルクスの価値とは交換価値と使用価値の分裂である。これをフロイトの自我分裂と相同的なものと扱うことができうるものか。もし出来るなら、マルクスの価値とは象徴界的去勢ではなく、現実界的去勢の審級にある。ここはもう少し考えてみなければならない。)


さて今は話を単純路線に戻して記述を少しだけ続ける。


永遠にマルクスに声に耳を傾けるこの貝殻[La coquille à entendre à jamais l'écoute de Marx]……この剰余価値は経済が自らの原理を為す欲望の原因である。拡張生産の、飽くことを知らない原理、享楽欠如[manque-à-jouir」 の原理である[la plus-value, c'est la cause du désir dont une économie fait son principe : celui de la production extensive, donc insatiable, du manque-à-jouir.](Lacan, RADIOPHONIE, AE435,1970年)





剰余価値[la plus-value]ってのは貝殻🐚とあるのでロードス島の剰余ヴァギナのことかもな


仏語の「剰余享楽 le plus-de-jouir」は、「もはやどんな享楽もない」と「もっと享楽を !」[both as "not enjoying any more" and as "more of the enjoyment." ]の両方の意味をもっている。(PAUL VERHAEGHE, new studies of old villains , 2009)



現代のマルキストはエロ事師を通さないとダメらしいよーー《いまマルキシストであるためには、人はラカンを通さねばならない![To be a Marxist today, one has to go through Lacan!]》(ジジェク書評ーーサモ・トムシッチ『資本家の無意識:マルクスとラカン』The Capitalist Unconscious  Marx and Lacan by Samo Tomšič, 2015)