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2022年1月29日土曜日

フロイトの自我分裂とラカンの主体$

  

ラカンの主体はフロイトの自我分裂を基盤としている[Le sujet lacanien se fonde dans cette « Ichspaltung » freudienne.  ](Christian Hoffmann Pas de clinique sans sujet, 2012)


ラカンの主体は$と書かれ、二つに分裂しているという意味であり、この分裂した主体の起源がフロイトの自我分裂 [Ichspaltung]である。


例えばジャック=アラン・ミレールは次のように言っている。


主体にはシニフィアンの主体と享楽の主体がある[sujet qui est le sujet du signifiant et le sujet de la jouissance.](J.-A. MILLER, CE QUI FAIT INSIGNE, 11 MARS 1987)


この「シニフィアンの主体/享楽の主体」の内実は後にもう少し詳しく見るが、これが何よりもまず分裂された主体の意味である。


まずフロイト最晩年の『防衛過程における自我分裂』論文から引こう。


欲動要求と現実[Realität]の抗議のあいだに葛藤(衝突)があり、この二つの相反する反応が自我分裂の核として居残っている[Es ist also ein Konflikt zwischen dem Anspruch des Triebes und dem Einspruch der Realität. …Die beiden entgegengesetzten Reaktionen auf den Konflikt bleiben als Kern einer Ichspaltung bestehen. ](フロイト『防衛過程における自我分裂』1939年)


欲動要求と現実との衝突が自我分裂の核だとある。


フロイトにとって欲動要求はリアルである。


欲動要求はリアルな何ものかである[Triebanspruch etwas Reales ist](フロイト『制止、症状、不安』第11章「補足B 」1926年)


すなわちリアルとリアリティ(現実)[Real und Realität]との衝突が自我分裂の核である。


ラカンにとってリアリティ(現実)とは幻想である。


現実はない。現実は幻想によって構成されている[il n'y a pas de réalité.La réalité n'est constituée que par le fantasme](Lacan, S25, 20 Décembre 1977)

じつは、この世界は思考を支える幻想でしかない。それもひとつの「現実」には違いないかもしれないが、現実界の顰め面[grimace du réel]として理解されるべき現実である。[alors qu'il(monde) n'est que le fantasme dont se soutient une pensée, « réalité » sans doute, mais à entendre comme grimace du réel.](Lacan, Télévision, AE512、Noël 1973)



つまりフロイトのリアルとリアリティ(現実)は、ラカンにおいて現実界と幻想だ。さらに1978年にはこの幻想を妄想と呼ぶようになる。


私は言いうる、ラカンはその最後の教えで、すべての象徴秩序は妄想だと言うことに近づいたと[Je dois dire que dans son dernier enseignement, Lacan est proche de dire que tout l'ordre symbolique est délire]〔・・・〕


ラカンは1978年に言った、「人はみな狂っている、すなわち人はみな妄想する tout le monde est fou, c'est-à-dire, délirant」と。〔・・・〕我々は言う、幻想的と。しかし幻想的とは妄想的のことである[ fantasmatique peut-on-dire - mais, justement, fantasmatique veut dire délirant. ] (J.-A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire;  2009)



フロイトに戻ろう。自我分裂について次のようにもある。


自我分裂の事実は、個人の心的生に現前している二つの異なった態度に関わり、それは互いに対立し独立したものであり、神経症の普遍的特徴である。もっとも一方の態度は自我に属し、もう一方はエスへと抑圧されている。

Die Tatsachen der Ichspaltung, …Dass in Bezug auf ein bestimmtes Verhalten zwei verschiedene Ein-stellungen im Seelenleben der Person bestehen, einander entgegengesetzt und unabhängig von einander, ist ja ein allgemeiner Charakter der Neurosen, nur dass dann die eine dem Ich angehört, die gegensätzliche als verdrängt dem Es. (フロイト『精神分析概説』第8章、1939年)


自我分裂とは自我とエスの分裂なのである。

エスへの抑圧[verdrängt dem Es]とあるが、この抑圧は原抑圧であり、原防衛である。


われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧は、後期抑圧の場合である。それは早期に起こった原抑圧を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力をあたえる[die meisten Verdrängungen, mit denen wir bei der therapeutischen Arbeit zu tun bekommen, Fälle von Nachdrängen sind. Sie setzen früher erfolgte Urverdrängungen voraus, die auf die neuere Situation ihren anziehenden Einfluß ausüben. ](フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年)

抑圧はすべて早期幼児期に起こる。それは未成熟な弱い自我の原防衛手段である[Alle Verdrängungen geschehen in früher Kindheit; es sind primitive Abwehrmaßregeln des unreifen, schwachen Ichs. ](フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)


この原抑圧(原防衛)の別名は固着である。


抑圧の第一段階ーー原抑圧された欲動ーーは、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, (primär verdrängten Triebe) dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ]。この欲動の固着[Fixierungen der Triebe] は、以後に継起する病いの基盤を構成する。(フロイト『症例シュレーバー 』1911年、摘要)


欲動の固着(リビドーの固着)とは身体的な欲動が或る対象に固く付着して、自我に転換されずエスに居残ることである。


人の生の重要な特徴はリビドーの可動性であり、リビドーが容易にひとつの対象から他の対象へと移行することである。反対に、或る対象へのリビドーの固着があり、それは生を通して存続する。Ein im Leben wichtiger Charakter ist die Beweglichkeit der Libido, die Leichtigkeit, mit der sie von einem Objekt auf andere Objekte übergeht. Im Gegensatz hiezu steht die Fixierung der Libido an bestimmte Objekte, die oft durchs Leben anhält. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)



フロイトはこのエスに置き残されるものを異者[fremd]あるいは異者身体[Fremdkörper]と表現した。


固着に伴い原抑圧がなされ、暗闇に異者が蔓延る[Urverdrängung…Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; …wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen](フロイト『抑圧』1915年、摘要)


「暗闇に異者が蔓延る」とあるが、1915年にはフロイトにはまだエス概念はない(エス概念の最初の提出は1923年)。だがこの暗闇に蔓延る異者がエスの欲動蠢動[Triebregung des Es]である。


自我はエスの組織化された部分である。ふつう抑圧された欲動蠢動は分離されたままである[das Ich ist eben der organisierte Anteil des Es ...in der Regel bleibt die zu verdrängende Triebregung isoliert. ]〔・・・〕


エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異者身体の症状 Symptom als einen Fremdkörper]の症状と呼んでいる。[Triebregung des Es …ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen ](フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)


この異者身体[Fremdkörper]がフロイトにとっての原無意識である。


抑圧されたものは異者身体として分離されている[Verdrängten … sind sie isoliert, wie Fremdkörper] 〔・・・〕抑圧されたものはエスに属し、エスと同じメカニズムに従う[Das Verdrängte ist dem Es zuzurechnen und unterliegt auch den Mechanismen desselben]〔・・・〕


自我はエスから発達している。エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳に影響されず、本来の無意識(原無意識)としてエスのなかに置き残されたままである。[das Ich aus dem Es entwickelt. Dann wird ein Teil der Inhalte des Es vom Ich aufgenommen und auf den vorbewußten Zustand geho-ben, ein anderer Teil wird von dieser Übersetzung nicht betroffen und bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück.](フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年、摘要)



初期フロイトはこの異者をモノ[das Ding]とも表現した。


同化不能の部分(モノ)[einen unassimilierbaren Teil (das Ding)](フロイト『心理学草案(Entwurf einer Psychologie)』1895)

我々がモノと呼ぶものは残滓である[Was wir Dinge mennen, sind Reste](フロイト『心理学草案(Entwurf einer Psychologie)』1895)


同化不能のモノ=残滓とは自我に同化されない身体的なもの(異者身体)であり、これがリビドー固着の残滓である。


常に残存現象がある。つまり部分的な置き残しがある。〔・・・〕標準的発達においてさえ、(自我への)転換は決して完全には起こらず、最終的な配置においても、以前のリビドー固着の残滓が存続しうる。

Es gibt fast immer Resterscheinungen, ein partielles Zurückbleiben. […]daß selbst bei normaler Entwicklung die Umwandlung nie vollständig geschieht, so daß noch in der endgültigen Gestaltung Reste der früheren Libidofixierungen erhalten bleiben können. (フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)


つまり、リビドー固着の残滓 [Reste der  Libidofixierung] =モノ[das Ding]=異者身体[Fremdkörper]である。


これがラカンの現実界である。


フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel ](ラカン, S23, 13 Avril 1976

モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger](Lacan, S7, 09  Décembre  1959




ラカンの対象aには見せかけの対象aとリアルな対象aがあるが、このリビドー固着の残滓としてのモノ=異者が後者のリアルな対象aであり、享楽自体である。


以下、セミネールⅩに現れる一連の発言を列挙しよう。


残滓がある。分裂の意味における残存物である。この残滓が対象aである[il y a un reste, au sens de la division, un résidu.  Ce reste, …c'est le petit(a).  ](Lacan, 21 Novembre  1962)

フロイトの異者は、残存物、小さな残滓である[L'étrange, c'est que FREUD…c'est-à-dire le déchet, le petit reste,](Lacan, S10, 23 Janvier 1963)

異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である[corps étranger,…le (a) dont il s'agit,…absolument étranger ](Lacan, S10, 30 Janvier 1963)

享楽は、残滓 (а)  による[la jouissance…par ce reste : (а)  ](ラカン, S10, 13 Mars 1963)

対象aはリビドーの固着点に現れる[petit(a) …apparaît que les points de fixation de la libido ](Lacan, S10, 26 Juin 1963)


リビドー固着という残滓、これがリアルな対象aであり、現実界の享楽であり、異者である。

リビドーとはもちろんラカンの享楽であり、リビドーの固着とは享楽の固着だ。


無意識の最もリアルな対象a、それが享楽の固着である[ce qui a (l'objet petit a) de plus réel de l'inconscient, c'est une fixation de jouissance.](J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique, 26/2/97)

残滓…現実界のなかの異者概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[reste…une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ](J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)


ラカンはこのリアルな対象aを穴だとも言った。


対象aは穴である[l'objet(a), c'est le trou ](Lacan, S16, 27 Novembre 1968)


この穴が「享楽=欲動の現実界=リビドー」であり現実界のトラウマである。


享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない[la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970)

現実界は穴=トラウマを為す[le Réel …fait « troumatisme ».](ラカン, S21, 19 Février 1974)

欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel …je réduis à la fonction du trou](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)


ラカンは穴は原抑圧のなかにあると言っている。


リビドーは、その名が示すように、穴に関与せざるをいられない La libido, comme son nom l'indique, ne peut être que participant du trou〔・・・〕そして私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。et c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même. (Lacan, S23, 09 Décembre 1975)


原抑圧は先に見たように事実上、固着である。すなわちリビドー固着という残滓=モノ=異者が穴(トラウマ)である。フロイトにおいて自我に同化されない残滓がトラウマである。そしてこれは最初期のフロイトの異者身体の定義である。


トラウマないしはトラウマの記憶は、異者身体[Fremdkörper] )のように作用する[das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt](フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)


確認しよう。享楽は現実界にあり、トラウマである。


享楽は現実界にある[la jouissance c'est du Réel. ](Lacan, S23, 10 Février 1976)

問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっている[le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. ](Lacan, S23, 13 Avril 1976)


享楽=現実界=トラウマであり、これがフロイトの異者=モノに他ならない。


先に見たようにフロイトは異者はエスだと明示している。つまりラカンの現実界の享楽はエスである。


フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel ](ラカン, S23, 13 Avril 1976)

フロイトはモノを異者とも呼んだ[das Ding…ce que Freud appelle Fremde – étranger. ](J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 26/04/2006)

フロイトのモノ、これが後にラカンにとって享楽となる[das Ding –, qui sera plus tard pour lui la jouissance]。…フロイトのエス、欲動の無意識。事実上、この享楽がモノである。[ça freudien, l'inconscient de la pulsion. En fait, cette jouissance, la Chose](J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)



…………………




さてここで冒頭近くに示した自我分裂に戻ろう。フロイトは自我分裂を自我とエスの分裂だと示していた。

この自我分裂に介入するのが超自我である。


心的装置の一般的図式は、心理学的に人間と同様の高等動物にもまた適用されうる。超自我は、人間のように幼児の依存の長引いた期間を持てばどこにでも想定されうる。そこでは自我とエスの分離が避けがたく想定される。Dies allgemeine Schema eines psychischen Apparates wird man auch für die höheren, dem Menschen seelisch ähnlichen Tiere gelten lassen. Ein Überich ist überall dort anzunehmen, wo es wie beim Menschen eine längere Zeit kindlicher Abhängigkeit gegeben hat. Eine Scheidung von Ich und Es ist unvermeidlich anzunehmen. (フロイト『精神分析概説』第1章、1939年)



超自我はエスと自我を分離させる審級なのである。ここで注意しなければならないのは、フロイトには超自我と自我理想概念があり、この二つの概念は区別されないまま捉えられてきた。例えばドゥルーズはこの両者を等置しており、日本でも柄谷行人や中井久夫でさえ区別していない。だが超自我と自我理想(ラカンの父の名)は厳密に区別されなければならない。超自我は幼児の最初の世話役である母にかかわり、自我理想(父の名)は成人言語の世界に入場することによる言語の使用にかかわるのである[参照]。

そしてフロイトの原抑圧概念、これまた現在にいたるまで大きな誤解があるが、これは超自我と等置されうる概念なのである。


既にジャック=アラン・ミレールはラカンからセミネールを引き継いだ最初期に超自我と原抑圧を等置している。


超自我と原抑圧を等置するのは慣例ではないように見える。だが私はそう主張する。私は断固としてそう言い、署名する。Ca ne paraît pas habituel que le surmoi et le refoulement originaire puissent être rapprochés, mais je le maintiens. Je persiste et je signe.〔・・・〕


あなたがたは盲目的でさえ見ることができる、超自我は原抑圧と合致しうしるのを。実際、古典的なフロイトの超自我は、エディプスコンプレクスの失墜においてのみ現れる。それゆえ超自我と原抑圧との一致がある。Vous voyez bien que, même à l'aveugle, on est conduit à rapprocher le surmoi du refoulement originaire. En effet, le surmoi freudien classique n'émerge qu'au déclin du complexe d'OEdipe, et il y a donc une solidarité du surmoi et du refoulement originaire.   (J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 FEVRIER 1982)



事実、原抑圧も超自我もフロイトの思考においてどちらも固着なのである。


抑圧の第一段階ーー原抑圧された欲動ーーは、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, (primär verdrängten Triebe) dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ](フロイト『症例シュレーバー 』1911年、摘要)

超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着される[Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert](フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)


固着概念を通してフロイトの多くの概念は整理される。ここで触れたのは、モノ、異者、トラウマ、エス、原抑圧、超自我であり、これがラカンの現実界、享楽、リアルな対象aである。


分析経験の基盤、それは厳密にフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである[fondée dans l'expérience analytique, […]précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)


ラカン晩年の現実界の症状としてのサントーム概念自体、フロイトのモノ(異者)であり、固着なのである。


ラカンがサントームと呼んだものは、ラカンがかつてモノと呼んだものの名、フロイトのモノの名である[Ce que Lacan appellera le sinthome, c'est le nom de ce qu'il appelait jadis la Chose, das Ding, ou encore, en termes freudiens]。ラカンはこのモノをサントームと呼んだのである。サントームはエスの形象である[ce qu'il appelle le sinthome, c'est une figure du ça ] (J.-A.MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 4 mars 2009)

サントームは固着である[Le sinthome est la fixation]. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011、摘要



この前提で次の図を示しておこう。





固着概念は、身体的要素と表象的要素の両方を含んでいる[the concept of "fixation" … it contains both a somatic and a representational element](ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年)


上図の自我とエスの境界が表象的要素、身体的要素がエスに置き残されたリビドー固着の残滓=異者身体である。原抑圧としての固着とは表象プラスエス、これが欲動である。


(原)抑圧は、過度に強い対立表象の構築によってではなく、境界表象 [Grenzvorstellung ]の強化によって起こる。Die Verdrängung geschieht nicht durch Bildung einer überstarken Gegenvorstellung, sondern durch Verstärkung einer Grenzvorstellung (Freud Brief Fließ, 1. Januar 1896)

欲動は、心的なものと身体的なものとの「境界概念」である[der »Trieb« als ein Grenzbegriff zwischen Seelischem und Somatischem](フロイト『欲動および欲動の運命』1915年)

享楽に固有の空胞、穴の配置は、欲動における境界構造と私が呼ぶものにある[configuration de vacuole, de trou propre à la jouissance…à ce que j'appelle dans la pulsion une structure de bord.  ] (Lacan, S16, 12 Mars 1969)



上のような表現の仕方は一見難解だが、よりわかりやすくは事故的トラウマを想起すればよい。トラウマに遭遇すれば、人はその出来事の表象に固着して反復強迫する。なぜ反復するのか。この反復は固着表象と同時にエスに置き残された異者身体の所為である。


……………………


さて最後に冒頭近くに示したジャック=アラン・ミレールの文に戻る。


主体にはシニフィアンの主体と享楽の主体がある[sujet qui est le sujet du signifiant et le sujet de la jouissance.](J.-A. MILLER, CE QUI FAIT INSIGNE, 11 MARS 1987)



ここまで示してきたように享楽とは境界表象の相がある。もし固着としての境界表象の相を前面に出せば、超自我=固着ゆえに、享楽の主体(欲動の主体)とは超自我である。


超自我は斜線を引かれた主体と書きうる[le surmoi peut s'écrire $] (J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 FEVRIER 1982)

超自我の真の価値は欲動の主体である[la vraie valeur du surmoi, c'est d'être le sujet de la pulsion. ](J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS, 17 MAI 1989)



とはいえ、享楽は事実上、エスに置き残されたモノ=異者であり、つまりはエスである。したがって享楽の主体とはエスである。


私はこの数年、1980年代にジャック=アラン・ミレールの言っていることと1990年代以降に言っていることとのあいだに微妙な差異があると感じてきたのだが、これは固着概念の両義性ゆえである。固着は表象かつエスなのである。


例えば、1980年代には、上のように超自我が$であり、欲動の主体だと言い、2000年代には、享楽ーー享楽はもともと斜線を引かれている、これがトラウマ(穴);の意味であるーー、この享楽が$だと言っている。


穴は斜線を引かれた主体と等価である[Ⱥ ≡ $]

A barré est équivalent à sujet barré. [Ⱥ ≡ $](J.-A. MILLER, -désenchantement- 20/03/2002)

私は斜線を引かれた享楽を斜線を引かれた主体と等価とする[(- J) ≡ $]

le « J » majuscule du mot « Jouissance », le prélever pour l'inscrire et le barrer …- équivalente à celle du sujet :(- J) ≡ $  (J.-A. MILLER, Tout le monde est fou, 04/06/2008)


欲動は享楽でありーー《欲動は、ラカンが享楽の名を与えたものである[pulsions …à quoi Lacan a donné le nom de jouissance.]》(J. -A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011)ーー、エスなのだから、一方で欲動は超自我といい、他方で欲動はエスだと言っていることになる。だがこの一見した矛盾は、固着概念が超自我とエスにまたがるせいなのである。


さて他方、シニフィアンの主体とは何か。ここでのシニフィアンは言語であり、大他者である。


大他者とは父の名の効果としての言語自体である [grand A…c'est que le langage comme tel a l'effet du Nom-du-père.](J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 14/1/98)


したがってシニフィアンの主体は言語の主体である。


ジャック=アラン・ミレールはフロイトの自我とラカンの大他者(言語)を結びつけている。


フロイトの自我と快原理、そしてラカンの大他者のあいだには結びつきがある[il y a une connexion entre le moi freudien, le principe du plaisir et le grand Autre lacanien] (J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 17/12/97)


ここでの大他者とは象徴界の審級にあり、言語なのである。


象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage](Lacan, S25, 10 Janvier 1978)


もっともラカンは自我を想像界、言語を象徴界としたということはある。


想像界、自我はその形式のひとつだが、象徴界の機能によって構造化されている[la imaginaire …dont le moi est une des formes…  et structuré :… cette fonction symbolique](Lacan, S2, 29 Juin 1955)

想像界は確かに象徴界の影響の外部に居残ったままだが、他方、ラカンは常に付け加えた、この想像界は同時に象徴界によって常に支配されていると[l'imaginaire est bien ce qui reste en dehors de la prise du symbolique, tandis que, par un autre côté, Lacan ajoute toujours que cet imaginaire est en même temps dominé par le symbolique.] (J.-A. Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)


ジャック=アラン・ミレールが自我と大他者(言語)を結びつけているのはこの意味である。イマジネールな自我がシンボリックな言語に支配されていないわけがない。したがってシニフィアンの主体とはフロイトの自我と結びつけうる。

こうしてフロイトが自我分裂[Ichspaltung」を自我とエス[Ich und Es]の分裂だと示したことは、シニフィアンの主体と享楽の主体の分裂との相同的であることが把握しうる。