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2022年1月28日金曜日

フェミニズム宗教との闘争


何度か掲げているが、米国ポリコレ文化内の爆弾女カミール・パーリアはフェミニストのイデオロギーは新しい宗教のようなものだと言っている。


フェミニズムは死んだ。運動は完全に死んでいる。女性解放運動は反対者の声を制圧しようとする道をあまりにも遠くまで進んだ。異をとなえる者を受け入れる余地はまったくない。まさに意地悪女のようだ。〔・・・〕フェミニストのイデオロギーは、数多くの神経症女の新しい宗教のようなものだ。Feminism is dead. The movement is absolutely dead. The women’s movement tried to suppress dissident voices for way too long. There’s no room for dissent. It’s just like Mean Girls.  〔・・・〕Feminist ideology is like a new religion for a lot of neurotic women. (カミール・パーリア Camille Paglia on Rob Ford, Rihanna and rape culture, November 16, 2013


フェミニズムとは本来、家父長制という支配的イデオロギーと闘うことから始まったのだから、現在あるべき真のフェミニストは、フェミニズムという支配的イデオロギーと闘うことだ。これがパーリアの立場だ。


パーリアの言っている「フェミニズムは宗教」とは、ノーベル文学賞作家ドリス・レッシング ーーかつての英国フェミニズム運動のアイコンーーが2001年に既に言っている。


男たちはセックス戦争において新しい静かな犠牲者だ。彼らは、抗議の泣き言を洩らすこともできず、「継続的に、女たちに貶められ、侮辱されている」。[men were the new silent victims in the sex war, "continually demeaned and insulted" by women without a whimper of protest.]〔・・・〕


フェミニズムは批判できない宗教の一種になっている。もし批判したら大義への裏切り者になる。[It (feminism) has become a kind of religion that you can't criticise because then you become a traitor to the great cause] (ドリス・レッシング Doris Lessing, Lay off men, Lessing tells feminists, The Guardian, 14 Aug 2001


レッシングはこういう思考の下、フェミニズム運動から距離を置いた。これこそ「知性」というものだ。


で、きみはどう思うんだい?


フェミニズムは宗教だという前提でボクは書いてんだが。


少なくともフェミニズムは現在の支配的イデオロギーには間違いないんじゃないかい?


現在の状況のもとでとくに大切なことは、支配的イデオロギーと支配しているかに見えるイデオロギーとを混同しないように[not to confuse the ruling ideology with ideology which seems to dominate]特に注意することだ。 (ジジェク『迫り来る革命 レーニンを繰り返す』2002年)



現在、欧米の先進諸国では家父長制なんかゼンゼン支配してないよ。もっとも欧米では一神教の残滓があるから、日本よりはいくらか家父長的だが。


一神教とは神の教えが一つというだけではない。言語による経典が絶対の世界である。そこが多神教やアニミズムと違う。(中井久夫『私の日本語雑記』2010年)



そもそも日本は昔から家父長制ではない。戦前の半世紀ほどのあいだに擬似一神教という天皇制が前面に出ただけだ。家父長制は基本的に一神教イデオロギー国家のものだ。


これは昔から浅田や柄谷が言ってきたことだ。


公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。(浅田彰「むずかしい批評」1988年)


次の柄谷もこの浅田の思考と同じこと。


思想史が権力と同型であるならば、日本の権力は日本の思想史と同型である。日本には、中心があって全体を統い御するような権力が成立したことがなかった。〔・・・〕あらゆる意志決定(構築)は、「いつのまにかそう成る」(生成)というかたちをとる。〔・・・〕日本において、権力の中心はつねに空虚である。だが、それも権力であり、もしかすると、権力の本質である。〔・・・〕


見かけの統合はなされているが、それは実は空虚な形式である。私は、こうした背景に、母系制(厳密には双系制)的なものの残存を見たいと思っている。それは、大陸的な父権的制度と思考を受け入れながらそれを「排除」するという姿勢の反復である。


日本における「権力」は、圧倒的な家父長的権力のモデルにもとづく「権力の表象」からは理解できない。(柄谷行人「フーコーと日本」1992年 )


現象面から捉えてーー日本は企業や政治中枢、学問界は確かに男性社会だなーー、この現象面だけを捉えて家父長制打倒なんて言ったらダメなんだよ。前回示したように父の名とは言語の法だ。つまりタテマエだ。タテマエを守るのが家父長制でありファルスだ。他方、ホンネで行くのが、あるいは人々のあいだの共感でいくのが、女性原理の社会だ。


日本は女性原理の社会だから男女同権というタテマエをいつまでも守らない。これは逆説的にきこえるかもしれないが、少しでもマトモに考えたら間違いなくこうなんだよ。


柄谷行人)夏目漱石が、『三四郎』のなかで、現在の日本人は偽善を嫌うあまりに露悪趣味に向かっている、と言っている。これは今でも当てはまると思う。


むしろ偽善が必要なんです。たしかに、人権なんて言っている連中は偽善に決まっている。ただ、その偽善を徹底すればそれなりの効果をもつわけで、すなわちそれは理念が統整的に働いているということになるでしょう。


浅田彰)善をめざすことをやめた情けない姿をみんなで共有しあって安心する。日本にはそういう露悪趣味的な共同体のつくり方が伝統的にあり、たぶんそれはマス・メディアによって煽られ強力に再構築されていると思います。〔・・・〕


日本人はホンネとタテマエの二重構造だと言うけれども、実際のところは二重ではない。タテマエはすぐ捨てられるんだから、ほとんどホンネ一重構造なんです。逆に、世界的には実は二重構造で偽善的にやっている。それが歴史のなかで言葉をもって行動するということでしょう。(『「歴史の終わり」と世紀末の世界』1994年)



別の言い方をすれば、根回し、空気を読む社会とは家父長制社会じゃまったくない。


一般に、日本社会では、公開の議論ではなく、事前の「根回し」によって決まる。人々は「世間」の動向を気にし、「空気」を読みながら行動する。(柄谷行人「キム・ウチャン(金禹昌)教授との対話に向けて」2013年)



こういった核心をはずしているフェミニズム宗教に対して、まだ一部の人間だけだが、闘争を始めているのはアタリマエだろ?