このブログを検索

2022年6月12日日曜日

父なき時代における母なる超自我の命令「破壊せよ!」

 

まず中井久夫の三文を挙げよう。


かつては、父は社会的規範を代表する「超自我」であったとされた。しかし、それは一神教の世界のことではなかったか。江戸時代から、日本の父は超自我ではなかったと私は思う。(中井久夫「母子の時間 父子の時間」2003年 『時のしずく』所収)

一神教とは神の教えが一つというだけではない。言語による経典が絶対の世界である。そこが多神教やアニミズムと違う。(中井久夫『私の日本語雑記』2010年)

アニミズムは日本人一般の身体に染みついているらしい。(中井久夫「日本人の宗教」1985年『記憶の肖像』所収)


この三文をまとめていえば、「言語による経典が絶対の、社会的規範を代表する父なる超自我は日本にはない」となる。


この「超自我」とはラカンの父の名である。


父の名のなかに、我々は象徴的機能の支えを認めねばならない。歴史の夜明け以来、父という人物と法の形象とを等価としてきたのだから。C’est dans le nom du père qu’il nous faut reconnaître le support de la fonction symbolique qui, depuis l’orée des temps historiques, identifie sa personne à la figure de la loi. (ラカン, ローマ講演, E278, 27 SEPTEMBRE 1953 )


象徴的機能とあるが、言語の機能のことである。


象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage](Lacan, S25, 10 Janvier 1978)


したがって父の名とは事実上、言語あるいは言語の法のことである。


言語は父の名である[C'est le langage qui est le Nom-du-Père]( J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique,cours 4 -11/12/96)

父の名は象徴界にあり、現実界にはない[le Nom du père est dans le symbolique, il n'est pas dans le réel]( J.-A. MILLER, - Pièces détachées - 23/03/2005)


冒頭に掲げた中井久夫に従って言えば、「日本には父の名はない、一神教国ではないのだから」ーーとなる。

ラカンは父の名のことを「父なる超自我」とも呼んだ。


「エディプスなき神経症概念」……私はそれを母なる超自我と呼ぶ。…問いがある。父なる超自我の背後にこの母なる超自我がないだろうか? 神経症においての父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。

Cette notion de la névrose sans Œdipe,[…] ce qu'on a appellé le surmoi maternel :   […]- on posait la question : est-ce qu'il n'y a pas, derrière le sur-moi paternel, ce surmoi maternel encore plus exigeant, encore plus opprimant, encore plus ravageant, encore plus insistant, dans la névrose, que le surmoi paternel ?    (Lacan, S5, 15 Janvier 1958)


前エディプス的風土の日本には父なる超自我はない。だが母なる超自我はある。


もっとも世界的にエディプス的父の失墜がある。

ラカンは学園紛争を契機に次のように言った。


父の蒸発 [évaporation du père] (ラカン「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)

エディプスの失墜において…超自我は言う、「享楽せよ!」と。[au déclin de l'Œdipe …ce que dit le surmoi, c'est : « Jouis ! » ](ラカン, S18, 16 Juin 1971)


ここでの超自我は母なる超自我である。エディプス的父の失墜において、母なる超自我は享楽せよと命令するのである。


とはいえ欧米一神教文化においては、日本に比べれば、いまだ父なる超自我の残存がいくらかはある。だが日本はもともと母なる超自我の国であり、かつては欧米文化をわずかばかり学んだ社会的規範は、この世界的父なき時代においていっそう影が薄くなってしまったということが言いうる(ラカンの日本文化論においては、日本は父の名の代わりとして、かつては《礼儀作法の法[lois de la politesse]》(参照が機能していた)。


「学園紛争は何であったか」ということは精神科医の間でひそかに論じられつづけてきた。1960年代から70年代にかけて、世界同時的に起こったということが、もっとも説明を要する点であった。フランス、アメリカ、日本、中国という、別個の社会において起こったのである。〔・・・〕

精神分析医の多くは、鍵は「父」という言葉だと答えるだろう。〔・・・〕「父」は見えなくなった。フーコーのいう「主体の消滅」、ラカンにおける「父の名」「ファルス」の虚偽性が特にこの世代の共感を生んだのは偶然でなかろう。(中井久夫「学園紛争は何であったのか」1995年『家族の深淵』所収)


ところで母なる超自我による「享楽せよ!」という命令とは具体的には何か。

享楽自体はマゾヒズムのことである。


享楽は現実界にある。現実界の享楽は、マゾヒズムによって構成されている。…マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。フロイトはそれを発見したのである[la jouissance c'est du Réel.  …Jouissance du réel comporte le masochisme, …Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il l'a découvert,] (Lacan, S23, 10 Février 1976)



フロイトにおけるマゾヒズムとは「自己破壊欲動=死の欲動」である。


マゾヒズムはその目標として自己破壊をもっている。〔・・・〕そしてマゾヒズムはサディズムより古い。サディズムは外部に向けられた破壊欲動であり、攻撃性の特徴をもつ。或る量の原破壊欲動は内部に残存したままでありうる。

Masochismus …für die Existenz einer Strebung, welche die Selbstzerstörung zum Ziel hat. …daß der Masochismus älter ist als der Sadismus, der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstrieb, der damit den Charakter der Aggression erwirbt. Soundsoviel vom ursprünglichen Destruktionstrieb mag noch im Inneren verbleiben; 〔・・・〕

我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊傾向から逃れるために、他の物や他者を破壊する必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい開示だろうか!

es sieht wirklich so aus, als müßten wir anderes und andere zerstören, um uns nicht selbst zu zerstören, um uns vor der Tendenz zur Selbstdestruktion zu bewahren. Gewiß eine traurige Eröffnung für den Ethiker! 〔・・・〕

我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない。

Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)


人は通常、「享楽せよ=自己破壊せよ」という命令に従うわけにはいかない。そこから逃れるために他者破壊へ向かう。これが最もありうる享楽の命令の姿である。


父の失墜の時代は事実上、他者破壊の時代なのである。実際ラカンは1970年前後から数度、《レイシズム勃興の予言 prophétiser la montée du racisme》(Lacan, AE534, 1973)をしている。


われわれの父なき世代は、母なる超自我による破壊せよの命令に突き動かされている。

私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性とは時に紙一重である、それは、天秤の左右の皿かもしれない。〔・・・〕私たちは、自分たちの中の破壊性を何とか手なずけなければならない。かつては、そのために多くの社会的捌け口があった。今、その相当部分はインターネットの書き込みに集中しているのではないだろうか。(中井久夫「「踏み越え」について」2003年初出『徴候・記憶・外傷』所収)


もともとエディプス的父の名(父なる超自我)は前エディプス的母の名(母なる超自我)の隠喩に過ぎない。


われわれが父の名による隠喩作用を支える瞬間から、母の名は原享楽を表象するようになる[à partir du moment où on fait supporter cette opération de métaphore par le Nom-du-Père, alors c'est le nom de la mère qui vient représenter la jouissance primordial](J.-A. Miller, CAUSE ET CONSENTEMENT, 23 mars 1988)

家父長制とファルス中心主義は、原初の全能的母権制(家母制)の青白い反影にすぎない[the patriarchal system and phallocentrism are merely pale reflections of an originally omnipotent matriarchal system] (PAUL VERHAEGHE, Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE, 1998)


この父の名の上覆いが消滅して、根にあった母の名、つまり母なる原超自我が露出してしまった時代をわれわれは生きている。「破壊せよ」の時代。この今もそれが赤裸々に顕れている。国際秩序などはどこにもない。