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2022年6月11日土曜日

ハイデガーの実存=外立[Ek-sistenz]とラカンの外立[Ex-sistence]

 ◼️ハイデガーの実存=外立[Ek-sistenz]

ハイデガーによれば、人間存在とは実存であり、「実存」という語は語源的 に「外に-立つこと(ex-sistence)」として解されうる。換言すれば、ハイデガーの見解では、人間存在は、実存的な(外に立ってある )もの、つまり、 その実存のあり方が正に外に立つ脱自(ecstacy)であるような存在者である。(ビジャン・アブドルカリミーBijan Abdolkarim「ハイデガーに触発されたアンリ・コルバンの洞察」PDF


かくして、人間の人間らしさを外立(外に立つ)として決定付けるとき、本質的な事は人間ではなく、外立という脱自の相としての実存である。So kommt es denn bei der Bestimmung der Menschlichkeit des Menschen als der Ek-sistenz darauf an, daß nicht der Mensch das Wesentliche ist, sondern das Sein als die Dimension des Ekstatischen der Ek-sistenz. (ハイデガー「ヒューマニズム書簡」Heidegger: Brief über den Humanismus, 1947)


※後期ハイデガー用語において、外立[Ek-sistenz]=実存[Da-sein]=脱自[Außer-sich (das ἐκστατικόν)]でもある。


疑いもなく、ハイデガーの実存においてこの(デカルト的な)肉体は抹消されている。[Cette chair est sans doute gommée dans le Dasein heideggérien](J.-A. Miller, L’inconscient et le corps parlant, 2014)



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 ◼️デカルトの身体とラカンの現実界


恰も水夫が船のなかにゐる如く私が單に私の身體のなかにゐるのみでなく、かへつて私がこの身體と極めて密接に結合せられ、そしていはば混合せられてゐて、かくてこれと或る一體を成してゐる。

je ne suis pas seulement logé dans mon corps, ainsi qu’un pilote en son navire, mais outre cela que je lui suis conjoint très étroitement, et tellement confondu et mêlé, que je compose comme un seul tout avec lui. (デカルト『省察Méditation』第六省察、三木清訳)


私は私の身体で話している。私は知らないままでそうしている。だから私は、私が知っていること以上のことを常に言う[Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. ](Lacan, S20, 15 Mai 1973)

現実界、それは話す身体の神秘、無意識の神秘である[Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient](Lacan, S20, 15 mai 1973)



ラカンはハイデガー起源の外立(外に立つ)用語を使って現実界を定義した。


現実界の外立[l'ex-sistence du Réel](Lacan, S22, 11 Mars 1975 )


だがハイデガーの実存[Ek-sistenz]とは異なり、ラカンの現実界(実存)は身体である。

現実界は穴=トラウマをなす[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)

外立自体は穴をなすこととして定義される[L'ex-sistence comme telle se définit,…- fait trou.](Lacan, S22, 17 Décembre 1974)

身体は穴である[(le) corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)


ラカンが身体=穴(トラウマ)と言ったとき、フロイトの異者身体(参照)を指している。


トラウマないしはトラウマの記憶は、異者身体[Fremdkörper] )のように作用する。[das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt](フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)




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◼️ニーチェの実存=不気味なもの=意味なき沈黙

不気味なものは人間の実存[Dasein]であり、それは意味もたず黙っている[Unheimlich ist das menschliche Dasein und immer noch ohne Sinn ](ニーチェ『ツァラトゥストラ 』第1部「序説」1883年)


※ラカンの現実界の享楽=意味の排除

現実界は意味の追放である[Le Réel, c'est l'expulsé du sens,](Lacan, S22, 11 Mars 1975)

現実界の位置は、私の用語では、意味を排除することだ。[L'orientation du Réel, dans mon ternaire à moi, forclot le sens. ](Lacan, S23, 16 Mars 1976)

意味の排除の不透明な享楽[Jouissance opaque d'exclure le sens ](Lacan,  “Joyce le Symptôme”, AE 569、1975)

ーー《享楽は現実界にある…現実界の享楽である[la jouissance c'est du Réel.  …Jouissance du réel]》 (Lacan, S23, 10 Février 1976)


◼️ラカンにおける現実界=異者=不気味なもの

フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel ](ラカン, S23, 13 Avril 1976)

モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger] (Lacan, S7, 09  Décembre  1959)

異者がいる。…異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich] (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)



※フロイトの不気味なものは「外にある家(外に放り投げられた家)」を意味する。


以上、ラカンの現実界はハイデガーの実存とは基本的には異なり、むしろデカルトの身体、あるいはニーチェ=フロイトの「不気味なもの」に近似する。もっともハイデガーを読み込めば、ハイデガーの実存には身体に関わる相があるという立場もあるかもしれないが、それについては不詳。


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★付記

ラカンはフロイトのモノを「外密」とも言ったが、先に見たように、モノ=現実界=異者=不気味なもの=外立であり、外密[Extimité]=外立[Ex-sistence]である。


私の最も内にある親密な外部、モノとしての外密[extériorité intime, cette extimité qui est la Chose](ラカン, S7, 03 Février 1960)


おそらくセミネールⅦ「精神分析の倫理」を振り返る必要がある。ラカンはそこではまだ多くの不明瞭さを残している。我々はフロイトの用語「モノdas Ding」に還らなければならない。〔・・・〕ラカンはフロイトの「心理学草案」の一節からこのモノを強調した。そして疑いもなく、ラカンはハイデガーのブレーメン講演(1949)のタイトル「物」 (Das Ding) に導かれた。〔・・・〕このモノは二つの語にて接近できる。モノをフロイトは異者とも呼んだのである[das Ding…ce que Freud appelle Fremde – étranger. ](J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 26/04/2006)

ラカンは外密[extimité]という語をフロイトとラカンが共通して使ったドイツ語のモノ[das Ding]から導き出した。Lacan a tiré le mot d'extimité, c'est ce qu'il a appelé d'un terme allemand où trouvaient à se croiser Freud et Heidegger, à savoir das Ding, la Chose〔・・・〕

外密という語は、親密という語から作られている。外密は親密の反対ではない。それは最も親密なものでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部にある。外密は、異者としての身体[corps étranger]のモデルである。Ce terme d'extimité est construit sur celui d'intimité. Ce n'est pas le contraire car l'extime c'est bien l'intime. C'est même le plus intime. Intimus, c'est déjà, en latin, un superlatif . C'est le plus intime, mais ce que dit ce mot, c'est que le plus intime est à l'extérieur. Il est du type, du modèle corps étranger.〔・・・〕

外密はフロイトが不気味なものの事例で取り上げたものである[l'extime…comme Freud en avait pris exemple dans l'Unheimlich.](J.-A. MILLER, Extimité, 13 novembre 1985)


フロイトは不気味なものについて例えば次のように言った(より詳しくは「不気味なものの永遠回帰」)。

不気味なものは、ある種の親密なものである[Unheimlich ist irgendwie eine Art von heimlich.](『フロイト『不気味なもの』第1章、1919年)

不気味ななかの親密さ[heimisch im Unheimlichen](フロイト『ある幻想の未来』第3章、1927年)


この定義は、ニーチェの次の文に相当する。


未来におけるすべての不気味なもの、また過去において鳥たちをおどして飛び去らせた一切のものも、おまえたちの「現実」にくらべれば、まだしも親密さを感じさせる[Alles Unheimliche der Zukunft, und was je verflogenen Vögeln Schauder machte, ist wahrlich heimlicher noch und traulicher als eure "Wirklichkeit". ](ニーチェ『ツァラトゥストラ 』第2部「教養の国」1884年)