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2022年7月27日水曜日

私たちの意識はすべて解釈されている

 


私たちが意識するすべてのものは、徹頭徹尾、まず調整され、単純化され、図式化され、解釈されている[alles, was uns bewußt wird, ist durch und durch erst zurechtgemacht, vereinfacht, schematisirt, ausgelegt](ニーチェ『力への意志』11[113] (358) )


そうか、このニーチェの一見何気ない文を1980年代の柄谷は二度も引用してるんだな。

《主観が主観に関して直接問いたずねること、また精神のあらゆる自己反省は危険なことである》と、ニーチェは言っている。《それゆえ私たちは身体に問いたずねる》。このようにいうとき、彼は、意識への問い、すなわち内省からはじまった「哲学」がすでに一つの決定的な隠蔽の下にあることを告げている。《私たちが意識するすべてのものは、徹頭徹尾、まず調整され、単純化され、図式化され、解釈されている》。意識に直接問いたずねるということにおける現前性・明証性こそ、「哲学」の盲目性を不可避的にする。だが、ニーチェは同時に「意識に直接問わない」ような方法をも斥けていることに注意すべきである。たとえば、彼が「身体と生理学とに出発点をとること」を提唱するとしても、それは意識を意識にとって外的な事実から説明するということではない。というのは、そうした外的・客観的な事実は意識の原因ではなくて結果であり、すでに「意識」にからめとられてしまっているからだ。意識に直接問わないで身体に問うということは、意識に直接問いながら且つそのことの「危険」からたえまなく迂回しつづけるということにほかならない。(柄谷行人『内省と遡行』1985年)


パプチンは、近代の哲学・言語学・心理学・文学などは、すべてモノローグ的であり、単一体系性のなかに閉ざされているといっている。それに対して、彼は、ポリフォニックな、多数体系性を対置する。個人の意識に問いただすかぎり、われわれが見出すのは、きまって単一(均衡)体系である。ニーチェがいうように、「私たちが意識するすべてのものは、徹頭徹尾、まず調整され、単純化され、図式化され、解釈されている」(『権力の意志』)からだ。しかし、多数(不均衡)体系を、たんにそれに対置するだけでは、何もいったことにならない。(柄谷行人『探求1』1986年)



いやあ、とっても「いい」解釈だね、こっからカントのパララックス(視差)に向かったんだろうな。



以前に私は一般的人間理解を単に私の悟性 Verstand の立場から考察した。今私は自分を自分のでない外的な理性 äußeren Vernunft の位置において、自分の判断をその最もひそかなる動機もろとも、他人の視点 Gesichtspunkte anderer から考察する。両方の考察の比較はたしかに強い視差 starke Parallaxen (パララックス)を生じはするが、それは光学的欺瞞 optischen Betrug を避けて、諸概念を、それらが人間性の認識能力に関して立っている真の位置におくための、唯一の手段でもある。(カント『視霊者の夢Träume eines Geistersehers』1766年)


ーー《柄谷の画期的成功は、…パララックスな読みかたをマルクスに適用したこと、マルクスその人をカント主義者として読んだことにある。》(ジジェク『パララックスヴュー』2006年)


重要なのは、〔・・・〕マルクスがたえず移動し転回しながら、それぞれのシステムにおける支配的な言説を「外の足場から」批判していることである。しかし、そのような「外の足場」は何か実体的にあるのではない。彼が立っているのは、言説の差異でありその「間」であって、それはむしろいかなる足場をも無効化するのである。重要なのは、観念論に対しては歴史的受動性を強調し、経験論に対しては現実を構成するカテゴリーの自律的な力を強調する、このマルクスの「批判」のフットワークである。基本的に、マルクスはジャーナリスティックな批評家である。このスタンスの機敏な移動を欠けば、マルクスのどんな考えをもってこようがーー彼の言葉は文脈によって逆になっている場合が多いから、どうとでもいえるーーだめなのだ。マルクスに一つの原理(ドクトリン)を求めようとすることはまちがっている。マルクスの思想はこうした絶え間ない移動と転回なしの存在しない。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)

思想は実生活を越えた何かであるという考えは、合理論である。思想は実生活に由来するという考えは、経験論である。その場合、カントは、 合理論がドミナントであるとき経験論からそれを批判し、経験論がドミナントであるとき合理論からそれを批判した。(柄谷行人「丸山真男とアソシエーショニズム 」2006年)



とはいえ冒頭の『内省と遡行』の文はいくらかイチャモンつけたいところがあるんだが、ーー「身体」と「原因と結果」のとこだね、ーー、柄谷はスピノザ由来のしばしば原因は結果によって遡及的に構成されている》(『トランスクリティーク』2001年)ってのは常に連発してきたんだな。身体ってのは言語秩序から見れば遠近法的に、時に原因、時に結果でありうるけど、身体側(力への意志としての欲動の身体)から見れば、すべての原因じゃないのかね。



これまで全ての心理学は、道徳的偏見と恐怖に囚われていた。心理学は敢えて深淵に踏み込まなかったのである。生物的形態学と力への意志[Willens zur Macht]の展開の教義としての心理学を把握すること。それが私の為したことである。誰もかつてこれに近づかず、思慮外でさえあったことを。〔・・・〕

心理学者は少なくとも要求せねばならない。心理学をふたたび「諸科学の女王」として承認することを[die Psychologie wieder als Herrin der Wissenschaften anerkannt werde]。残りの人間学は、心理学の下僕であり心理学を準備するためにある。なぜなら,心理学はいまやあらためて根本的諸問題への道だからである。(ニーチェ『善悪の彼岸』第23番、1886年)



どうもそう読めるな、ボクの偏見に満ちた脳髄だと。


力への意志は、原情動形式であり、その他の情動は単にその発現形態である[Daß der Wille zur Macht die primitive Affekt-Form ist, daß alle anderen Affekte nur seine Ausgestaltungen sind: ]…すべての欲動の力[ alle treibende Kraft]は力への意志であり、それ以外にどんな身体的力、力動的力、心的力もない[Daß alle treibende Kraft Wille zur Macht ist, das es keine physische, dynamische oder psychische Kraft außerdem giebt](ニーチェ「力への意志」遺稿 Anfang 1888)

私は、ギリシャ人たちの最も強い本能、力への意志[stärksten Instinkt, den Willen zur Macht]を見てとり、彼らがこの「欲動の飼い馴らされていない暴力 [unbändigen Gewalt dieses Triebs]に戦慄するのを見てとった。ーー私は彼らのあらゆる制度が、彼らの内部にある爆発物に対して互いに身の安全を護るための保護手段から生じたものであることを見てとった。.(ニーチェ「私が古人に負うところのもの」第3節『偶然の黄昏』所収、1888)



いやあよくないよ、ラカンなんかいくらか読んだせいで、柄谷の書が再読しづらくなってしまって。


われわれが現実界という語を使うとき、この語の十全な固有の特徴は「現実界は原因である」となる[quand on se sert du mot réel, le trait distinctif de l'adéquation du mot : le réel est cause. ](J.-A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 26/1/2011)

欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel … je réduis à la fonction du trou.](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

身体は穴である[(le) corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)


冒頭のニーチェは、素直に《解釈する視線は解釈される風景による解釈をすでに蒙った解釈される視線でしかない》(蓮實重彦「風景を超えて」『表層批評宣言』所収、1979年)って読んどけば当面いいんじゃないかね。蓮實のこの「風景」は、制度とか物語、イデオロギー、あるいはパラダイム等々と代替しうる語(参照)。


ニーチェはさらに進んで言語や文法自体がイデオロギーという風に読めることを言っているけど。


ウラル=アルタイ語においては、主語の概念がはなはだしく発達していないが、この語圏内の哲学者たちが、インドゲルマン族や回教徒とは異なった目で「世界を眺め」[anders "in die Welt" blicken]、異なった途を歩きつつあることは、ひじょうにありうべきことである。ある文法的機能の呪縛は、窮極において、生理的価値判断と人種条件の呪縛でもある[der Bann bestimmter grammatischer Funktionen ist im letzten Grunde der Bann physiologischer Werthurtheile und Rasse-Bedingungen](ニーチェ『善悪の彼岸』第20番、1986年)


話を戻せば、ボクは柄谷好きなんだけどな、でも「身体」に関してはちょっと弱いとこあるんじゃないかね、憲法超自我論でもさ。本来の超自我ってのは欲動の身体、あるいはその代理人だよ(参照)。



結局、人間にとって言語というのは身体(欲動の身体)に対する防衛であり、その意味で言語秩序は身体が原因ということになる、ニーチェでもフロイトラカンでも。

………………


ラカンの現実界は事実上、フロイトのエス、ニーチェ起源のエス。


フロイトの思考においてはまず最初にエスがあり、自我はエスから分化したもの。

人の発達史と人の心的装置において、〔・・・〕原初はすべてがエスであった[Ursprünglich war ja alles Es]のであり、自我は、外界からの継続的な影響を通じてエスから発展してきたものである。このゆっくりとした発展のあいだに、エスの或る内容は前意識状態[vorbewussten Zustand] に変わり、そうして自我の中に受け入れられた。他のものは エスの中で変わることなく、近づきがたいエスの核として置き残された [Andere sind unverändert im Es als dessen schwer zugänglicher Kern geblieben](フロイト『精神分析概説』第4章、1939年)

異者としての身体は原無意識としてエスのなかに置き残されたままである[Fremdkörper…bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. ](フロイト『モーセと一神教』3.1.5 , 1939年、摘要)


ラカンの現実界はこのエスの核に置き残された異者としての身体[Fremdkörper](フロイトはこの異者身体をエスの欲動蠢動[Triebregung des Es]とも言っている)

フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne … ce que j'appelle le Réel ](Lacan, S23, 13 Avril 1976)

モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger](Lacan, S7, 09  Décembre  1959)

われわれにとって異者としての身体[un corps qui nous est étranger](Lacan, S23, 11 Mai 1976)


享楽は現実界であり、現実界の享楽が異者としての身体=モノ。

享楽は現実界にある。現実界の享楽である[la jouissance c'est du Réel.  …Jouissance du réel](Lacan, S23, 10 Février 1976)

現実界のなかの異者概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ](J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)

フロイトのエス、欲動の無意識。事実上、この享楽がモノである[ça freudien, l'inconscient de la pulsion. En fait, cette jouissance, la Chose](J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)


というわけで、異者とはエスの欲動の身体のことであり、ここに人間の言語活動の原因がある。


スピノザもほぼ同様。


自己の努力が精神だけに関係するときは「意志 voluntas」と呼ばれ、それが同時に精神と身体とに関係する時には「欲動 appetitus」と呼ばれる。ゆえに欲動とは人間の本質に他ならない。

Hic conatus cum ad mentem solam refertur, voluntas appellatur; sed cum ad mentem et corpus simul refertur, vocatur appetitus , qui proinde nihil aliud est, quam ipsa hominis essentia(スピノザ『エチカ』第三部、定理9、1677年)

ーーAppetitus ist Trieb (Willehad Lanwer & Wolfgang Jantzen, Jahrbuch der Luria-Gesellschaft 2014)