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2022年7月30日土曜日

心もとなく闇の中に歩きはじめたら「聖痕」に遭遇するかもよ

 何度か示しているけど、大切なのは心もとなく闇の中に歩きはじめる」ことだよ、


蓮實重彦)『エル・スール』の場合は、オフのナレーションが素晴らしいのですが、この構成はシナリオ段階から決まっていたわけですね。


ビクトル・エリセ) ええ、あのナレーションの声は、すでに大人になった女、つまりエストレーリアがその成熟した女としての視点から語っているのです。彼女が、少女時代の根源的な体験を、もはや触れえない何ものかとして語っているわけです。それは、内面の日記かもしれない。文学的な作品の一断片かもしれない、しかしそれが文学的なものとして語られることを私は望んだのです。


蓮實重彦)その少女時代の根源的な体験の中で、父親が重要な役目を果たしています。ところが、この父親と娘という関係をめぐって「この発想はあからさまにフロイト的だ」という批評を「カイエ・デュ・シネマ」誌で読みました。好意的な文章なのですが、こういう言葉で単純な図式化が行われると、作品の豊かさが一度に失われて残念な気がしました。


ビクトル・エリセ) おっしゃる通り、私は仕事をしているときに、その種のことはまったく考えていない。もちろん、これまでの生涯で目にしたある種のイメージとか、体験したある種の感情とかを映画の中に生かそうとはするでしょう。でも、フロイト的な発想などというものが最初のアイディアとしてあるわけではもちろんありません。私は心もとなく闇の中に歩きはじめる。私が何かを理解するのは撮影が終わった瞬間なのです。映画とは、そうした理解の一形態なのであり、あらかじめわかっていることを映画にするのではありません。(「心もとなく闇の中を歩みはじめるように」1985年、ビクトル・エリセへの蓮實重彦インタヴュー、『光をめぐって』所収)


➡︎Ladra el Sur, Amanece el péndulo



そうしたら暗闇に蔓延る夢の臍・異者に遭遇するようになるかもよ、気合いはいるだろうがね、「天才」でなかったら。


暗闇に置き残された夢の臍 [im Dunkel lassen…Nabel des Traums](フロイト『夢解釈』第7章、1900年、摘要)

固着に伴い原抑圧がなされ、暗闇に異者が蔓延る[Urverdrängung…Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; …wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen](フロイト『抑圧』1915年、摘要)



聖痕の穴にね、



欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する。il y a un réel pulsionnel … je réduis à la fonction du trou.〔・・・〕

原抑圧との関係、原起源にかかわる問い。私は信じている、フロイトの「夢の臍」を文字通り取らなければならない。それは穴である。それは分析の限界に位置する何ものかである。…臍は聖痕である。La relation de cet Urverdrängt, de ce refoulé originel, puisqu'on a posé une question concernant l'origine tout à l'heure, je crois que c'est ça à quoi Freud revient à propos de ce qui a été traduit très littéralement par ombilic du rêve. C'est un trou, c'est quelque chose qui est à la limite de l'analyse. …l'ombilic est un stigmate.(Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter, Strasbourg le 26 janvier 1975)



この原抑圧にかかわる聖痕、この夢の臍が、固着によってエスに置き残こされた異者だよ、フロイトは菌糸体[mycelium]とかわれわれの存在の核[Kern unseres Wesens]、欲動の根[Triebwurzel]とかとも呼んでるけどさ。


抑圧の第一段階ーー原抑圧された欲動ーーは、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, (primär verdrängten Triebe) dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ](フロイト『自伝的に記述されたパラノイアの一症例に関する精神分析的考察(症例シュレーバー)』1911年、摘要)


常に残滓現象がある。つまり部分的な置き残しがある。〔・・・〕標準的発達においてさえ、転換は決して完全には起こらず、最終的な配置においても、以前のリビドー固着の残滓(置き残し)が存続しうる。Es gibt fast immer Resterscheinungen, ein partielles Zurückbleiben. …daß selbst bei normaler Entwicklung die Umwandlung nie vollständig geschieht, so daß noch in der endgültigen Gestaltung Reste der früheren Libidofixierungen erhalten bleiben können. (フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)

異者としての身体は原無意識としてエスのなかに置き残される[Fremdkörper…bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück ](フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年、摘要)




フロイトラカンなんかにクビ突っ込むと才能が枯れるよ、最低限、理論から始めたら決してダメだ。



われわれの方法の要点は、他人の異常な心的事象を意識的に観察し、それがそなえている法則を推測し、それを口に出してはっきり表現できるようにするところにある。一方詩人の進む道はおそらくそれとは違っている。彼は自分自身の心に存する無意識的なものに注意を集中して、その発展可能性にそっと耳を傾け、その可能性に意識的な批判を加えて抑制するかわりに、芸術的な表現をあたえてやる。このようにして作家は、われわれが他人を観察して学ぶこと、すなわちかかる無意識的なものの活動がいかなる法則にしたがっているかということを、自分自身から聞き知るのである。だが彼はそのような法則を口に出していう必要はないし、それらをはっきり認識する必要さえない。

Unser Verfahren besteht in der bewußten Beobachtung der abnormen seelischen Vorgänge bei Anderen, um deren Gesetze erraten und aussprechen zu können. Der Dichter geht wohl anders vor; er richtet seine Aufmerksamkeit auf das Unbewußte in seiner eigenen Seele, lauscht den Entwicklungsmöglichkeiten desselben und gestattet ihnen den künstlerischen Ausdruck, anstatt sie mit bewußter Kritik zu unterdrücken. So erfährt er aus sich, was wir bei Anderen erlernen, welchen Gesetzen die Betätigung dieses Unbewußten folgen muß, aber er braucht diese Gesetze nicht auszusprechen, nicht einmal sie klar zu erkennen (フロイト『W・イェンゼンの小説『グラディーヴァ』にみられる妄想と夢』第4章、1907年)


フロイトとともに思い起こさねばならない。芸術の分野では、芸術家は常に分析家に先んじており[ l'artiste toujours le précède] 、精神分析家は芸術家が切り拓いてくれる道において心理学者になることはないのだということを[ il n'a donc pas à faire le psychologue là où l'artiste lui fraie la voie] 。 (ラカン 「マルグリット・デュラスへのオマージュ HOMMAGE FAIT A MARGUERITE DURAS 」、AE193、1965年)




プルーストの未知のシーニュ[signes inconnus]ってのは聖痕のことだよ、


未知のシーニュ(私が注意力を集中して、私の無意識を探索しながら、海底をしらべる潜水夫のように、手さぐりにゆき、ぶつかり、なでまわす、いわば浮彫状のシーニュ)、そんな未知のシーニュをもった内的な書物といえば、それらのシーニュを読みとることにかけては、誰も、どんな規定〔ルール〕も、私をたすけることができなかった、それらを読みとることは、どこまでも一種の創造的行為であった、その行為ではわれわれは誰にも代わってもらうことができない、いや協力してもらうことさえできないのである。

Le livre intérieur de ces signes inconnus (de signes en relief, semblait-il, que mon attention explorant mon inconscient allait chercher, heurtait, contournait, comme un plongeur qui sonde), pour sa lecture personne ne pouvait m'aider d'aucune règle, cette lecture consistant en un acte de création où nul ne peut nous suppléer, ni même collaborer avec nous. 〔・・・〕


われわれ自身から出てくるものといえば、われわれのなかにあって他人は知らない暗所から、われわれがひっぱりだすものしかないのだ。Ne vient de nous-même que ce que nous tirons de l'obscurité qui est en nous et que ne connaissent pas les autres. (プルースト「見出された時」)



潜水夫のようにして暗所にある聖痕を探り当てないとな、最も根にあるのは菌糸体のように糸を引くようなもんだから用心が必要だけどさーー暁方ミセイの《蕾の割れた梅の林から、糸のように漂いやってくる》ってヤツだねーー、場合によってはニーチェの女蜘蛛の永遠回帰みたいなのでこれに行き当たると絶句する他ないね、ーーいやいやラシイヨと書いとかないとな、まるでボクが行き当たったみたいな誤解を招かないように。



蜘蛛よ、なぜおまえはわたしを糸でからむのか。血が欲しいのか。ああ!ああ![Spinne, was spinnst du um mich? Willst du Blut? Ach! Ach!   ](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第4節、1885年)

月光をあびてのろのろと匍っているこの蜘蛛[diese langsame Spinne, die im Mondscheine kriecht]、またこの月光そのもの、また門のほとりで永遠の事物についてささやきかわしているわたしとおまえーーこれらはみなすでに存在したことがあるのではないか。

そしてそれらはみな回帰するのではないか、われわれの前方にあるもう一つの道、この長いそら恐ろしい道をいつかまた歩くのではないかーーわれわれは永遠回帰[ewig wiederkommen]する定めを負うているのではないか。 (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第3部「 幻影と謎 Vom Gesicht und Räthsel」 第2節、1884年)