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2022年8月10日水曜日

人はみなそれぞれの仕方でアイヒマンである

 人はみなそれぞれの仕方でアイヒマンなんだよ。


アイヒマンという人物の厄介なところはまさに、実に多くの人が彼に似ていたし、しかもその多くの者が倒錯してもいずサディストでもなく、恐ろしいほど正常であったし、今でも正常であるということなのだ。われわれの法律制度とわれわれの道徳的判断基準から見れば、この正常性はすべての残虐行為を一緒にしたよりもわれわれをはるかに慄然とさせる。

The trouble with Eichmann was precisely that so many were like him, and that the many were neither perverted nor sadistic, that they were, and still are, terribly and terrifyingly normal. From the viewpoint of our legal institutions and of our moral standards of judgment, this normality was much more terrifying than all the atrocities put together. (ハンナ・アーレント『イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』Eichmann in Jerusalem: A Report on the Banality of Evil, The New Yorker. 1963



とくに容易にアイヒマンになりやすい人は「善人」だろうね



最近、人間として最も劣悪な種族は鈍感な種族ではないかと思うようになった。この種族は、(いわゆる)善人にすこぶる多い。それも当然で、善人とはその社会における価値観に疑問を感じない人々なのだから。(中島義道『人生に生きる価値はない』)

魔女裁判で賛美歌を歌いながら「魔女」に薪を投じた人々、ヒトラー政権下で歓喜に酔いしれてユダヤ人絶滅演説を聞いた人々、彼らは極悪人ではなかった。むしろ驚くほど普通の人であった。つまり、「自己批判精神」と「繊細な精神」を徹底的に欠いた「善良な市民」であった。(中島義道『差別感情の哲学』)

地上のすべての卑劣なこと、醜悪なこと、凶暴的なことは「正義」の名のもとに行われてきた。いかに合理的であっても、理知的であっても、説得的であっても、愛情に満ちていても、自分を一方的に「正義」の側において、それ以外の者を非難し迫害する者は信用してはならない。(中島義道『善人ほど悪い奴はいない』)



いや医者や教師、宗教家(あるいはイデオロギーの信者)が最もやばいかも。


誰にも攻撃性はある。自分の攻撃性を自覚しない時、特に、自分は攻撃性の毒をもっていないと錯覚して、自分の行為は大義名分によるものだと自分に言い聞かせる時が危ない。医師や教師のような、人間をちょっと人間より高いところから扱うような職業には特にその危険がある。(中井久夫「精神科医からみた子どもの問題」1986年)

医療・教育・宗教を「三大脅迫産業」というそうだからひとのことはいえないが、罪や来世や過去の因縁などで脅かすことは非常に困る。また、自分の偉さやパワーを証明するために患者を手段とすることは、医者も厳に自戒しなければならないが、宗教者も同じであると思う。カトリックの大罪である「傲慢」(ヒュブリス)に陥らないことが大切である。(中井久夫「宗教と精神医学」初出1995年「日本医事新報」第三七〇二号『精神科医がものを書くとき』所収)

一般に「正義われにあり」とか「自分こそ」という気がするときは、一歩下がって考えなお してみてからでも遅くない。そういうときは視野の幅が狭くなっていることが多い。 (中井久夫『看護のための精神医学』2004年 )

私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性とは時に紙一重である、それは、天秤の左右の皿かもしれない。〔・・・〕私たちは、自分たちの中の破壊性を何とか手なずけなければならない。かつては、そのために多くの社会的捌け口があった。今、その相当部分はインターネットの書き込みに集中しているのではないだろうか。(中井久夫「「踏み越え」について」2003年『徴候・記憶・外傷』所収)


この正義の信者「善人」のヤバさがコロナやウクライナで覿面に出たな。医療関係者はワクチンなる生物兵器を喧伝し、西側諸国はこぞってネオナチ政権を支援し大量の武器を送り込んだ。2020年に入ってのこの2年間は、狂気の刻印の記念として後年の歴史家が延々と語り続けることだろうよ、まだ幸運にも世界が滅びていなかったら。


とはいえ、わずかながらの希望をもって、あれらきわめて鈍感な善人たちの跳梁跋扈に対して、人は是非とも反時代的でなければならない。今からでも遅くない。


反時代的な様式で行動すること、すなわち時代に逆らって行動することによって、時代に働きかけること、それこそが来たるべきある時代を尊重することであると期待しつつ。in ihr unzeitgemäß – das heißt gegen die Zeit und dadurch auf die Zeit und hoffentlich zugunsten einer kommenden Zeit – zu wirken.〔・・・〕


世論と共に考えるような人は、自分で目隠しをし、自分で耳に栓をしているのである。Denn alles, was mit der öffentlichen Meinung meint, hat sich die Augen verbunden und die Ohren verstopft (ニーチェ『反時代的考察 unzeitgemässe Betrachtung』1876年)



私は善人は嫌ひだ。なぜなら善人は人を許し我を許し、なれあひで世を渡り、真実自我を見つめるといふ苦悩も孤独もないからである。(坂口安吾『蟹の泡』1946年)

善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。だが堕落者は常にそこからハミだして、ただ一人曠野を歩いて行くのである。悪徳はつまらぬものであるけれども、孤独という通路は神に通じる道であり、善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや、とはこの道だ。キリストが淫売婦にぬかずくのもこの曠野のひとり行く道に対してであり、この道だけが天国に通じているのだ。何万、何億の堕落者は常に天国に至り得ず、むなしく地獄をひとりさまようにしても、この道が天国に通じているということに変りはない。(坂口安吾『続堕落論』1946年)

ホンモノの悪党は、悲痛なものだ。人間の実相を見ているからだ。人間の実相を見つめるものは、鬼である。悪魔である。この悪魔、この悪党は神に参じる道でもある。ついにアリョーシャの人格を創造したドストエフスキーは、そこに参ずる通路には、悪党だけしか書くことができなかったではないか。(坂口安吾『織田信長』)




アーレントのいう「悪の陳腐さ」以外にも人には「善の陳腐さ」がある。この善の陳腐さに耽り込む連中がひょっとして最悪なんじゃないかね。


疑いもなく、エゴイズム・競争性・攻撃性は人間固有の特徴である、ーー悪の陳腐さは、我々の現実だ。だが、愛他主義・協調・連帯ーー善の陳腐さーー、これも同様に我々固有のものである。どちらの特徴が支配するかを決定するのは環境だ。

there can be no doubt that egotism, competitiveness, and aggression are innately human characteristics―the banality of evil is a reality. But altruism, cooperation, and solidarity―the banality of good―are just as innate, and it is the environment that decides which characteristics dominate.(ポール・バーハウPaul Verhaeghe, What About Me? 2014)



ゲーテは、美徳とともに、欠点も育まれると正しく言った。また、誰もが知っているように、肥大した美徳は、ーー私には、現代の歴史的意味と思われるがーー肥大した悪徳と同様に、人々の破滅になりかねない。

Goethe mit gutem Rechte gesagt hat, daß wir mit unseren Tugenden zugleich auch unsere Fehler anbauen, und wenn, wie jedermann weiß, eine hypertrophische Tugend – wie sie mir der historische Sinn unserer Zeit zu sein scheint – so gut zum Verderben eines Volkes werden kann wie ein hypertrophisches Laster: (ニーチェ『反時代的考察』第二部「序文」)



しっかりわかっておかなくちゃな、この古来からの常識を。


われわれの美徳は、ほとんどの場合、偽装した悪徳に過ぎない[Nos vertus ne sont, le plus souvent, que des vices déguisés.](ラ・ロシュフコー『箴言集』1665年)

偽善とは、悪徳が美徳に対してささげる賛辞である[L'hypocrisie est un hommage que le vice rend à la vertu. ](ラ・ロシュフコー『箴言集』1665年)




大切なのは自らのなかのヒトラーを常に見つめることだよ



ファシズムは、理性的主体のなかにも宿ります。あなたのなかに、小さなヒトラーが息づいてはいないでしょうか?われわれにとって重要なことは、理性的であるか否かということよりも、少なくともファシストでないかどうかということなのです。(船木亨『ドゥルーズ』「はじめに」2016年)



人はみな野獣を飼っているんだ、飼い馴らせない野獣を。


われわれが「高次の文化」と呼ぶほとんどすべてのものは、残酷さの精神化の上に成り立っているーーこれが私のテーゼである。あの「野獣」が殺害されたということはまったくない。まだ、生きておりその盛りにある、それどころかひたすら――神聖なものになっている。Fast Alles, was wir "hoehere Cultur" nennen, beruht auf der Vergeistigung und Vertiefung der Grausamkeit - dies ist mein Satz; jenes "wilde Thier" ist gar nicht abgetoedtet worden, es lebt, es blueht, es hat sich nur -vergoettlicht. (ニーチェ『善悪の彼岸』229番、1886年)

いかに多くの血と戦慄があらゆる「善事」の土台になっていることか!…[wieviel Blut und Grausen ist auf dem Grunde aller »guten Dinge«!... ](ニーチェ『道徳の系譜』第二篇第三節、1887年)

人はよく頽廃の時代はより寛容であり、より信心ぶかく強健だった古い時代に対比すれば今日では残忍性が非常に少なくなっている、と口真似式に言いたがる。しかし、言葉と眼差しによる危害や拷問は、頽廃の時代において最高度に練り上げられる[aber die Verwundung und Folterung durch Wort und Blick erreicht in Zeiten der Corruption ihre höchste Ausbildung](ニーチェ『悦ばしき知』23番、1882年)

性欲動の発展としての同情と人類愛。復讐欲動の発展としての正義。[Mitleid und Liebe zur Menschheit als Entwicklung des Geschlechtstriebes. Gerechtigkeit als Entwicklung des Rachetriebes. ](ニーチェ「力への意志」遺稿、1882 - Frühjahr 1887 )



フロイトはこの飼い馴らせない野獣の残滓を《原始時代のドラゴン[Drachen der Urzeit]》(1937)と呼んだ。


この原始時代のドラゴンの別名が異者としての身体[Fremdkörper]である。

異者としての身体は原無意識としてエスのなかに置き残される[Fremdkörper…bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. ](フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年、摘要)

フロイトの異者は置き残し、小さな残滓である[L'étrange, c'est que FREUD…c'est-à-dire le déchet, le petit reste,](Lacan, S10, 23 Janvier 1963)