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2022年8月10日水曜日

純粋差異に駆り立てられた永遠回帰

 


次のラカンの二文を混淆させれば、「反復の純粋差異」となる。

この「一者」自体、それは純粋差異を徴づけるものである[Cet « 1 » comme tel, en tant qu'il marque la différence pure](Lacan, S9, 06 Décembre 1961)

反復の一者[1  de répétition](Lacan, S19, 10 Mai 1972)


次のドゥルーズの文も同様。「永遠回帰という反復の純粋差異」である。

永遠回帰は、同じものや似ているものを回帰させることではなく、それ自身が純粋差異の世界から起こる[L'éternel retour ne fait pas revenir  le même et le semblable, mais dérive lui-même d'un inonde de la  pure différence. ](ドゥルーズ『差異と反復』第2章、1968年)

永遠回帰は反復である[L'Éternel Retour est la Répétition](ドゥルーズ『ニーチェ』1965年)


クロソウスキーは永遠回帰=力への意志=至高の欲動と言っているが、力への意志とはもちろん欲動ーーエスの身体から湧き起こる反復=反復強迫ーーに他ならない。


永遠回帰〔・・・〕ニーチェの思考において、回帰は力への意志の純粋メタファー以外の何ものでもない[L'Éternel Retour …dans la pensée de Nietzsche, le Retour n'est qu'une pure métaphore de la volonté de puissance. ]〔・・・〕

しかし力への意志は至高の欲動のことではなかろうか[Mais la volonté de puissance n'est-elle pas l'impulsion suprême? ](クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)

すべての欲動の力(駆り立てる力[treibende Kraft])は力への意志であり、それ以外にどんな身体的力、力動的力、心的力もない。Daß alle treibende Kraft Wille zur Macht ist, das es keine physische, dynamische oder psychische Kraft außerdem giebt.(ニーチェ「力への意志」遺稿 , Anfang 1888)




そして反復とは「固着の反復」のこと。

固着と退行概念、それはトラウマと原光景を伴ったものだが、最初の要素である。自動反復=自動機械 [automatisme] という考え方は、固着された欲動の様相、いやむしろ固着と退行によって条件付けれた反復の様相を表現している。

Les concepts de fixation et de régression, et aussi de trauma, de scène originelle, expriment ce premier élément. […] : l'idée d'un « automatisme » exprime ici le mode de la pulsion fixée, ou plutôt de la répétition conditionnée par la fixation ou la régression.(ドゥルーズ『差異と反復』第2章、1968年)

欲動蠢動は「自動反復 Automatismus」の影響の下に起こるーー私はこれを反復強迫と呼ぶのを好むーー。〔・・・〕そして抑圧において固着する契機は「無意識のエスの反復強迫」である。Triebregung  […] vollzieht sich unter dem Einfluß des Automatismus – ich zöge vor zu sagen: des Wiederholungszwanges –[…] Das fixierende Moment an der Verdrängung ist also der Wiederholungszwang des unbewußten Es,(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年、摘要)


※参照:なぜ「死の欲動とレミニサンスと永遠回帰」が等置されるのか


永遠回帰とは固着の反復=レミニサンス=死の欲動なのである。


ラカンが、反復の一者[1 de répétition]というときの「一者」も固着である。

➡︎一者のシニフィアンは固着である


ドゥルーズはレミニサンスとしての無意識的記憶は内在化された差異と言った(プルーストの質的差異[différence qualitative]の言い換え)。

無意志的記憶における本質的なものは、類似性でも、同一性でさえもない。それらは、無意志的記憶の条件にすぎないからである 本質的なものは、内的なものとなった、内在化された差異である。

L'essentiel dans la mémoire involontaire n'est pas la ressemblance, ni même l'identité, qui ne sont que des conditions. L'essentiel, c'est la différence intériorisée, devenue immanente。(ドゥルーズ 『プルーストとシーニュ』第4章)


これは現代ラカン派においては固着の内在化された差異である。





一者(表象=シニフィアン)とエスの身体(異者としての身体)とに内在化された差異が反復強迫を引き起こす。


この図こそレミニサンス=永遠回帰=死の欲動図である(参照:固着と異者図



固着とはフロイトラカンの定義において「身体の出来事」である。そしてこの固着こそラカンの享楽である。

享楽は身体の出来事である。享楽はトラウマの審級にあり、固着の対象である[la jouissance est un événement de corps. […] la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme, […] elle est l'objet d'une fixation.] (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)

身体の出来事はフロイトの固着の水準に位置づけられる。そこではトラウマが欲動を或る点に固着する[L’événement de corps se situe au niveau de la fixation freudienne, là où le traumatisme fixe la pulsion à un point] ( Anne Lysy, Événement de corps et fin d'analyse, NLS Congrès présente, 2021/01)

享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation …on y revient toujours.] (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 20/5/2009)


ラカン自身は享楽は固着だとはダイレクトには言っていない。だが彼が《反復は享楽の回帰に基づいている[la répétition est fondée sur un retour de la jouissance]》(Lacan, S17, 14 Janvier 1970)と言ったとき、この享楽の回帰は、一者と異者の「内在化された差異」に駆り立てられた「固着の回帰」なのである。







…………………………


※付記


上に「ラカン自身は享楽は固着だとはダイレクトには言っていない」としたが、いくらか廻り道をすれば、享楽はフロイトの固着だと事実上示している。


まず次の三文にて、ラカンは「原抑圧は現実界のトラウマ」と言っている。

私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する[c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même].(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

現実界は穴=トラウマをなす[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)

問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている[le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme.  ](Lacan, S23, 13 Avril 1976)


そしてフロイトにおいて、原抑圧は固着である。

抑圧の第一段階ーー原抑圧された欲動ーーは、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, (primär verdrängten Triebe) dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ]。(フロイト『症例シュレーバー 』1911年、摘要)


さらに享楽は現実界である。

享楽は現実界にある。現実界の享楽である[la jouissance c'est du Réel.  …Jouissance du réel](Lacan, S23, 10 Février 1976)


以上で、現実界の享楽は固着、より厳密に言えば、固着のトラウマとなる。


なおフロイトラカンにおけるトラウマ概念は巷間で使われる「トラウマ」よりも大きな含意があり、「身体の出来事」という意味である。


トラウマは自己身体の出来事もしくは感覚知覚である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen] 〔・・・〕このトラウマの作用はトラウマへの固着と反復強迫として要約できる[Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang. ]。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)



トラウマは異者(異者としての身体)とも呼ばれる。

トラウマないしはトラウマの記憶は、異者としての身体[Fremdkörper] のように作用する[das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt](フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)


つまりは「現実界の享楽は固着の異者」となる。

固着に伴い原抑圧がなされ、暗闇に異者が蔓延る[Urverdrängung…Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; …wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen](フロイト『抑圧』1915年、摘要)


これはモノ用語でも確認できる。

モノなる異者[Dingen Fremder](フロイト「フリース宛書簡」13. 2. 1896)

フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne … ce que j'appelle le Réel ](Lacan, S23, 13 Avril 1976)

モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger](Lacan, S7, 09  Décembre  1959 )


つまり現実界の享楽は固着に伴うモノなる異者である。

現実界のなかの異者概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ](J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)


モノなる異者とは自我に同化不能の部分であり、固着である。

同化不能の部分(モノ)[einen unassimilierbaren Teil (das Ding)](フロイト『心理学草案(Entwurf einer Psychologie)』1895)

固着は、言説の法に同化不能のものである[fixations …qui ont été inassimilables …à la loi du discours](Lacan, S1  07 Juillet 1954)

エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異者としての身体 [Fremdkörper]と呼んでいる。 Triebregung des Es … ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)


この異者のエスの欲動蠢動がレミニサンスの意味である、ーー《ほとんどの場合、異者としての身体はレミニサンスを引き起こす[Fremdkörper …leide größtenteils an Reminiszenzen.]》(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年、摘要)。フロイトはこの欲動蠢動を先にドゥルーズの固着の補足として引用したように固着に伴う無意識のエスの反復強迫[Wiederholungszwang des unbewußten Es]とも言っている。このレミニサンスとしての反復強迫が何よりもまずフロイトの死の欲動であり、ラカンの現実界である。


われわれは反復強迫の特徴に、何よりもまず死の欲動を見出だす。

Charakter eines Wiederholungszwanges […] der uns zuerst zur Aufspürung der Todestriebe führte.(フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年)

死の欲動は現実界である[La pulsion de mort c'est le Réel](Lacan, S23, 16 Mars 1976)

問題となっている現実界に触れることは可能である、レミニサンスと呼ばれるものによって[le Réel en question, …qui fait toucher du doigt… ce que peut être ce qu'on appelle la réminiscence] (Lacan, S23, 13 Avril 1976、摘要)



さて話を戻して繰り返せば、自我に同化不能の固着としてのモノなる異者をトラウマと呼ぶ。

同化不能とは固着の別名である[« Inassimilable » , autre nom de la fixation](Martine Versel, DE LA FIXATION ET DE LA RÉPÉTITION EN PSYCHANALYSE, 22 Mai 2022 )

現実界は、同化不能の形式、トラウマの形式にて現れる[le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma](ラカン、S11、12 Février 1964)


トラウマ、すなわち異者としての身体が同化不能ゆえに永遠の反復運動が起こる。

フロイトの反復は、同化不能の現実界のトラウマである。まさに同化されないという理由で反復が発生する[La répétition freudienne, c'est la répétition du réel trauma comme inassimilable et c'est précisément le fait qu'elle soit inassimilable qui fait de lui, de ce réel, le ressort de la répétition.](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011)




例えばニーチェの記述における繰り返される事例においては、月光と蜘蛛という身体の出来事への固着があり、その固着の異者が自我に同化されないゆえに永遠回帰するのである。

月光をあびてのろのろと匍っているこの蜘蛛、またこの月光そのもの、また門のほとりで永遠の事物についてささやきかわしているわたしとおまえーーこれらはみなすでに存在したことがあるのではないか。

diese langsame Spinne, die im Mondscheine kriecht, und dieser Mondschein selber, und ich und du im Thorwege, zusammen flüsternd, von ewigen Dingen flüsternd - müssen wir nicht Alle schon dagewesen sein?


そしてそれらはみな回帰するのではないか、われわれの前方にあるもう一つの道、この長いそら恐ろしい道をいつかまた歩くのではないかーーわれわれは永遠回帰する定めを負うているのではないか。 

- und wiederkommen und in jener anderen Gasse laufen, hinaus, vor uns, in dieser langen schaurigen Gasse - müssen wir nicht ewig wiederkommen? -(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第3部「 幻影と謎 Vom Gesicht und Räthsel」 第2節、1884年)