このブログを検索

2022年8月13日土曜日

はしたない連中の追悼の合唱隊

 

きみは徹底的にニブイんだろうよ、はしたない連中の追悼の合唱隊への参加を拒絶するのが故人に対する最低限の礼儀だろ、まず口を閉ざすことだ、あれら破廉恥で醜悪な集団に加わらないようにと。もちろん、いくばくかの引用までをも拒絶するつもりはないが。


イタカに向けて船出するなら

祈れ、長い旅でありますように、

冒険がうんとありますように、 

新しいことにたくさん出会いますように、と。


(中略)


祈れ、旅が長くなりますように、

初めての港に着く喜びの夏の朝に 

何度も何度も恵まれますように、と。


カヴァフィス「イタカ」中井久夫訳



あるいは大江健三郎が加藤周一の死去に際して言ったように、《私は…尊敬する学者、文学者が亡くなられると、つねにというのではありませんがイジケる心を奮い立たせて、それらの人の全著作を読むということをしてきました。》。


わかるか、人は愛人が死んだときにベラベラまくしたてるか、それと同じだ。




ふたたび私はそのかおりのなかにいた。かすかに腐敗臭のまじる甘く重たく崩れた香りーー、それと気づけばにわかにきつい匂いである。


それは、ニセアカシアの花のふさのたわわに垂れる木立からきていた。雨あがりの、まだ足早に走る黒雲を背に、樹はふんだんに匂いをふりこぼしていた。


金銀花の蔓が幹ごとにまつわり、ほとんど樹皮をおおいつくし、その硬質の葉は樹のいつわりの毛羽となっていた。かすかに雨後の湿り気がたちのぼる。


二週間後には、このあたりは、この多年生蔓草の花の、すれちがう少女の残す腋臭のほのかさに通じる、さわやかな酸味をまじえたかおりがたちこめて、ひとは、おのれをつつむこの香の出どころはどこかととまどうはずだ。小さい十字の銀花も、それがすがれちぢれてできた金花の濃い黄色も、ちょっと見には眼にとまらないだろう。


この木立は、桜樹が枝をさしかわしてほのかな木下闇をただよわせている並木道の入口にあった。桜たちがいっせいにひらいて下をとおるひとを花酔いに酔わせていたのはわずか一月まえであったはずだ。しかし、今、それは遠い昔であったかのように、桜は変貌して、道におおいかぶさっているのはただ目に見える葉むらばかりでなく、ひしひしとひとを包む透明な気配がじかに私を打った。この無形の力にやぶれてか、道にはほとんど草をみず、桜んぼうの茎の、楊枝を思わせるのがはらはらと散らばっていた。(中井久夫「世界における索引と徴候」1990年)