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2022年9月9日金曜日

私の中に潜んでいるその『女』

 

ラカンの享楽は事実上はフロイトのエスだよ。エスに置き残された異者だ。


人の発達史と心的装置において、〔・・・〕原初はすべてがエスであった[Ursprünglich war ja alles Es]のであり、自我は、外界からの継続的な影響を通じてエスから発展してきたものである。このゆっくりとした発展のあいだに、エスの或る内容は前意識状態に変わり、そうして自我の中に受け入れられた。

他のものは エスの中で変わることなく、近づきがたいエスの核として置き残された [die Andere sind unverändert im Es als dessen schwer zugänglicher Kern geblieben. ](フロイト『精神分析概説』第4章、1939年)


このエスの核に置き残されるものが残滓[Reste]=リビドー固着[Libidofixierung]=異者としての身体[Fremdkörper]だ。


常に残滓現象がある。つまり部分的な置き残しがある。〔・・・〕標準的発達においてさえ、転換は決して完全には起こらず、最終的な配置においても、以前のリビドー固着という残滓(置き残し)が存続しうる。Es gibt fast immer Resterscheinungen, ein partielles Zurückbleiben. […]daß selbst bei normaler Entwicklung die Umwandlung nie vollständig geschieht, so daß noch in der endgültigen Gestaltung Reste der früheren Libidofixierungen erhalten bleiben können. (フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)

異者としての身体は原無意識としてエスに置き残されたままである[Fremdkörper…bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. ](フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年、摘要)



簡略図で置けば、こうなる。




発達に伴ってエスは自我に移行するのだが、移行しないものが固着という残滓(異者としての身体[Fremdkörper])。この残滓がリアルな対象aであり、享楽。



残滓がある。分裂の意味における残存物である。この残滓が対象aである[il y a un reste, au sens de la division, un résidu.  Ce reste, …c'est le petit(a).  ](Lacan, S10, 21 Novembre  1962)

フロイトの異者は、置き残し、小さな残滓である[L'étrange, c'est que FREUD…c'est-à-dire le déchet, le petit reste](Lacan, S10, 23 Janvier 1963)

異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である[corps étranger,…le (a) dont il s'agit,…absolument étranger ](Lacan, S10, 30 Janvier 1963)

享楽は、残滓 (а)  による[la jouissance…par ce reste : (а)  ](Lacan, S10, 13 Mars 1963)

対象aはリビドーの固着点に現れる[petit(a) …apparaît que les points de fixation de la libido ](Lacan, S10, 26 Juin 1963)



で、この残滓=異者が、ひとりの女だ、ーー《ひとりの女は異者である[une femme, …c'est une étrangeté.  ]》(Lacan, S25, 11  Avril  1978)。


このひとりの女は男にとっても女にとっても異者だ。これ以上言わないでおくよ。


知りたかったら荒木さんにでも頼んでみたらどうだい?


荒木さんは私の中に潜んでいるその『女』に声をかけてくれた。私もそれを出すために荒木さんが必要だったんです。(石倭裕子ーー桐山秀樹『荒木経惟の「物語」』1998年)



噂によればエゴン・シーレでもいけるらしいけどさ


シーレの絵の中の女性も荒木の写真の中の女性も、彼女たちの視線を向けている方向をみると、自分の目の前に存在する作者のことしか考えていないように思われる。どんなに笑いかけていても、煽情的なポーズをとっていても、彼女たちの視線は「見る」ものの視線を飛び越えていく。モデルたちはカメラに振られていることに対しては充分に自覚的だが、その背後にある写真を見るであろう無数の視線には反応を示さない。自分にとって重要で、意味を成すのは目の前にいる写真家との関係だけだからだ。重要なことはただ一つ。撮られる相手は「荒木経惟」でなければならない。誰のためでもなく荒木のために投げかける視線、それこそが写真に写真家を"存在"させている理由である。 シーレの「横たわる少女」と同じく、女性があられもないポーズをとるのは他の誰でもない、荒木のためだから可能となった。とすれば、ここに写っているのは姿態、ポーズというよりも、それを見せることができるまでに強固な、作者とモデルの間にある絶対的な信頼関係である。(秦野真衣「私的な視線によるエロティシズム――荒木経惟の作品を中心とした写真に関する考察――」2002年)