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2022年9月8日木曜日

引用としての人生

 とにもかくにも、嘘を糧にしてわが身を養って来たことには、許しを乞おう。そして出発だ。Enfin, je demanderai pardon pour m'être nourri de mensonge. Et allons.

ーーランボー「別れ Adieu」


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◼️引用としての人生


寺田寅彦氏はジャアナリズムの魔術についてうまい事を言っていた、「三原山投身者が大都市の新聞で奨励されると諸国の投身志望者が三原山に雲集するようなものである。ゆっくりオリジナルな投身地を考えている余裕はないのみならず、三原山時代に浅間へ行ったのでは『新聞に出ない』のである。このように、新聞はその記事の威力によって世界の現象自身を類型化すると同時に、その類型の幻像を天下に撒き拡げ、あたかも世界中がその類型で充ち満ちているかの如き錯覚を起させ、そうすることによって、更にその類型の伝播を益々助長するのである」。類型化と抽象化とがない処に歴史家の表現はない、ジャアナリストは歴史家の方法を迅速に粗笨に遂行しているに過ぎない。歴史家の表現にはオリジナルなものの這入り込む余地はない、とまあ言う様な事は一般常識の域を出ない。僕は進んで問いたいのだ。一体、人はオリジナルな投身地を発見する余裕がないのか、それともオリジナルな投身地なぞというものが人間の実生活にはじめから存在しないのか。君はどう思う。僕はこの単純な問いから直ちに一見異様な結論が飛び出して来るのにわれながら驚いているのだ。現実の生活にもオリジナルなものの這入り込む余地はないのだ。(小林秀雄「林房雄の「青年」」『作家の顔』所収)


柄谷)……たとえば、小説というのはアイロニーだと思います。リアリズムは結局アイロニーとしてしか存在したことがないわけですよね。いわゆるリアリズムというのは、それ自体約束の地であって、現実とは別なのです。しかし、現実とよばれるものも、逆に小説を前提としているのではないか。


たとえば、“事実は小説より奇なり”とかいう言い方があるけれども、その場合、「事実」は、小説を前提しているんですね。そして、小説の約束からずれたものが、「事実」とよばれているわけです。リアリズムの小説であれば、たとえば偶然性ということがまず排除されている。たまたま道で遇って、事態が一瞬のうちに解決したとか、そういうことは小説では許されないわけですが、現実ではしょっちゅう起こっている。そういうのが出てくると大衆文学とか物語とかいわれるんですね。かりに実際にあったことでも、それを書くと、リアリズムの小説の世界では、これはつくりものだといわれる。いちばん現実的な部分が小説においてはフィクションにされてしまうわけですね。


しかし、一方で、僕らがやっていることが、すでに小説に書かれた通りでしかないということがありますね。たとえば大岡昇平の『野火』なんかそうですね。主人公は、小説の通りにやっていることを許しがたいと思う。そこでは、つまり、小説をこえた体験が書かれているというよりも、どんな体験も小説の枠内にあるにすぎないということが書かれている。あれは、パロディです。〔・・・〕

リアルというやつはほんとにアンリアルであって、あまりにもリアルにすると、アンリアルになっちゃうということはカフカがやったことですけどね。

蓮實)……「人生」という言葉でわれわれがすぐ納得しちゃうのは、なんか真っさらなものだという話なんですね。ところが「人生」というのは文化であるわけでしょう。どういう形で文化かといえば、滑稽なまでにほかの言葉に犯されて、誰が見たって真剣に自分を考えてみたら滑稽ですよ。それほどまでに、いわば引用とか物語を知っちゃっているとか、物語の逆さえ知っちゃっているという惨めな存在である。そのことを、これまでのいわゆる人生論というのは拒否しちゃうわけですよね。


僕が人生という言葉をいっているのは、ほかの人の言葉に犯された人間であるからだめだとか、そこから自由になって自分の言葉を発見しなければいけないとか、そういうことではなくて、人生というのは初めから滑稽なわけでしょう。その始めから滑稽なことを、たとえばほんとうらしい小説というのは滑稽らしく書いていないですよね。(柄谷行人-蓮實重彦対談集『闘争のエチカ』1988年)



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◼️あらゆるものは復習


わたしはベッドの上で上体を起した。そして、小説の中の主人公たちがよくやるように、薄暗い部屋の中をぼんやりと眺めまわした。実際、ベッドの上で主人公が目をさますところからはじまる小説は少なくない。(後藤明生『壁の中』)


いつだったか一度(あるいはもっと?)書いた通り、ぼくがこうして書いていることは、すべて何かの復習なのです。われわれに残されていたものは、復習しかないということなのです!〔・・・〕


われわれのご先祖様たちは、この「予習にまさる復習なし」の精神で、営々と(つまり、前向きに!)文化とか文明とかを作り続けてきた。歴史というものを作り続けてきた。そして文学というのもまた、その例外ではなかったわけです。おかげで、ぼくの本棚はすでに満員、というわけです。そしてぼくは、その本棚の中の時間を、うしろへうしろへと歩いているだけです。そして、ときどき(でもないか?)脇道へそれているだけです。実際、本棚というやつは、アミダクジみたいなものだからね!(後藤明生『壁の中』)



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◼️あらゆるものは嘘


そのうちに又あらゆるものの譃であることを感じ出した。政治、実業、芸術、科学、――いずれも皆こう云う僕にはこの恐しい人生を隠した雑色のエナメルに外ならなかった。(芥川龍之介「歯車」)



フロイト・ラカンにおいて愛と欲望は嘘である。



愛は隠喩である[l’amour  est une métaphore,](Lacan, S8, 30  Novembre 1960)

欲望は換喩である[le désir est la métonymie](Lacan, E623, 1958)


ラカンの隠喩と換喩[la métaphore et la métonymie]は、フロイトの圧縮と置換[Verdichtung und Verschiebung]であり、代理満足[Befriedigungsersatz]のことである。

リビドー興奮[libidinösen Erregung]は圧縮と置換を通して代理満足となる[daß er durch Verdichtung und Verschiebung zum Befriedigungsersatz]。(フロイト『精神分析入門』第24章、1917年、摘要)


リビドーは欲動もしくは享楽のことである。

享楽の名、それはリビドーというフロイト用語と等価である[le nom de jouissance… le terme freudien de libido auquel, par endroit, on peut le faire équivaloir].(J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 30/01/2008)

欲動は、ラカンが享楽の名を与えたものである[pulsions …à quoi Lacan a donné le nom de jouissance.](J. -A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011)


欲動あるいは享楽は身体の水準にある。

エスの要求によって引き起こされる緊張の背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は心的生に課される身体的要求である[Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.](フロイト『精神分析概説』第2章1939年)

ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる [Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance](J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)


他方、愛と欲望は文化的水準にある。

ラ・ロシュフーコーは言っている、《いちども愛の話をきかなかったら、ほとんどの人間は愛することなどけっしてしなかっただろう。Combien de gens n'auraient jamais aimé s'ils n'en avaient entendu parler 》と。

要するに《文化がなかったら、愛の問いはないだろう。 Qu'il ne serait pas question d'amour s'il n'y avait pas la culture 》ということだ。(ラカン, S10, 13 Mars 1963)

欲望は自然の部分ではない。欲望は言語に結びついている。それは文化で作られている。より厳密に言えば、欲望は象徴界の効果である[le désir ne relève pas de la nature : il tient au langage. C'est un fait de culture, ou plus exactement un effet du symbolique.](J.-A. MILLER "Le Point : Lacan, professeur de désir" 06/06/2013)


ラカンにおいて愛は想像界、欲望は象徴界だが、愛も欲望も嘘である。

象徴界は厳密に嘘である[le symbolique, précisément c'est le mensonge.](J.-A. MILLER, Le Reel Dans L'expérience Psychanalytique. 2/12/98)

象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage](Lacan, S25, 10 Janvier 1978)

想像界は確かに象徴界の影響の外部にあるが、他方、ラカンは常に付け加えた、この想像界は同時に象徴界によって常に支配されていると。l'imaginaire est bien ce qui reste en dehors de la prise du symbolique, tandis que, par un autre côté, Lacan ajoute toujours que cet imaginaire est en même temps dominé par le symbolique. (J.-A. Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)


言語を使用して生きていかざるを得ないヒト族は常に「嘘としての人生」を送っている。


フロイトの視点に立てば、人間は言語に囚われ、拷問されている主体である [Dans la perspective freudienne, l'homme c'est le sujet pris et torturé par le langage](Lacan, S3, 16 mai 1956)