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2022年10月1日土曜日

母なるロシア[Матушка Россия]

 

前回、ナショナリズムのナルシシズム的性格[narzißtischer Natur]というフロイト文を掲げたが、フロイトのナルシシズムはひどく厄介なんだ。


・・・ナルシシズム概念一つを取り上げても相互に矛盾した記述が同時的にすら存在し、フロイト自身それを意識していなかったことは、M・バリントのの論証するとおりであろう。(中井久夫「西欧精神医学背景史」『分裂病と人類』所収、1982年)



これはいろんな要因があるんだが、まずナルシシズム概念はネッケの自己身体愛から始まっている。

ナルシシズム[Narzißmus]という術語は、臨床上の記述に由来するものであり、1899年にP. ネッケ[P.Nácke]が選んだものである。ナルシシズムは、ある個人が自己身体を性的対象のように取り扱う、つまり性的快を抱いてこれを眺め、愛撫し、ついにはその行為によって完全な満足に至ることを表現している。Der Terminus Narzißmus entstammt der klinischen Deskription und ist von P. Näcke 1899 zur Bezeichnung jenes Verhaltens gewählt worden, bei welchem ein Individuum den eigenen Leib in ähnlicher Weise behandelt wie sonst den eines Sexualobjekts, ihn also mit sexuellem Wohlgefallen beschaut, streichelt, liebkost, bis es durch diese Vornahmen zur vollen Befriedigung gelangt. (フロイト『ナルシシズム入門』第1章、1914年)


つまり最初のナルシシズムは自体性愛だった。

自体性愛[Autoerotismus]。…性的活動の最も著しい特徴は、この欲動は他の人物に向けられたものではなく、自己身体[eigenen Körper」から満足を得ることである。それは自体性愛的である[Autoerotismus. …als den auffälligsten Charakter dieser Sexualbetätigung hervor, daß der Trieb nicht auf andere Personen gerichtet ist; er befriedigt sich am eigenen Körper, er ist autoerotisch](フロイト『性理論三篇』第2篇、1905年)



だがフロイトは自体性愛とナルシシズムを分けるようになる。


個人においては性欲動[sexuellen Triebe]の顕れは最初から認められるが、初めはまだ外界の対象[äußeres Objekt]には向けられていない。性欲の個々の欲動因子がそれぞれ独立に快の獲得[Lustgewinn]をめざし、自己身体[eigenen Körper]にその満足を見出すのである。この段階を自体性愛[Autoerotismus]というが、それは対象選択[Objektwahl]によってとってかわられる。

さらに研究を進めていくと、これら二つの段階のあいだに第三の段階を挿入するか、場合によっては、第一の自体性愛の段階を二つに分ける[zwischen diese beiden Stadien ein drittes einzuschieben, oder, wenn man so will, das erste Stadium des Autoerotismus in zwei zu zerlegen]ほうが好都合、いや、むしろ必要であるととが明らかになった。この段階はその重要さのゆえにますます研究を必要としているわけだが、この中間段階においては、以前には分離していた性欲動がすでに一つの統一体にまとまって、ある対象をも見出しているのである。といっても、この対象は外的な、個人と無縁なものではなくて、この時期に構成される自らの自我なのである[dies Objekt ist aber kein äußeres, dem Individuum fremdes, sondern es ist das eigene, um diese Zeit konstituierte Ich. ]


こうした状態の病理学的固着、これについては後に考察するが、それを考慮したうえで、この新段階をナルシシズムの時期と呼ぶことにする[pathologische Fixierungen dieses Zustandes heißen wir das neue Stadium das des Narzißmus]。人はあたかも自らを愛しているかのごとくふるまう。自我欲動とリビドー的願望とは、われわれの分析学にとってはいまだに分離できないものなのである[Die Person verhält sich so, als wäre sie in sich selbst verliebt, die Ichtriebe und die libidinösen Wünsche sind für unsere Analyse noch nicht voneinander zu sondern.](フロイト『トーテムとタブー』第三論文「アニミズム・呪術および観念の万能」第3章、1913年)



次に自体性愛/ナルシシズムを一次ナルシシズム(原ナルシシズム)/二次ナルシシズムとも呼ぶようになる。

我々は、対象備給を内に取り込むことによって生じるナルシシズムを、様々な影響によって不明瞭になった原ナルシシズム(一次ナルシシズム)の上に構築される二次ナルシシズムと理解するように導かれる。Somit werden wir dazu geführt, den Narzißmus, der durch Einbeziehung der Objektbesetzungen entsteht, als einen sekundären aufzufassen, welcher sich über einen primären, durch mannigfache Einflüsse verdunkelten aufbaut. (フロイト『ナルシシズム入門』第1章、1914年)


二次ナルシシズムとは、自我のナルシシズム、自己愛のこと。

われわれはナルシシズム原理について一つの重要な展開をなしうる。原初において、リビドーはエスのなかに蓄積され[Libido im Es angehäuft]、自我は形成途上であり弱体であった。エスはこのリビドーの一部分をエロス的対象備給に送り、次に強化された自我はこの対象リビドー[Objektlibido]をわがものにし、自我をエスにとっての愛の対象にしようとする。このように自我のナルシシズムは二次的なものである[Der Narzißmus des Ichs ist so ein sekundärer ]である。すなわち対象から撤退したものである。

(フロイト『自我とエス』第4章、1923年)

エディプスコンプレクスにおいては、リビドーは両親の表象と結びついて現われるが、それ以前にはリビドーはそのような対象をもたない。これは、リビドー理論の基本的コンセプトの元となる状態であり、リビドーは自我自体をその対象とするのである[die Libido das eigene Ich erfüllt, dieses selbst zum Objekt genommen hat]。この状態をナルシシズムあるいは自己愛と呼びうる [Diesen Zustand konnte man »Narzißmus« oder Selbstliebe nennen]。この状態は完全には放棄されず、一生の間、自我は大いなるリビドー貯蔵庫のままであり、そこから対象備給に送り出されたり、ふたたび対象から引き上げられたりする。このようにしてナルシシズム的リビドーは常時、対象リビドーに移行したり逆転したりする。 

 (フロイト『自己を語るSelbstdarstellung 』1925年)



さらに自体性愛としての原ナルシシズム(一次ナルシシズム)は出生とともに喪われるとしている。

自我の発達は原ナルシシズムから距離をとることによって成り立ち、自我はこの原ナルシシズムを取り戻そうと精力的な試行錯誤を起こす[Die Entwicklung des Ichs besteht in einer Entfernung vom primären Narzißmus und erzeugt ein intensives Streben, diesen wiederzugewinnen.」(フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)

人は出生とともに絶対的な自己充足をもつナルシシズムから、不安定な外界の知覚に進む[haben wir mit dem Geborenwerden den Schritt vom absolut selbstgenügsamen Narzißmus zur Wahrnehmung einer veränderlichen Außenwelt](フロイト『集団心理学と自我の分析』第11章、1921年)

喪われた子宮内生活 [verlorene Intrauterinleben](フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)



そして究極の喪われた自己身体(去勢された自己身体)は母の身体である。


乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり、自己身体の重要な一部の喪失と感じるにちがいないこと、〔・・・〕そればかりか、出産行為[Geburtsakt ]がそれまで一体であった母からの分離として、あらゆる去勢の原像であるということが認められるようになった。

Man hat geltend gemacht, daß der Säugling schon das jedesmalige Zurückziehen der Mutterbrust als Kastration, d. h. als Verlust eines bedeutsamen, zu seinem Besitz gerechneten Körperteils empfinden mußte, (…) ja daß der Geburtsakt als Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war, das Urbild jeder Kastration ist. (フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)

母なる対象の喪失[Verlust des Mutterobjekts](フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)

(初期幼児期における)母の喪失というトラウマ的状況 [Die traumatische Situation des Vermissens der Mutter] 〔・・・〕この喪われた対象[vermißten (verlorenen) Objekts]への強烈な切望備給は、飽くことを知らず絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給と同じ経済論的条件を持つ[Die intensive, infolge ihrer Unstillbarkeit stets anwachsende Sehnsuchtsbesetzung des vermißten (verlorenen) Objekts schafft dieselben ökonomischen Bedingungen wie die Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle ](フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)



以上の経緯があるのだが、フロイトがナルシシズムという語を使うとき、一次ナルシシズム(原ナルシシズム)としての自体性愛を言っているのか、二次ナルシシズムとしての自我のナルシシズム(自己愛)を言っているのか判別しがたいことがある。そのせいでフロイト読みは彷徨うんだ。


ネッケのナルシシズム=自体性愛から始めて図式化すればこうなる。




ラカンの享楽はこの左側の自体性愛(原ナルシシズム)のこと。



①ラカンは自体性愛の対象は喪われた対象だとしている。


自体性愛の対象は実際は、空洞、空虚の現前以外の何ものでもない。〔・・・〕そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象aの形態をとる[autoérotisme …Cet objet qui n'est en fait que la présence d'un creux, d'un vide……et dont nous ne connaissons l'instance que sous  la forme de la fonction de l'objet perdu (a)](Lacan, S11, 13 Mai 1964)


②そして享楽の対象(モノ)は喪われた対象である。


享楽の対象は何か? [Objet de jouissance de qui ? ]…大他者の享楽? 確かに!  [« jouissance de l'Autre » ? Certes !   ]〔・・・〕

享楽の対象としてのモノは、快原理の彼岸にあり、喪われた対象である[Objet de jouissance …La Chose…au niveau de l'Au-delà du principe du plaisir…cet objet perdu](Lacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要)


①②より、享楽は自体性愛となる。

享楽とは、フロイディズムにおいて自体性愛と伝統的に呼ばれるもののことである[ jouissance, qu'on appelle traditionnellement dans le freudisme l'auto-érotisme](J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)




③先に享楽の対象はモノとあったが、モノは現実界の享楽であり、母もしくは母の身体である。

享楽は現実界にある。現実界の享楽である[la jouissance c'est du Réel.  …Jouissance du réel](Lacan, S23, 10 Février 1976)

フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne (…) ce que j'appelle le Réel ](Lacan, S23, 13 Avril 1976)

母なるモノ、母というモノ、これがフロイトのモノ[das Ding]の場を占める[la Chose maternelle, de la mère, en tant qu'elle occupe la place de cette Chose, de das Ding.](Lacan, S7, 16  Décembre  1959)

モノの中心的場に置かれるものは、母の神秘的身体である[à avoir mis à la place centrale de das Ding le corps mythique de la mère,] (Lacan, S7, 20  Janvier  1960)


④究極の喪われた対象は胎盤ともしている。

例えば胎盤は、個人が出産時に喪なった己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象の象徴である[le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance, et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond.  ](Lacan, S11, 20 Mai 1964)


この胎盤は《喪われた子宮内生活 [verlorene Intrauterinleben]》(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)に相当する。


④したがってラカンの享楽の原像ーー喪われていない享楽ーーは子宮内生活であり、これが自体性愛=原ナルシシズムの原像ということになる。


子宮内生活は、まったき享楽の原像である。原ナルシシズムはその始まりにおいて、自我がエスから分化されていない原状態として特徴付けられる。

La vie intra-utérine est l'archétype de la jouissance parfaite. Le narcissisme primaire est, dans ses débuts, caractérisé par un état anobjectal au cours duquel le moi ne s'est pas encore différencié du ça.  (Pierre Dessuant, Le narcissisme primaire, 2007)

子宮内生活は原ナルシシズムの原像である[la vie intra-utérine serait le prototype du narcissisme primaire] (Jean Cottraux, Tous narcissiques, 2017)


後期フロイト(おおよそ1920年代半ば以降)において、「自体性愛-ナルシシズム」は、「原ナルシシズム-二次ナルシシズム」におおむね代替されている。原ナルシシズムは、自我の形成以前の発達段階の状態を示し、母胎内生活という原像、子宮のなかで全的保護の状態を示す。

Im späteren Werk Freuds (etwa ab Mitte der 20er Jahre) wird die Unter-scheidung »Autoerotismus – Narzissmus« weitgehend durch die Unterscheidung »primärer – sekundärer Narzissmus« ersetzt. Mit »primärem Narzissmus« wird nun ein vor der Bildung des Ichs gelegener Zustand sder Entwicklung bezeichnet, dessen Urbild das intrauterine Leben, die totale Geborgenheit im Mutterleib, ist. (Leseprobe aus: Kriz, Grundkonzepte der Psychotherapie, 2014)




以上、フロイトがナショナリズムのナルシシズム的性格[narzißtischer Natur]というとき、通常の解釈では二次ナルシシズムだが、場合によっては原ナルシシズムかもしれないよ、つまり母なる大地愛だ。たとえば「母なるロシア」という表現がしばしば使われるが、マザコンロシア民族においては、原ナルシシズムの匂いがプンプンするね。これは特にトルストイやチェーホフを読むと、実にそう感じる。



The personification of Russia is traditionally feminine and most commonly maternal since medieval times.


Most common terms for national personification of Russia are:


Mother Russia (Russian: Матушка Россия, tr. Matushka Rossiya, "Mother Russia"; also, Россия-матушка, tr. Rossiya-matushka, "Russia the Mother", Мать-Россия, tr. Mat'-Rossiya, Матушка Русь, tr. Matushka Rus' , "Mother Rus' "), 

Homeland the Mother (Russian: Родина-мать, tr. Rodina-mat' ).


In the Russian language, the concept of motherland is rendered by two terms: "родина" (tr. rodina), literally, "place of birth" and "отчизна" (tr. otchizna), literally "fatherland".


Harald Haarmann and Orlando Figes see the goddess Mokosh a source of the "Mother Russia" concept. (Wikipedia)


いかにも父権的なアングロサクソンがロシアを嫌う真の根はここにあるのかもしれないぜ。



英米流フェミニズムに見られる「激しい怨嗟」の理由  

エマニュエル・トッド「今のフェミニズムは男女の間に戦争を起こそうとする、現実離れしたイデオロギー」2022.2.19

じつはプロテスタントはかなり「家父長制」的なところがあり、それにくらべればカトリックの「家父長制」的な部分は曖昧なのです。


意外かもしれませんが、英米圏では最初から女性の地位がフランスより高かったわけではありません。プロテスタントは男性と女性の関係において、もとのキリスト教よりも退行していました。カトリックには聖母マリアの信仰があり、女性中心の側面もありますが、それにくらべるとルターのメッセージは非常に父権的であり、マリアという女性ではなくイヴという罪をおかした女性が前面に出てきます。