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2022年11月17日木曜日

安吾の女の定義「女とは、思考する肉体であり、そして又、肉体なき何者かの思考」

 

女の定義は、次の安吾の定義が決定的じゃないかね。


素子とは何者であるか? 谷村の答へはたゞ一つ、素子は女であつた。そして、女とは? 谷村にはすべての女がたゞ一つにしか見えなかつた。女とは、思考する肉体であり、そして又、肉体なき何者かの思考であつた。この二つは同時に存し、そして全くつながりがなかつた。つきせぬ魅力がそこにあり、つきせぬ憎しみもそこにかゝつてゐるのだと谷村は思つた。   (坂口安吾「女体」1946年)


《女とは、思考する肉体であり、そして又、肉体なき何者かの思考であつた》ーーこの安吾はラカンの性別化の式に現れていることだ。もっとも晩年のラカンにとって、性別化の式は二次的なものになり、女性の享楽は男女両性にある身体の享楽になったということはあるが➡︎性別化の式のデフレと女性の享楽の一般化」。


そうは言っても象徴秩序(言語秩序)レベルでの現象面では捨て難い図式であるのは間違いない。




ここにあるのは、

まず男は

$ → a[フェティッシュ(a)]


一択だと言うことだ。


他方、女は

L → Φ [ファルス享楽]

L → S(Ⱥ)[身体の享楽]


の二択ということだ。


ファルスというのはラカンの定義において、言語、つまり象徴界だ。



ファルスの意味作用とは実際は重複語である。言語には、ファルス以外の意味作用はない。Die Bedeutung des Phallus  est en réalité un pléonasme :  il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus.  (ラカン, S18, 09 Juin 1971)

象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage](Lacan, S25, 10 Janvier 1978)


で、身体(欲動の身体)は現実界の穴Ⱥ。

身体は穴である[(le) corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)

欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する。穴は原抑圧と関係する[il y a un réel pulsionnel … je réduis à la fonction du trou.…La relation de cet Urverdrängt](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975、摘要)

現実界は穴=トラウマをなす[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)




ファルス享楽、つまり言語の享楽の別名は、パロール享楽、ペチャクチャ喋りまくる享楽だ。

女性の享楽は二つの顔がある。その一方は身体の享楽である。しかし二番目に、ーーもっともラカンはそれを十分には記していないが、彼の言っていることからすべてがそこに集中するーーこの享楽はパロール享楽だということである。jouissance féminine …en fait elle a deux faces.  C'est, d'un côté, la jouissance du corps,… Mais, deuxièmement – et bien que Lacan ne l'écrive pas en toutes lettres, mais tout converge là de ce qu'il énonce –, c'est la jouissance de la parole.  (J.-A. Miller, Un répartitoire sexuel, 1999, 摘要)

ラカンは、大胆かつ論理的に、パロール享楽をファルス享楽と同じものとしている。ファルス享楽が身体と不一致するという理由で[jouissance de la parole que Lacan identifie, avec audace et avec logique, à la jouissance phallique en tant qu'elle est dysharmonique au corps. ](J.-A. Miller, L'inconscient et le corps parlant, 2014)


ラカン曰くはパロール享楽=癌の享楽だから、安吾曰くの《つきせぬ憎しみもそこにかゝつてゐる》のさ

パロールは寄生虫。パロールはうわべ飾り。パロールは人間を悩ます癌の形式である[La parole est un parasite. La parole est un placage. La parole est la forme de cancer dont l'être humain est affligé.](Lacan, S23, 17 Février 1976)



要するにラカンの定式では、女は身体の享楽とパロール享楽が同時に存在するということだ。


これは厳密に安吾の定義だよ、《女とは、思考する肉体であり、そして又、肉体なき何者かの思考であつた。この二つは同時に存し、そして全くつながりがなかつた。つきせぬ魅力がそこにあり、つきせぬ憎しみもそこにかゝつてゐるのだと谷村は思つた。》  (安吾「女体」1946年)


しかも安吾はこの「女体」の続きもので女のリアルをポロッと口にしている、《女が真実を語るのは、言葉でなしに、からだでだ。》(坂口安吾「恋をしに行く」1947年)


ようは安吾はラカンに決定的に先行して女を捉えてんだ。



ガキみたいなやつばかりの日本ラカン派の注釈書読む暇があったら、その前に安吾をしっかり読んどかないとな、わかるかい? 


デュラスでもいいけどさ。

フロイトとともに思い起こさねばならない。芸術の分野では、芸術家は常に分析家に先んじており[ l'artiste toujours le précède] 、精神分析家は芸術家が切り拓いてくれる道において心理学者になることはないのだということを[ il n'a donc pas à faire le psychologue là où l'artiste lui fraie la voie] 。 (ラカン 「マルグリット・デュラスへのオマージュ HOMMAGE FAIT A MARGUERITE DURAS 」、AE193、1965年)



究極の女性の享楽S(Ⱥ)は、黒い夜の享楽だろうからさ


愛するという感情は、どのように訪れるのかとあなたは尋ねる。彼女は答える、「おそらく宇宙のロジックの突然の裂け目から」。彼女は言う、「たとえばひとつの間違いから」。 彼女は言う、「けっして欲することからではないわ」。

Vous demandez comment le sentiment d'aimer pourrait survenir. Elle vous répond : Peut-être d'une faille soudaine dans la logique de l'univers. Elle dit : Par exemple d'une erreur. Elle dit : jamais d'un vouloir. Vous demandez : 


あなたは尋ねる、「愛するという感情はまだほかのものからも訪れるのだろうか」と。あなたは彼女に言ってくれるように懇願する。彼女は言う、「すべてから、夜の鳥が飛ぶことから、眠りから、眠りの夢から、死の接近から、ひとつの言葉から、ひとつの犯罪から、自己から、自分自身から、突然に、どうしてだかわからずに」。

Le sentiment d'aimer pourrait-il survenir d'autres choses encore ? Vous la suppliez de dire. Elle dit : de tout, d'un vol d'oiseaux de nuit, d'un sommeil, d'un rêve de sommeil, de l'approche de la mort, d'un mot, d'un crime, de soi, de soi-même, soudain sans savoir comment. 


彼女は言う、「見て」。彼女は脚を開き、そして大きく開かれた彼女の脚のあいだの窪みにあなたはとうとう黒い夜を見る。あなたは言う、「そこだった、黒い夜[la nuit noire]、それはそこだ」

Elle dit : Regardez. Elle ouvre ses jambes et dans le creux de ses jambes écartées vous voyez enfin la nuit noire. Vous dites : C'était là, la nuit noire, c'est là.(マルグリット・デュラス『死の病 La maladie de la mort』1981年)




男は不幸にも黒い夜もってないからさ、フェティッシュで誤魔化して、だから究極の身体の享楽は女のものだよ、究極のファルス享楽が女のものであると同時にね。


ジイドを不安で満たして止まなかったものは、女の形態の光景の顕現、女のヴェールが落ちて、ブラックホールのみを見させる光景の顕現である[toujours le désolera de son angoisse l'apparition sur la scène d'une forme de femme qui, son voile tombé, ne laisse voir qu'un trou noir ](Lacan, JEUNESSE DE GIDE, E750, 1958)



女が二つの享楽に分裂する理由はハッキリしてんだ。ブラックホールのせいに決まってるよ。


あなたを呑み込むヴァギナデンタータ、究極的にはすべてのエネルギーを吸い尽すブラックホールとしてのS(Ⱥ)の効果[an effect of S(Ⱥ) as a sucking vagina dentata, eventually as an astronomical black hole absorbing all energy ](ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?、1997)

ヒステリーにおけるエディプスコンプレクス…何よりもまずヒステリーは過剰なファルス化を「選択」する、ヴァギナについての不安のせいで。the Oedipus complex in hysteria,…that hysteria first of all 'opts' for this over-phallicisation because of an anxiety about the vagina. . (PAUL VERHAEGHE,  DOES THE WOMAN EXIST?, 1997)





ほかにもリルケとかさ、男がフェティッシュ享楽に過ぎないのは、死を胸内にしかもってないせいだよ


昔は誰でも、果肉の中に核があるように、人間はみな死が自分の体の中に宿っているのを知っていた(あるいはおそらくそう感じていた)。子どもは小さな死を、おとなは大きな死を自らのなかにひめていた。女は死を胎内に、男は胸内にもっていた。誰もが死を宿していた。それが彼らに特有の尊厳と静謐な品位を与えた。

Früher wußte man (oder vielleicht man ahnte es), daß man den Tod in sich hatte wie die Frucht den Kern. Die Kinder hatten einen kleinen in sich und die Erwachsenen einen großen. Die Frauen hatten ihn im Schooß und die Männer in der Brust. Den hatte man, und das gab einem eine eigentümliche Würde und einen stillen Stolz.(リルケ『マルテの手記』1910年)


ここに男女の決定的な相違があるんだ。


『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メドゥーサの首 》と呼ぶ[rêve de l'injection d'Irma, la révélation de l'image terrifiante, angoissante, de ce que j'ai appelé  « la tête de MÉDUSE »]。あるいは、名づけようもない深淵の顕現[la révélation abyssale de ce quelque chose d'à proprement parler innommable]と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象そのものがある[l'objet primitif par excellence,]…すべての生が出現する女陰の奈落 [- l'abîme de l'organe féminin, d'où sort toute vie]、すべてを呑み込む湾門であり裂孔[- aussi bien le gouffre et la béance de la bouche, où tout est englouti,   ]、すべてが終焉する死のイマージュ [- aussi bien l'image de la mort, où tout vient se terminer,]…(Lacan, S2, 16 Mars 1955)


このあたりはもはや「常識」にしないとな、少なくとも中学校あたりで教えとかないとダメだよーー《女の身体は冥界機械である。その機械は、身体に住んでいる精神とは無関係だ[The female body is a chthonian machine, indifferent to the spirit who inhabits it. ]》(カミール・パーリア camille paglia「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)。


この一般教養がないから、フェミの木瓜の花が咲き続けたり、さらにはアンチフェミのキャベツ頭が蔓延ることになる。



私はこの文脈でしばしばゴダールを掲げるが、トリュフォーだって女が歩くブラックホールだということは十全に示しているよ、女から逃げ出さず、女なるものを憧憬し続けた者ならみんな知ってることさ。トリュフォーの『恋愛日記』というのは最悪の邦題だね、あの原題は《女たちを愛した男[L'Homme qui aimait les femmes]》だ。





女なるものは存在しない。しかし存在しないからこそ、人は女なるものを夢見るのです。女なるものは(ファルスの)表象の水準では見いだせないからこそ、我々は女について幻想をし、女の絵を画き、賛美し、写真を撮って複製し、その本質を探ろうとすることをやめないのです。[La femme n'existe pas, mais c'est de ça qu'on rêve. C'est précisément parce qu'elle est introuvable au niveau du signifiant qu'on ne cesse pas d'en fomenter le fantasme, de la peindre, d'en faire l'éloge, de la multiplier par la photographie, qu'on ne cesse pas d'appréhender l'essence d'un être dont,](J.-A. MILLER「エル・ピロポ El Piropo 」1979年)



ラカンのテーゼ、《女なるものは存在しない。女たちはいる。だが女なるものは、人間にとっての夢である[La femme n'existe pas. Il y des femmes, mais La femme, c'est un rêve de l'homme.]》(Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme , 1975)、これだって野坂昭如が言ってんだよ。


「男どもはな、別にどうにもこうにもたまらんようになって浮気しはるんとちゃうんや。みんな女房をもっとる、そやけど女房では果たしえん夢、せつない願いを胸に秘めて、もっとちがう女、これが女やという女を求めはんのや。実際にはそんな女、この世にいてへん。いてえへんが、いてるような錯覚を与えたるのがわいらの義務ちゅうもんや。この誇りを忘れたらあかん、金ももうけさせてもらうが、えげつない真似もするけんど。目的は男の救済にあるねん、これがエロ事師の道、エロ道とでもいうかなあ。」(野坂昭如『エロ事師たち』1968年)


ーーな、間違いなくそうだ。



「映画とは女と銃なり」と《言ったのは、グリフィスであり、私ではない c'est Griffith qui a dit ça, ce n'est pas moi (ゴダール


Godard、HISTOIRE(S) DU CINEMA、1A


マジでチョロすぎるんだよ、フェミでもアンチフェミでも最近の社会学者系学者だけに限らず、日本のフロイトラカンの研究者たちはさ。芸術冷感症になっちまったせいが大きいね。


いくらでもあるさ、作家たちがとっくのむかしから核心を掴んでいた証拠は。ニブイ連中はただひたすらそれを真剣に受け止めていないできただけで。



男がものごとを考える場合について、頭と心臓をふくむ円周を想定してみる。男はその円周で、思考する。ところが、女の場合には、頭と心臓の円周の部分で考えることもあるし、子宮を中心にした円周で考えることもある。(吉行淳之介『男と女をめぐる断章』)

まったく、男というものには、女性に対してとうてい歯のたたぬ部分がある。ものの考え方に、そして、おそらく発想の根源となっている生理のぐあい自体に、女性に抵抗できぬ弱さがある。(吉行淳之介「わたくし論」)


蓮實重彦)…… そうした反応が起こるのは、女流作家の方が、〈子宮感覚〉でものを考えていらっしゃるからでしょうか(笑)。


金井美恵子) むしろ、その反対ではないでしょうか。その子宮感覚というのが、ほとんど男の批評家には単に彼等が肉体的にそれを持っていないということだけではなしに、理解できないわけですし、子宮で考えるということを、ほとんどの女流作家は、非常な軽蔑的な言葉として受け取っちゃうわけで、ほとんど、頭というものがない、と言われたと感じるようですね。批評家のほうは子宮感覚というものがどういうものであるかということを理解せずに使っているわけですから、これもまた、頭がからっぽイクォール男根がない、という意味で使用いたしますね。本来だったらほめ言葉かもしれないものを、妙なところでお互いに誤解したまま使い合っているという感じがしますね。(「『文章教室』では何を習うべきか」)



女たちは男たちより真のリアルを知っているんだ、少なくともそれを体感している。だがその真のリアルに対して過剰防衛する女たちもいる。それがファルス享楽としてのパロール享楽だ。男たちは真のリアルを軀に抱えていない。したがって過剰防衛する必要はない。だからフェティッシュ享楽なんだ。


男なんてかわいいもんさ、真の女の享楽に比べたら。あのクロソウスキーバルテュス兄弟だってしれてるよ。




私は「作家」でも「思想家」でも「哲学者」でもない――どんな表現様式においてであれ――そのうちのどれでもありはしない、かつても、今も、そしてこれからも一人の偏執狂であるというそのことに先立っては。je ne suis ni un "écrivain", ni un "penseur" ni un "philosophe" – ni quoi que ce soit dans aucun mode d' expression –, rien de tout cela avant d'avoir été, d'être et de rester un monomane »(ピエール・クロソウスキー『ルサンブランス』)



こういった作品や発言はS(Ⱥ)をファルスで過剰にヴェールした女たちがそのパロールで、「男っていやねえ、ほんとに」と言うだけで、真の女はけっしてそんなことは言わない。むしろ男のカワイラシサに「同情」したり、場合によっては馬鹿にする傾向がある。チガウカイ?





男ってのは結局、地獄が怖いんだよ、真の女と違ってさ



溺れる者  桐野かおる


色恋に溺れたらあかんて

口癖のように言うてたおばちゃんが色恋に溺れてしもた

ほんま人間てわからんもんやな

〔・・・〕

溺れたらあかんあかん思いながら溺れていく時の気持ちて

どんなんやろ

わかってもらおなんて思てませんて

そんな薄情な事言わんと

ウチにだけでええからそっと教えてんか

そこは極楽なんか地獄なんか


ーー桐野かおる『盗人』(20201105日発行)所収



この小径は地獄へゆく昔の道

プロセルピナを生垣の割目からみる

偉大なたかまるしりをつき出して

接木している


ーー西脇順三郎 夏(失われたりんぼくの実)



恋人の小路は近道だが

避けたらいい

犬の死骸が

あることがある


ーー西脇順三郎 えてるにたす



最後に野暮系の精神分析でもう一度補っておこう、ニブイ人たちのために。



《真の女は常にメデューサである[une vraie femme, c'est toujours Médée. ]》(J.-A. Miller, De la nature des semblants, 20 novembre 1991)


メドゥーサの首が女性器を代替する時、いやむしろ女性器の淫欲効果から戦慄効果を分離させるとき、場合によって女性器の剥き出しは厄除け行為として知られていることを想起できる[Wenn das Medusenhaupt die Darstellung des weiblichen Genitales ersetzt, vielmehr dessen grauenerregende Wirkung von seiner lusterregenden isoliert, so kann man sich erinnern, dass das Zeigen der Genitalien auch sonst als apotropäische Handlung bekannt ist. ]


恐怖を引き起こすものは、敵を追い払うのと同じ効果があろう。ラブレーにおいても、女にヴァギナを見せられて悪魔は退散している[Was einem selbst Grauen erregt, wird auch auf den abzuwehrenden Feind dieselbe Wirkung äussern. Noch bei Rabelais ergreift der Teufel die Flucht, nachdem ihm das Weib ihre Vulva gezeigt hat. ](フロイト、メデューサの首 Das Medusenhaupt(1940 [1922])