以下、きのうの深更酒を飲みながら記したもので、いま見ると、あっちに飛んだりこっちに飛んだりしてまとまりがないが、そのまま投稿する。
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失念していたが、まだ30代の柄谷がこう言っている。 |
マルクスのいう商品のフェティシズムとは、簡単にいえば、“自然形態”、つまり対象物が“価値形態”をはらんでいるという事態にほかならない。だが、これはあらゆる記号についてあてはまる。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』1978年) |
柄谷はあらゆる記号がフェティッシュだと言っているわけで、言語記号もフェティッシュだということだ。もちろんたとえばあらゆる芸術はフェティッシュだーー《フェティシズムは、最古代には、われわれ人間存在の基盤であった[le fétichisme qui, comme aux temps les plus anciens, reste à la base de notre existence humaine ]》(ミシェル・レリス Michel Leiris, « Alberto Giacometti », ドキュマンDocuments, n°4, sept. 1929) 先の柄谷は前回引用したラカンと同じことを言っていることになる。 |
人間の生におけるいかなる要素の交換も商品の価値に言い換えうる。…問いはマルクスの理論(価値形態論)において実際に分析されたフェティッシュ概念にある。pour l'échange de n'importe quel élément de la vie humaine transposé dans sa valeur de marchandise, …la question de ce qui effectivement a été résolu par un terme …dans la notion de fétiche, dans la théorie marxiste. (Lacan, S4, 21 Novembre 1956) |
ここでマルクスの商品の謎めいた性格、つまり商品のフェティシズム的性格をめぐる文を掲げよう。 |
一見したところ、商品はきわめて明白でありふれた物に見える。だがそれを分析してみると、形而上学的神秘や神学的微妙さに満ちた、何とも厄介な物であることがわかる。Eine Ware scheint auf den ersten Blick ein selbstverständliches, triviales Ding. Ihre Analyse ergibt, daß sie ein sehr vertracktes Ding ist, voll metaphysischer Spitzfindigkeit und theologischer Mucken.〔・・・〕 商品形態の謎めいた性格[Das Geheimnisvolle der Warenform ]とは偏に次のことにある;商品形態が彼ら自身の労働の社会的性格を、諸労働生産物自身がもつ対象的な諸性格、これら諸物の社会的な諸自然属性として、人の眼に映し出し、したがって生産者たちの社会の総労働との社会的関係を彼の外に存在する諸対象の社会的関係として映し出す。この置き換えに媒介されて労働生産物は商品、すなわち人にとって、超感覚的な物あるいは社会的な物[sinnlich übersinnliche oder gesellschaftliche Dinge]になる。〔・・・〕 |
(商品がもつ謎めいた性格の)類例を見出すには宗教の領域[die Nebelregion der religiösen Welt ]に赴かなければならない。そこでは人間のこしらえた物が独自の命を与えられて、相互に、また人々に対していつでも存在する独立に姿で現れるからである。同様に、商品世界では人の手の諸生産物が命を吹き込まれて、互いに、また人間たちとも関係する自立した姿で表れている。 これを私はフェティシズムと名づける。それは諸労働生産物が商品として生産されるや忽ちのうちに諸労働生産物に取り憑き、そして商品生産から切り離されないものである。Dies nenne ich den Fetischismus, der den Arbeitsprodukten anklebt, sobald sie als Waren produziert werden, und der daher von der Warenproduktion unzertrennlich ist.(マルクス 『資本論』第一篇第一章第四節「商品のフェティシズム的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」) |
さらに同じ資本論の冒頭に、商品語は人間語と一緒だよ、と読める文もある➡︎「マルクスの商品語=ラカンの人間語」
30代の柄谷が20代の小林秀雄を引用して語っているのはこのフェティッシュだ。 |
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マルクスは商品の奇怪さについて語ったが、われわれもそこからはじめねばならない。商品とはなにかを誰でも知っている。だが、その「知っている」ことを疑わないかぎり、商品の奇怪さはみえてこないのである。たとえば、『資本論』をふりまわすマルクス主義者に対して、小林秀雄はつぎのようにいっている。 《商品は世を支配するとマルクス主義は語る。だが、このマルクス主義が一意匠として人間の脳中を横行する時、それは立派な商品である。そして、この変貌は、人に商品は世を支配するといふ平凡な事実を忘れさせる力をもつものなのである。》(「様々な意匠」) |
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むろん、マルクスのいう商品とは、そのような魔力をもつ商品のことなのである。商品を一つの外的対象として措定した瞬間に、商品は消えうせる。そこにあるのは、商品形態ではなく、ただの物であるか、または人間の欲望である。言うまでもなく、ただの物は商品ではないが、それなら欲望がある物を商品たらしめるのだろうか。実は、まさにそれが商品形態をとるがゆえに、ひとは欲望をもつのだ。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』1978年) |
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小林秀雄は事実上、様々な意匠のうちのひとつ、マルクス主義の「意匠」はフェティッシュだとしていることになる。 さらにこの文脈のなかで、言葉の魔術を語っているわけで、事実上、言葉はフェティッシュだと言っていることになる。 |
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吾々にとつて幸福な事か不幸な事か知らないが、世に一つとして簡単に片付く問題はない。遠い昔、人間が意識と共に与へられた言葉といふ吾々の思索の唯一の武器は、依然として昔乍らの魔術を止めない。劣悪を指嗾しない如何なる崇高な言葉もなく、崇高を指嗾しない如何なる劣悪な言葉もない。而も、若し言葉がその人心眩惑の魔術を捨てたら恐らく影に過ぎまい。〔・・・〕 脳細胞から意識を引き出す唯物論も、精神から存在を引き出す観念論も等しく否定したマルクスの唯物史観に於ける「物」とは、飄々たる精神ではない事は勿論だが、又固定した物質でもない。(小林秀雄「様々なる意匠」1929年) |
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というわけで、この27才の小林だって「言語はフェティッシュだ」と分かってたんだ。だから全然驚いたらダメなんだよ、これはマルクスの『資本論』の冒頭に事実上書いてあることで、頭脳の明晰さを以て冒頭だけを読み込んだら、それが掴めるんだ。キャベツ頭のマルクス研究者だけだよ、この今になってもまだそれが分かってないのは。 先の柄谷の《それが商品形態をとるがゆえに、ひとは欲望をもつのだ》(『マルクスその可能性の中心』1978年)とは、「フェティッシュ形態をとるがゆえ、人は欲望をもつ」だ。これ自体、次のラカン等価だ。
晩年のフロイトにとって自我もフェティッシュだ[参照]。日本の心理学ってのはおおむね自我心理学だからフェティッシュ心理学だよ、あれは。
もっとも穴は埋まらないから永遠の反復強迫が起こるんだが。
この穴埋めは実はハイネどころかヘーゲル自身が言っている。 |
この全き空無[ganz Leeren]は至聖所[Heilige]とさえ呼びうる。我々は、その空無の穴埋めせねばならない、意識自体によって生み出される、夢想・仮象によって。何としても必死になって取り扱わねばならない何かがあると考えるのだ。というのは、何ものも空無よりはましであり、夢想でさえ空無よりはましだから。 damit also in diesem so ganz Leeren, welches auch das Heilige genannt wird, doch etwas sei, es mit Träumereien, Erscheinungen, die das Bewußtsein sich selbst erzeugt, zu erfüllen; es müßte sich gefallen lassen, daß so schlecht mit ihm umgegangen wird, denn es wäre keines bessern würdig, indem Träumereien selbst noch besser sind als seine Leerheit. (ヘーゲル『精神現象学』1807年) |
至聖所ってのはもちろんサンスクリツト語ガルバグリハ garbha-grha (「子宮」)だろうからさ、精神で穴埋めするのさ |