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2021年9月9日木曜日

マルクスの商品語=ラカンの人間語

 何度か記してきたんだけどーー最近はもうやめたがーー、柄谷の『世界史の構造』の基盤にある交換様式とはトラクリのこのひと文でまずはいいんだよ。


広い意味で、交換(コミュニケーション)でない行為は存在しない。〔・・・〕その意味では、すべての人間の行為を「経済的なもの」として考えることができる。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)


で、次のラカンと上の柄谷は事実上、同じこと言ってんだ。


症状概念。注意すべき歴史的に重要なことは、フロイトによってもたらされた精神分析の導入の斬新さにあるのではないことだ。症状概念は、私は何度か繰り返し示してきたが、マルクスを読むことによって、とても容易くその所在を突き止めるうる。la notion de symptôme. Il est important historiquement de s'apercevoir que ce n'est pas là que réside la nouveauté de l'introduction à la psychanalyse réalisée par FREUD : la notion de symptôme, comme je l'ai plusieurs fois indiqué, et comme il est très facile de le repérer, à la lecture de celui qui en est responsable, à savoir de MARX.Laca,.S.18,16 Juin 1971)



要するにマルクスもラカンも基本のところはコミュニケーションの症状を分析したんだ。最も簡潔にそれを照合させれば、こうだ。



マルクス

一商品の価値は他の商品の使用価値で表示される[der Wert einer Ware im Gebrauchswert der andren. ](マルクス『資本論』第一篇第三節「相対的価値形態Die relative Wertform」)

ラカン

一つのシニフィアン(S1)は他のシニフィアン(S2)に対して主体($)を表象する[ un signifiant représente un sujet pour un autre signifiant ](ラカン「主体の転覆」E819, 1960年)


マルクス

どんな商品も等価物としての自分自身に関連することはできず、したがってまたそれ自身の自然的外皮をそれ自身の価値の表現にすることはできないから、どんな商品も等価物としての他の商品に関連せざるをえない[Da keine Ware sich auf sich selbst als Äquivalent beziehn, also auch nicht ihre eigne Naturalhaut zum Ausdruck ihres eignen Werts machen kann, muß sie sich auf andre Ware als Äquivalent beziehn ](マルクス第一篇第一章第三節「等価形態 Die Äquivalentform」)

ラカン

すべてのシニフィアンの性質はそれ自身をシニフィアン(表象)することができないことである[ il est de la nature de tout et d'aucun signifiant de ne pouvoir en aucun cas se signifier lui-même.](ラカン、S1416 Novembre 1966)

シニフィアンは、それが言語の部分であるという限りで、他の記号と関連する一つの記号である。言い換えれば、二つ組で己れに対立する[le signifiant, en tant qu'il fait partie du langage, c'est un signe qui renvoie à un autre signe, en d'autres termes :  pour s'opposer à lui dans un couple (ラカン, S3, 14 Mars 1956



完璧にピッタンコだろ。上の文には剰余享楽(a)つまり剰余価値はないが、それを含めた図が、ラカンの言説理論の次の図だよ。




より厳密に置き直せば、次のようになる。




これはマルクスから抜き出せば、次の二文だ。



もし商品が話すことができるならこう言うだろう。われわれの使用価値[Gebrauchswert]は人間の関心をひくかもしれない。だが使用価値は対象としてのわれわれに属していない。対象としてのわれわれに属しているのは、われわれの(交換)価値である。われわれの商品としての交換がそれを証明している。われわれは互いにただ交換価値[Tauschwerte]としてのみ互いに関係している。Könnten die Waren sprechen, so würden sie sagen, unser Gebrauchswert mag den Menschen interessieren. Er kommt uns nicht als Dingen zu. Was uns aber dinglich zukommt, ist unser Wert. Unser eigner Verkehr als Warendinge beweist das. Wir beziehn uns nur als Tauschwerte aufeinander.(マルクス 『資本論』第1篇第1章第4節「商品のフェティシズム的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」)


…価値はここでは一つの過程の主体になるのであって、この過程のなかで絶えず貨幣と商品とに形態を変換しながらその大きさそのものを変え、原価値としての自分自身から剰余価値[Mehrwert] としての自分を突き放し、自分自身を増殖するのである。なぜならば、価値が剰余価値をつけ加える運動は、価値自身の運動であり、価値の増殖であり、したがって自己増殖[ Selbstverwertung] であるからである。


der Wert hier das Subiekt eines Prozesses, worin er unter dem beständigen Wechsel der Formen von Geld und Ware seine Größe selbst verändert, sich als Mehrwert von sich selbst als ursprünglichem Wert abstößt, sich selbst verwertet. Denn die Bewegung, worin er Mehrwert zusetzt, ist seine eigne Bewegung, seine Verwertung also Selbstverwertung. (マルクス『資本論』第1巻第2章第1節「資本の一般的形態 Die allgemeine Formel des Kapitals」)



ラカンなら手始めは次の文だ。


主体は、他のシニフィアンに対する一つのシニフィアンによって代表象されうるものである[Un sujet c'est ce qui peut être représenté par un signifiant pour un autre signifiant]。しかしこれは次の事実を探り当てる何ものかではないか。すなわち交換価値[valeur d'échange として、マルクスが解読したもの、つまり経済的現実において、問題の主体、交換価値の主体[le sujet de la valeur d'échange は何に対して代表象されるのか? ーー使用価値[valeur d'usage である。


そしてこの裂け目のなかに既に生み出されたもの・落とされたものが、剰余価値[plus-value]と呼ばれるものである。この喪失[perte は、我々のレヴェルにおける重要性の核心である。(ラカン, S16, 13 Novembre 1968


ラカンはここで剰余価値=喪失としか言っていないが、剰余価値には穴埋めの意味もある。「喪失=穴」の穴埋めだ。


剰余享楽とは、「喪失」と「その穴埋めとしての別の獲得の投射」の両方を表現している[le plus-de-jouir. Il s'y présente à la fois comme la perte et le projet d'un autre gain qui compense . (Gisèle Chaboudez, Le plus-de-jouir , 2013)

剰余享楽としての享楽は、穴埋めだが、享楽の喪失を厳密に穴埋めすることは決してない[la jouissance comme plus-de-jouir, c'est-à-dire comme ce qui comble, mais ne comble jamais exactement la déperdition de jouissance(J.-A. Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)



これはラカン自身であれば次の文に相当する。


装置が作動するための剰余享楽の必要性がある。つまり享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない[la nécessité du plus-de-jouir pour que la machine tourne, la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ]〔・・・〕剰余価値[Mehrwert]、それはマルクス的悦[Marxlust]、マルクスの剰余享楽[le plus-de-jouir de Marx]である。(ラカン, Radiophonie, AE434, 1970


次の文では享楽欠如と言っているが、これが享楽の喪失=享楽の穴だ。


剰余価値は欲望の原因であり、経済がその原理とするものである。経済の原理とは「享楽欠如 manque-à-jouir」の拡張的生産の、飽くことをしらない原理である[la plus-value, c'est la cause du désir dont une économie fait son principe : celui de la production extensive, donc insatiable, du manque-à-jouir.](Lacan, RADIOPHONIE, AE435,1970年)


ーー《対象aは、「喪失・享楽控除の効果」と「その喪失を穴埋めする剰余享楽の欠片」の効果の両方を示す。l'objet a qui inscrit à la fois l'effet de perte, le moins-de-jouir, et l'effet de morcellement des plus-de-jouir qui le compensent. 》Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)



このあたりは一般にはとても難しいだろうが、穴=享楽の喪失、これが主体であり、マルクスの使用価値だ。


現実界のなかの穴は主体である。Un trou dans le réel, voilà le sujet. (Lacan, S13, 15 Décembre 1965)

主体はどこにあるのか? われわれは唯一、喪われた対象としての主体を見出しうる。より厳密に言えば、喪われた対象は主体の支柱である。


Où est le sujet ? On ne peut trouver le sujet que comme objet perdu. Plus précisément cet objet perdu est le support du sujet (ラカン, De la structure en tant qu'immixtion d'un Autre préalable à tout sujet possible, ーーintervention à l'Université Johns Hopkins, Baltimore, 1966)


ミレールとゲガーンの注釈ならこうなる。


ラカンは強調した、疑いもなく享楽は主体の起源に位置付けられると。Lacan souligne que la jouissance est sans doute ce qui se place à l'origine du sujet(J.-A. Miller, Une lecture du Séminaire D'un Autre à l'autre, 2007)

私は、斜線を引かれた享楽(穴)を斜線を引かれた主体と等価とする。[le « J » majuscule du mot « Jouissance », le prélever pour l'inscrire et le barrer …- équivalente à celle du sujet :(- J) (J.-A. MILLER, - Tout le monde est fou – 04/06/2008

主体の根源的パートナーは、享楽の喪失自体・喪われた対象から成っている[le partenaire fondamental du sujet est fait de sa propre perte de jouissance, son objet perdu.](ピエール-ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, Encore : belvédère sur la jouissance, 2013



繰り返せば、このあたりは難しいよ、ラカン研究者でもわかっている人はわずかだね。でも最低限、先ほど上にあげた「商品の交換=人間のコミュニケーション」、つまりマルクスのいう商品語は人間語だということはおさえておくべきだ。


人はみな常にこの図式をやっている。




いまもシニフィアン私(S1)は、主体の穴($)を覆いつつ、他者のシニフィアン(S2)に向かってコミュニケーション=交換している経済的な「表象の主体」=交換価値だ。だがそれは喪失を生み穴埋めしなければならない。そして穴埋めは十分にはなされない。残滓がある(《享楽は残滓 (а)  による[la jouissance…par ce reste : (а) 》 (ラカン, S10, 13 Mars 1963))。使用価値としての斜線を引かれた主体($)は、この穴埋めとしての剰余価値とは決して合致しない。


この剰余享楽=剰余価値がシニフィアン私に戻ってきて永遠の回転運動が起こる。





資本家は、 G‐W‐G’ G G )という自己運動に積極的にとびこんで行かねばならない〔・・・〕。使用価値は、けっして資本家の直接目的として取り扱われるべきではない。個々の利得もまたそうであって、資本家の直接目的として取り扱われるべきものは、利得の休みなき運動でしかないのだ。〔・・・〕


資本主義の原動力を、人々の欲望に求めることはできない。むしろその逆である。資本の欲動は「権利」(ポジション)を獲得することにあり、そのために人々の欲望を喚起し創出するだけなのだ。そして、この交換可能性の権利を蓄積しようとする欲動は、本来的に、交換ということに内在する困難と危うさから来る。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)


G G ってののG は資本プラス剰余価値であり、事実上先程の交換図の下段であり、ラカンの幻想の式だ。





幻想が主体にとって根源的な場をとるなら、その理由は主体の穴を穴埋めするためである[Si le fantasme prend une place fondamentale pour le sujet, c'est qu'il est appelé à combler le trou du sujet   (J.-A. Miller, DU SYMPTÔME AU FANTASME, ET RETOUR, 8 décembre 1982)


あるいは、

ラカンは、主体の不在[l'absence du sujet]の場処を示すために隠喩を使い、詩的に表現した、《欲動の藪のなかで燃え穿たれた穴 rond brûlé dans la brousse des pulsions]》(E666, 1960)と。欲動の薮、すなわち享楽の藪[la brousse de la jouissance]である。享楽のなかの場は空虚化されている[où dans la jouissance une place est vidée]。この享楽の藪のなかの場は、シニフィアンの主体[le sujet du signifiant]が刻印されうる. (J.-A. MILLER, - Tout le monde est fou – 04/06/2008, 摘要訳)



ま、でもこのへんはいいよ、突っ込んでいけばいくほど、基本がない人はおそらく混乱する。さらに本来はここで資本の言説図を導入しなくちゃならない。




でも基本は上図の左側(主人の言説)、つまりさきほどあげた商品語図だ。


さらに簡単に主人の言説ではなく四つの言説の基盤図で言えば、次のことだ。



これを商品語の交換でもやっているんだ、商品同士のコミュニケーションでも。これが言語を使用する人間の宿命であり、これがマルクスの価値形態論の基盤だ。

………………

※付記


真理とは繰り返せば、斜線を引かれた主体だ。


私は斜線を引かれた享楽を斜線を引かれた主体と等価とする。[le « J » majuscule du mot « Jouissance », le prélever pour l'inscrire et le barrer […]- équivalente à celle du sujet :(- J) (J.-A. MILLER, - Tout le monde est fou – 04/06/2008


別名、去勢された主体。マルクスの去勢された使用価値。


私は、斜線を引かれた主体を去勢と等価だと記す。[j'écris S barré équivalent à moins phi :   $ (−φ)  (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XV, 8/avril/2009)

われわれは去勢と呼ばれるものを、 « - J »(斜線を引かれた享楽)の文字にて、通常示す。[qui s'appelle la castration : c'est ce que nous avons l'habitude d'étiqueter sous la lettre du « - J ». (Lacan, S15, 10  Janvier  1968


要するに唯一の真理は去勢である。


要するに、去勢以外の真理はない[En somme, il n'y a de vrai que la castration  (Lacan, S24, 15 Mars 1977)


もっともフロイトラカン的な去勢には何種類もあるが。


享楽は去勢である。[la jouissance est la castration.]〔・・・〕問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ。[La question est de savoir : j’ai employé le mot « la » castration, comme si c’était univoque, mais il y a incontestablement plusieurs sortes de castration ](Lacan parle à BruxellesLe 26 Février 1977


言説理論図の去勢は、基本的には象徴的去勢ーー言語による去勢ーーに相当するとは言え、その底部には現実界的去勢、さらに原動因としてに原去勢もある。


われわれはフロイトのなかに現前するものを持ち出すことができる、それが前面には出ていなくても。つまり原去勢[la castration originaire]である。これは象徴的去勢、想像的去勢、現実界的去勢の問題だけではない。そうではなく原去勢の問題である[Il ne s'agit pas seulement là de la castration symbolique, imaginaire ou réelle, mais de la castration originaire J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS COURS DU 17 MAI 1989)


これ自体、またとてもややこしいが、フロイトにとっての去勢の原像とは出産外傷に相当する。


乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢[der Säugling schon das jedesmalige Zurückziehen der Mutterbrust als Kastration]、つまり、自己身体の重要な一部の喪失[Verlust eines bedeutsamen, zu seinem Besitz gerechneten Körperteils と感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為[Geburtsakt ]がそれまで一体であった母からの分離[Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war]として、あらゆる去勢の原像[Urbild jeder Kastration]であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)


マルクスの使用価値てのは出産外傷あるのかね、あるかもな。ちょっとわかんないね。これはこの文を書いて生まれた宿題だな・・・ま、なにはともあれマルクスの核心は生産様式ではなく交換様式だよ、《私は『世界史の構造』 2010)で、 「生産様式から交換様式へ」ということを提唱しました。》(柄谷行人『交換様式入門』2017年)。人間だって原初は生産なんかせず、狩猟採集民として自然と交換している、というのが柄谷だ。



資本=ネーション=国家を越える手がかりは、やはり、遊動性にある。ただし、それは遊牧民的な遊動性ではなく、狩猟採集民的な遊動性である。定住以後に生じた遊動性、つまり、遊牧民、山地人あるいは漂泊民の遊動性は、定住以前にあった遊動性を真に回復するものではない。かえって、それは国家と資本の支配を拡張するものである。〔・・・〕交換様式Dにおいて、何が回帰するのか。定住によって失われた狩猟採集民の遊動性である。それは現に存在するものではない。が、それについて理論的に考えることはできる。(柄谷行人『柳田国男と山人 2014年)


人間の生産だって精子と卵子のコミュニケーションから始まるからな、なんでも始原は交換だってのは当たり前だ。



フロイトラカンともこの交換をおさえての、ある意味では出産外傷以前の不死の生(永遠の生)の始原の去勢だ。


生命ある物質は、死ぬ部分と不死の部分とに分けられる[die Unterscheidung der lebenden Substanz in eine sterbliche und unsterbliche Hälfte herだが胚細胞は潜在的に不死である[die Keimzellen aber sind potentia unsterblich ]。(フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年)


フロイトは、胚芽[germen]、卵子と精子[cet ovule et ce spermatozoïde]の二つの単位を語っている。それはざっと次のように言い得る。この要素の融合において生じるものは何か?ーー新しい存在である[c'est de leur fusion que s'engendre - quoi ? - un nouvel être.]。だがこれは細胞分裂(減数分裂 méiose)なし、控除なしでは起こらない[la chose ne va pas sans une méiose, sans une soustraction…]或る要素の控除[la soustraction de certains éléments]があるのである。(ラカン, S20, 20 Février 1973

リビドー、生の純粋な本能としてのリビドー 、不死の生としてのリビドーは、人が性的再生産の循環に従うことにより、生きる存在から控除される[La libido, […] en tant que pur instinct de vie, …de vie immortelle…de ce qui est justement soustrait à l'être vivant, d'être soumis au cycle de la reproduction sexuée. ](ラカン, S11, 20 Mai 1964, 摘要訳)


(- φ) le moins-phi は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance(- J) を表すフロイト用語である。(J.-A. MILLER , Retour sur la psychose ordinaire, 2009


ニーチェの永遠回帰はこの不死の生の回帰にかかわると読める箇所があるよ。



ディオニュソス的密儀においてのみ、古代ギリシア人の本能の全根源的事実は表現された。何を古代ギリシア人はこれらの密儀でもっておのれに保証したのであろうか永遠の生であり、生の永遠回帰である[Das ewige Leben, die ewige Wiederkehr des Lebens]。生殖において約束され清められた未来である[die Zukunft in der Vergangenheit verheißen und geweiht]。死の彼岸の生[Leben über Tod ]、流転の彼岸にある生への勝ちほこれる肯定である。


spricht sich erst in den dionysischen Mysterien der ganze Untergrund des hellenischen Instinkts aus. Denn was verbürgte sich der Hellene mit diesen Mysterien? Das ewige Leben, die ewige Wiederkehr des Lebens, die Zukunft in der Zeugung verheißen und geweiht, das triumphirende Jasagen zum Leben über Tod und Wandel hinaus, (ニーチェ「力への意志」遺稿、1887- 1888