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2021年9月9日木曜日

アフガニスタンは国ではない


Afghanistan – as the armies of the West are about to realise – is not a country. You can't "occupy" or even "control" Afghanistan because it is neither a state nor a nation. (Fisk, Robert. 'Forget the cliches, there is no easy way for the West to sort this out', Independent, Nov.17, 2001)


ーーというのは小山茂樹氏の論から拾ったものだ。


イギリスの著名な中東専門家であるロバート・フィスクは「西側の軍隊が覚るに至ったようにアフガニスタンは国ではない。そもそも国(ステイト)でも、国家(ネイション)でもないのだからアフガニスタンを"占領したり"、いわんや"支配したり "することはできない」と述べている。 (小山茂樹「アフガニスタンをめぐる政治力学」2002年)



私はこの二週間ぐらい前からから、ネットに落ちているアフガニスタンをめぐる論を何本か読んできたのだがーー何本かというか、二十本ぐらいは読んだかーー、この、先ほど行き当たったばかりの小山氏の論はとても勉強になったので、ここでその前半を引用しておく。


この論を読んで、「緊急討論!どうなる、アフガニスタン情勢」(2021/08/24)で、駐アフガニスタン特命全権大使だった高橋博史氏が「アフガン人はタリバンそのもの」(21:50あたりから)と言った理由がいくらか納得できるようになった。


◼️アフガニスタンをめぐる政治力学

ータリバン後の行方ー 小山茂樹 2002年、PDF

アフガニスタンの地政

アフガニスタンはきわめてまとまりにくい国である。この国は中央アジアと南・西アジア(インド、パキスタン)、あるいはイランなどの中東世界とのまさに文明の十字路であり、古来から幾多の強国の侵略を受けるとともに様々な文明の接点ともなってきた。しかし、それにもかかわらず、かつてこの国は外部勢力によって完全に支配されたことはなく、またそれでいて内部的にも強力な中央集権的国家が成立したこともほとんどないといってよい。


近世にいたって、イギリスは南下するロシアに対抗して、この国を手中におさめんとして183842年と187880年と二度わたって侵略したが、結局その経営に失敗して敗退した(第一次、第二次アフガン戦浄)。イギリスはこの第一次アフガン戦争の際カブールの占領には成功したものの、地元民の蜂起にあいイギリス守備隊4500名と12000名の非戦闘員がカブール撤退を企てたが、カイバル峠でわずか数名を除き全滅した。また、第二次アフガン戦争に際しても、イギリスは敗退し、イギリス正規軍がアジアで敗退する史上初の不名誉の記録をつくった。近年では1979年の旧ソ連のアフガニスタン侵攻失敗はあまりにも生々しい。ソ連は衛星国視していたアフガニスタンに反ソ政権の誕生するのを恐れてアフガニスタンに侵攻した。戦いは10年間に及び、10万人の兵力と33億ドルの資金を投与したが、1万人の死者と37000人の負傷者を出して、結局敗退せざるをえなかった。

険しい山岳地

アフガニスタン統一が容易でない理由は様々あるが、そのひとつはこの国の地形によるところが大きい。アフガニスタンの著しい特徴は国土の中央を北東から南西へ峻険なヒンズークシ山脈が走っていることである。ヒンズークシ山脈は、その北東端をタジキスタン、インドおよび中国に接するワーハーン回廊のバミール高地から発している。パミール高地はヒマラヤ山脈の延長上にあり、その最高峰は7600メートルに達する。この山脈は西に向かうにつれ次第に高度を低くしていくが、首都カブールの北方で依然45006000メートルの高さである。そこから扇状に広がり、コーヒ・バグマン(最高峰4700メートル)、コーヒ・ババ(5150メートル)、バンディバヤン(3750メートル)、サフィードバヤン(3170メートル)、パロマミサス(3600メートル)などの支脈の山脈が連なり、最後はハリー・ルード川に接して終わる。この主要な山岳の平均高度は45006000メートルに達し、その距離は国土の中央を中心に最長で東西966キロ、南北240キロにも及んでいる。


このため、全国土面積647500平方キロ(日本の1.75倍)の約50%は2000メートル以上の高地となっている。平地は、首都カブールに沿ってやがてインダス川に合流するカブール川の南部と、この扇状に広がる山岳の裾野をまくように西南から北方へアーク状に存在する。しかし、西部のへラート周辺を除けば、砂・瓦業・ローム層を主体とする不毛な砂漠地帯がほとんどである。北部のタジキスタンとウズベキスタンとの国境線を形成するアム・ダリア川以北には草原(ステップ)が広がる。


しかし、この国土を特徴づけるものは、なんといっても急峻かつ広大なヒンズークシ山脈の存在である。この山脈によってこの国は南北に分断されてきた。この山脈を横断する道路(峠)は無論いくつか存在するが、そのなかで1932年に自動車道として開かれたもっとも高度が低い道路(シバール峠)でさえも3260メートルに達するという。首都カブールと北部をつなぐ最重要道路であるサラン峠にいたっては3878メートルに達する難路である。このため旧ソ連は1964年にこの峠の直下に3キロに及ぶサラン・トンネルを建設した。このサラン地域一帯の山岳道路は北部と南部をつなぐ戦略的にきわめて重要なネットワークであり、内戦中の重火器の輸送路とし重要な役割を果たしたが、それらの道路の維持補修はきわめて悪く、車によるこの両地帯の交通は事実上困難な状況が今日も続いている。

多民族国家

いずれにせよ、この大山脈の存在によってアフガニスタンの一体性はきわめてそこなわれてきた。事実、この山脈の南側には、アーリア系のパシュトゥン人が多く生活するが北側にはトルコ系のウズベク人やダーリー語(ベルシア語の方言)を喋るタジク人が多く、山岳中のバーミヤンにはモンゴルの血統を引くといわれるハザラ人が住みついている。こうした多民族の存在がまた、アフガニスタンの統合を困難にしている第二の要素である。


アフガニスタンには正確な人口統計は存在しない。米国の中央情報局(CIA)の推計によれば、アフガニスタンには2000年現在約2500万人の人々が生活しているというが、パシュトゥン人がもっとも多く38%、次いでタジク人25%、ハザラ人19%、ウズペク人6%となっている。このほかモンゴル系のアイマク、イラン系の遊牧民バルーチ、同じくベルシア語系のギジルバーシュ、ヌーリスタン、トルコ系のトルクメン人、同じくキルギス人、などもおり、そのほかの少数民族を数えあげるとその総数は実に12を超えるとわれる。


最大多数のパシュトゥン人は、前述のようにパキスタンとの国境に沿ってアフガニスタン南部一帯に生活しているが、西南部のドウラニ部族と東部のギルザイ部族に二分されるが、このほかにタジ、マンガル、サフィ、マンマンド、マフマンドなどの部族が知られている。しかし、18世紀半ばのドウラニ朝の成立以来、ドウラニ部族が支配権を維持してきたほか、ソ連が侵攻後に樹立したカルマル政権などもいずれもドウラニ・パシュトゥンであった。カンダハルを本拠としてアフガニスタンを事実上支配していたイスラム原理主義組織タリバンの主体もドウラニ・パシュトゥン人であり、当初タリバンは東部のギルザイ・パシュトゥン人を激しく弾圧した。


20011116日、北部の重要都市マザリシャリフや首都カブールなどの奪還に成功した北部同盟は、タジク人中心でラバニ・前大統領が率いるイスラム協会、ウズペク人中心でドスタム将軍が率いるイスラム国民運動、ハザラ人中心のイスラム統一党の三派からなっているが、これらの非パシュトゥン系の民族とバシュトゥン民族との対立はアフガニスタンの複雑な民族構成を有力に物語るものである。


こうした主要な民族対立以外にも、ヒンズークシ山脈が形成するいくつもの支脈はさらに数千の孤立した渓谷や山岳を生み出し、そうした峡谷や山岳に分断された各地にさまざまな民族や部族が生活している。アフガニスタンを構成するのは中世的な典型的部族社会だいわれる所以がここにある。その意味でアフガニスタンを理解するためには部族社会とはどのような社会かを理解しておく必要がある。

部族社会の帰属意識

言うまでもなく、同一の祖先から同じ血を分かち合っているという認識が部族社会の本質的価値観であり、その社会を形成する粋でもある。部族社会が中心であったアラブ世界やイスラム世界でも、近代化が進行するなかで、この伝統的な部族社会が多かれ少なかれ変化を余儀なくされている。しかし、急峻な山脈によって分断され、道路通信などのインフラが未発達なアフガニスタンでは、この部族社会が強力に生き残っており、首都カブールなどの都市生活者を除けば、ほとんどの人々は今日なおこの部族的アイデンティティーを強く意識している。ある報告によれば、アフガニスタン国民の2/3以上はなんらかの部族と強くつながっており、残りの1/3の人々の関係も血縁的な結びつきが中心となっているという。


部族社会とは何か。それは同一の血族だと言う価値観がすべてに優先するシステムである。この部族社会では、自らのアイデンティティーや忠誠心は、その優先度がまず親族(いわゆるエクステンドファミリー)に帰属し、次いで血族、部族民族と拡散していく。それぞれのコミュニティの政治も経済もこの部族制度によってしきられる。部族の長(ハーン)は名望家で、一般に祖先から代代子孫に引き継がれてきているが、決して世襲ではなく、部族民の合意(ジルカ)によって選ばれる。部族民の忠誠心は部族の長に対する忠誠心として示される。つまり、この社会では帰属意識は血縁、あるいは拡大してもせいぜい地縁的に示されるが、社会全体、さらには国家(政府)全体に示されることはほとんどない。人々の結びつきは水平的(ホリゾンタル)であって、垂直的(ヴアーティカル)には機能しないのである。


このような社会をいかにしたら中央集権的な国家へ、いわゆる近代国家としてのまとまりに作り上げていくことができるのか。部族社会の典型であったアラビア半島の統一に成功したサウジアラビア初代国王アプドル・アジズ・イブン・サウード(いわゆるイブン・サウード)の腐心はまさにここにあった。彼はこれをイスラムに求めたのである。神の前には、すべての人間は平等であり、身分も社会的地位もない、等しい同胞(イフワーン)だという思想を拠りどころにして、彼は統一に成功した。部族社会は切り崩され、部族への忠誠心は最大優先順位の座を国家に明け渡していったのである。


しかし、アフガニスタンはそうではない。アフガニスタンは今日なお、強力な部族社会である。イスラム原理住義組織であるタリバンは厳格なイスラムの戒律を施行することによって、ある意味ではイブン・サウードの方式を持ち込んでアフガニスタンを統一しようとしたといえるだろう。しかし、米国の軍事攻撃の前にタリバン政権はあえなく崩壊を余儀なくされた。アフガニスタンの統一を困難にしている第三の理由がこれである。

5つの国に囲まれた内陸国

アフガニスタンは海への出ロを持たない完全な内陸(ランドロック)国である。アフガニスタンからもっとも近い海は南の隣国パキスタンを超えたアラビア海(インド洋)で、アフガニスタン南部から最短距離で530キロ、首都カブールから1200キロという閉された国である。この内陸国は5つの国に囲まれており、この国々がアフガニスタンの主要な民族と深いつながりを持つ。これがアフガニスタンの統一を困難にしている第四の理由である。


まず、アフガニスタンは東南部から西南部にかけて大きくパキスタンに囲まれている。パキスタンはかつてインドの一部であったが、そこから分離独立したイスラム教国である。したがって、パキスタンの人口のマジョリティはインドにも多数生活しているパンジャブ人だが、その北部一帯に、実は南部を中心にアフガニスタンでマジョリティをなすパシュトゥン人が2200万人(全パキスタンの約16%)も生活している。このパシュトゥン人がアフガニスタンとパキスタンにニ分されたのは、インドとの国境紛争が持続するのを恐れたイギリスが1893年アフガニスタンに押しつけた国境線(いわゆるデュラントライン)によってである。


しかし、この人為的な国境確定には無理があった。アフガニスタンは以来今日までこの国境の画定に不満を持ち、両国に分断されたパシュトゥン人はその統一を主張してきた。実際、同じ同胞意識を持つパシュトゥン人にとって、この国境は無用の長物であり、障害以外の何者でもなかった。パキスタンがアフガニスタンのパシュトゥン人の動向に関心を持ち、アフガニスタンがパシュトゥン人主体の体制にあることを支持してきたのも、パキスタンの政局の安定はパシュトゥン人の支持なしにはあり得ないからでもある。


ことにパキスタンはソ連のアフガニスタン侵攻時、アフガニスタンの反体制武装勢力、いわゆるムジャヒディン(イスラム戦士)の対ソ戦の聖域であり、兵姑基地として決定的に重要な役割を演じた。この結果、パキスタン国内にイスラム原理主義支援の温床が広がり、タリバン支持者が多数存在したのである。パキスタンがアフガニスタン攻撃のための米国への軍事基地提供に消極的であったのも、パキスタンがタリバン後の政権の行方に極度に神経をはりめぐらすのもこのためである。


アフガニスタン西部に接するのは大国イランである。イランはイスラム教シーア派を国教としているが、北部同盟の一つであるハザラ人を主体とするイスラム統一党も同様にイスラム教を信奉しており、イランはこれを支援している。アフガニスタンにはこのほかいくつかの少数民族もイランを支持しており、イランの影響力は無親できない。


周知のように、イランでは、1979年宗教勢力主導の下に革命が実現した。いわゆるイラン・イスラム共和国の成立である。イラン革命主導の頂点に立ったホメイニ師は近隣諸国への「イラン革命の輸出」を広言してはばからなかった。


米国をはじめとする西側勢力が従来もっとも恐れてきたのは、アフガニスタンにこのイランの影響力が高まることであった。米国がタリバンを事実上支援してきたのもこのイランの影響力の阻止をタリバンに託したからである。また、イスラム革命伝播の影に怯えたのはパキスタンも同様であった。イランの影響下に立つハザラ人主体のイスラム統一党が有力な一派を構成する北部同盟をパキスタンが忌み嫌うのもこのためである。


アフガニスタン北部にはトルクメニスタン、ウズベキスタン、タジキスタンの三国が隣接している。これらの諸国は、元来旧ソ連邦を構成する自治共和国であったが1991年のソ連邦崩壊によって独立した。いずれもこれらの諸国はイスラム教(スンナ派)国だが、産ガス国として近年自立傾向を強めつつあるトルクメニスタンを除き、他の二カ国はロシアと依然深い関係にある。ことに、アフガニスタンが北東部でくい込んでいるタジキスタンでは、イスラム原理主義の波及を恐れてきた。タリバンによるアフガニスタン全土の支配が確立すれば、もっともその影響を受けるのはタジキスタンであることは自明である。このため、タリバン系のイスラム原理主義組織やテロ組織の侵入を防止するため90年代後半以降、ロシア軍の駐留を求めてきた。北部同盟を構成する二大組織、イスラム国民運動(ウズペク人主体)とイスラム協会(タジク人主体)がロシアの資金と武器援助を受けてきたのはこのような事情を背景としている。


ロシアもまたタリバンなどのイスラム原理主義組織の浸透に深刻な苦悩を味わわされていた。ロシアは旧ソ連時代に抱えていた中央アジアのイスラム諸国の大半を独立分離させられた。しかし、ロシアは依然多くのイスラム教徒を抱え込んでおり、その代表的事例がチェチェン紛争に具体化されている。チェチェン共和国の人口約120万人のうちチェチェン人は80%を占め、この人々はいずれもイスラム教徒である。彼らは民族独立を求めて90年代半ば以降激しい闘争を繰り広げており、ロシアはこの独立闘争にタリバンなどのイスラム原理主義組織の影響が持ち込まれることを極度に恐れている。


いずれにせよ、内陸国アフガニスタンを取り囲むすべての国がアフガニスタンの有力民族の武装組織とつながりがあり、これらのスポンサーの利害によってこれらの各グループの動向が左右されざるを得ないという現実こそがアフガニスタンの自立と安定をそこなってきた最大の原因でもある。……(小山茂樹「アフガニスタンをめぐる政治力学ータリバン後の行方ー」2002年)