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2021年9月10日金曜日

ムジャーヒディーンとデュアランドライン

この二週間ほどほとんど無知のーーいや「ほとんど」という言葉は誤魔化しであり、まったき無知と言ったほうがよいーーアフガニスタンをめぐって毎日勉強したのだが(といっても三十分かせいぜい一時間程度である)、ムジャヒディン(ムジャーヒディーン)という言葉が頻出する。タリバン自身、ムジャヒディンと呼ばれるのを好むらしい。


アフガニスタンの公用語であるパシュトゥー語で「学生たち」を意味するタリバンは、1979~89年によるソ連のアフガニスタン侵攻に抵抗したムジャヒディン(イスラム・ゲリラ組織の戦士)によって形成された。カンダハル州のイマーム(イスラム教導師)だったムハマド・オマルが1994年にタリバンを創設し、米CIAとパキスタンの情報機関である軍情報統合局(ISI)が、同組織を密かに支援していた。


その後、パキスタンのマドラサ(イスラム神学校)で学んだパシュトゥン人の若者たちが、タリバンに参加した。パシュトゥン人は、アフガニスタンの南部と東部で多数派を占める民族であり、パキスタンの北部と西部における主要民族でもある。



タリバンはアフガニスタン南部を拠点とし、同地域で影響力を拡大していった。米シンクタンクの外交問題評議会はタリバンについて、ソ連軍の撤退後、1992年~96年にかけて対立する複数のムジャヒディン組織が争いを繰り広げていたなかで、アフガニスタンに安定をもたらすという約束を掲げて、国民の支持を獲得していったと説明している。(「タリバンとは何者か、なぜ恐れられるのか A Brief History of the Taliban's Rule in Afghanistan」スー・キム、2021年8月20日)



Wikipediaを見るとこうある。



ムジャーヒディーン(アラビア語: مجاهدينmujāhidīn)は、アラビア語で「ジハードを遂行する者」を意味するムジャーヒド(アラビア語: مجاهدmujāhidn)の複数形。一般的には、イスラム教の大義にのっとったジハードに参加する戦士たちのことを指す。今日ではイスラム教により連携した民兵や軍閥を指すことが多い。


歴史的には、個々のムスリム(イスラーム教徒)たちがジハードに対する意識を常に持っていたわけではなく、むしろ近代に至ってイスラム世界に対する侵略に対抗する民衆の抵抗運動において、ムジャーヒド意識が発揮されてきた。19世紀にインドで起こった対英ジハード「ムジャーヒディーン運動」は、その代表的なものである。

アフガニスタンで1978年にアフガニスタン人民民主党による共産政権が成立すると、各地で組織された反政府ゲリラが蜂起した。彼らは自分たちの闘争をアフガニスタンのイスラームを防衛するジハードと位置付け、自らムジャーヒディーンと名乗った組織にはブルハーヌッディーン・ラッバーニーが組織し、アフマド・シャー・マスードが軍事的に率いた「イスラーム協会」や、グルブッディーン・ヘクマティヤールが率いる「ヒズビ・イスラーミー(イスラーム党)」、毛沢東主義を掲げるアフガニスタン・ムジャーヒディーン自由の戦士戦線(英語版)などがあった。1979年にソ連軍が軍事介入すると、ムジャーヒディーンはこれにも対抗した。彼らはパキスタン軍統合情報局などからの支援を受け、ソ連軍に激しく抵抗した。アフガニスタンのムジャーヒディーンには、アフガニスタンのみならずイスラム世界の各地から志願兵として若者が集まってきたが、その中心人物がアブドゥッラー・アッザームで、ウサーマ・ビン=ラーディンもその志願兵の1人だったということが知られている。


アメリカもCIAを通じてこのようなゲリラ組織に武器や装備を提供していた(サイクロン作戦)。アフガニスタンのムジャーヒディーンは中国からも武器や訓練で援助されていた[1]。ソ連軍の撤退以降、ムジャーヒディーン各派はアフガニスタンでの主導権をめぐり対立、軍閥化していった。後にパキスタン軍統合情報局が支援するターリバーンが台頭すると、ムジャーヒディーンの諸派は連合し北部同盟としてこれに対抗した。(Wikipedia



ここで重要なのは、悪名高きジハードとはもともとは、植民地主義、帝国主義に対する「民衆の抵抗運動」だったという記述があることだ。しかもアフガニスタンへのソ連侵攻時代には、米国がこのムジャーヒディーンを援助していたことだ、タリバンの母体であるムジャーヒディーンを、である。多くの皆さんはきっとご存知であるのだろうことを今ごろしかと知ったことを白状しておかねばならない。


しかもソ連時代には女性の自由化が進められていたのだが、ムジャーヒディーンは「女性の権利」を否定する集団である。





さて先ほどのWikipediaで黒字強調した箇所のもう一つは「19世紀にインドで起こった対英ジハード「ムジャーヒディーン運動」は、その代表的なもの」だが、もともとインドでのムジャヒデンがその起源だと言っている研究者がいる。



ムジャーヒディーン運動は 19 世紀北インドの固有の政治的、社会的、文化的背景の上に成り立っている。彼らは南アジアにおいて初めて武力を伴ったジハードを実行した。そのため彼らの 死後 1 世紀後に誕生するパキスタンの最初の「創始者」として描かれ[Khan 2012: 87]、現在のイスラーム過激派組織にも影響を与えている。彼らのジハードは不成功に終わったが、南アジアのムスリムにとって象徴的な事件であり、19 世紀後半のムスリムに対して、結果的に宗教的でコミュナルな意識を形成させるのに大きな影響を与えたとみることもできる[Jaffar 1991: 86]。それゆえに 南アジアのムスリムとヒンドゥーの政治的・社会的関係という文脈からも論じる必要がある。 


ムジャーヒディーン運動の研究において、南アジアで発展したイスラームの思想との流れやアラ ビア半島といったイスラーム世界との思想的なつながりの解明すること、そしてムジャーヒディーン運動を南アジアの固有の文脈でとらえなおすことが今後の課題である。(松田和憲「ムジャーヒディーン運動研究 の軌跡と課題」2015年)


ーーこれ自体、反植民地運動としてよいだろう。



以下も資料の列挙だが、アフガニスタンのムジャヒディンにかかわって、「デュアランドライン Durand Line」がもう一つの重要な鍵言葉であるようだ。




私もこのデュアランドラインに、知らぬまにお世話になっていた時期があるのかもしれない・・・



1970 年代末以来のソ連軍介入によるアフガニスタンの政治的混乱は、周辺地域はもとより国際的にも不安定要因を生み出すきっかけとなった。その波動は現在にも及んでいる。大量の難民の発生、アフガニスタン国内の民族・地方間の対立・分裂、主要な勢力となるさまざまな「ムジャヒディーン」 mujāhidīn(ソ連軍およびアフガニスタンの共産党政権に対する戦いを、イスラームを守るための聖戦と捉えた武装ゲリラ集団)の台頭、これらのムジャヒディーンへの外国人「義勇兵」の参入、周辺国・主要国から紛争当事者への武器譲渡を含む支援の増大による戦乱の助長、そして後に「軍閥」と総称されるようになる一部の地方有力者による麻薬生産とその国外への流出など、その例を挙げればきりがない。(湯浅剛 「ソ連のアフガニスタン経験――外部勢力による介入政策と国家形成の展開―― 2009年)


まず、アフガニスタンは東南部から西南部にかけて大きくパキスタンに囲まれている。パキスタンはかつてインドの一部であったが、そこから分離独立したイスラム教国である。したがって、パキスタンの人口のマジョリティはインドにも多数生活しているパンジャブ人だが、その北部一帯に、実は南部を中心にアフガニスタンでマジョリティをなすパシュトゥン人が2200万人(全パキスタンの約16)も生活している。このパシュトゥン人がアフガニスタンとパキスタンにニ分されたのは、インドとの国境紛争が持続するのを恐れたイギリスが1893年アフガニスタンに押しつけた国境線(いわゆるデュラントライン)によってである。


しかし、この人為的な国境確定には無理があった。アフガニスタンは以来今日までこの国境の画定に不満を持ち、両国に分断されたパシュトゥン人はその統一を主張してきた。実際、同じ同胞意識を持つパシュトゥン人にとって、この国境は無用の長物であり、障害以外の何者でもなかった。パキスタンがアフガニスタンのパシュトゥン人の動向に関心を持ち、アフガニスタンがパシュトゥン人主体の体制にあることを支持してきたのも、パキスタンの政局の安定はパシュトゥン人の支持なしにはあり得ないからでもある。


ことにパキスタンはソ連のアフガニスタン侵攻時、アフガニスタンの反体制武装勢力、いわゆるムジャヒディン(イスラム戦士)の対ソ戦の聖域であり、兵姑基地として決定的に重要な役割を演じた。この結果、パキスタン国内にイスラム原理主義支援の温床が広がり、タリバン支持者が多数存在したのである。パキスタンがアフガニスタン攻撃のための米国への軍事基地提供に消極的であったのも、パキスタンがタリバン後の政権の行方に極度に神経をはりめぐらすのもこのためである。(小山茂樹「アフガニスタンをめぐる政治力学ータリバン後の行方ー」2002年)



……………


アフガニスタンは多民族国家である。パシュトゥーン以外の民族を考慮に入れてアフガニスタン国家を構成する諸民族を総称してアフガニスタン人と呼び、アフガン人と区別して議論した方がよい。通常アフガン人とは約半数を占める多数派民族であるパシュトゥーンを指すが、東部・北部のペルシャ系といわれるタジクは数の上で第2の民族で20-30%の人口を占めると見られる。それ以外に、チュルク系のウズベク、トルクメン、クルグズ、アイマクのはか、モンゴル系と見られるハザーラがいる。ハザーラとウズベクはそれぞれ約10%の人口を占め少数民族のなかでは比重が大きいと見られる。それ以外にも多様な少数民族を抱えている。パシュトゥーンも一枚岩ではない。大きくドゥッラッニー(Durrani)とギルザイ(Ghilzai)という二つの部族連合体に分かれ、両者は歴史的に激しく対立してきた。一貫してアフガニスタンの3つの王朝を輩出してきたのはドッラッニーである。パシュトゥ一語とグリー(ペルシャ)語が2大主要言語の地位を占めてきた。(清水学「アフガニスタンの「近代化」と国民統合一試論」2005年)


今日のアフガニスタンの原型は1747年のドゥッラーニーのサドザイ部族のアフマド・シャ一によって樹立されたパシュトゥーン人の部族連合国家である。アフガニスタンの領域はその後、現在のパキスタンの連邦直轄部族地域と北西辺境州をも含んだ時期もあり、また西部のヘラートをペルシャに奪われた時期もあった。しかし19784月までの2世紀半の間, 1920年代末の極めて短期間タジーク系の支配があったほかは、ドゥッラーニー出身の3王朝系が支配してきており、歴史的連続性の意識を支えてきた。現在のカルザイ大統領もドゥッラーニーである。その間、19世紀から3次にわたる対英戦争を戦い、また英露に「緩衝国」の役割を押しつけられてきたという、歴史の共有意識も存在している。パシュトゥーン社会は外敵に対しては結束し、外敵が去ると相互の対立が浮上すると指摘されることが多い。


2の結集力はイスラームとその世界観・価値観の共有である。住民のタリーカ(神秘主義教団) -の帰属も重要な役割を果たした。マルクス主義政権であっても公然と無神論を表明することはなく、またその指導者の多くもイスラームとマルクス主義が共存できると考えていた。(清水学「アフガニスタンの「近代化」と国民統合一試論」2005年)


英領インドから独立を達成したインドとならぶ後継国家パキスタンは、デユアランド・ラインによってアフガニスタンとの正式国境は最終的に確定されたという立場をとってきた。デユアランド・ラインとは、19世紀末に英領インド政府のデゥアランド大佐がアフガニスタンのアブドゥルラフママーンとの間で合意したとされる、英領インドとアフガニスタンの間の国境設定である。これは北はパミル高原のサリコル(Sarikol)山脈に始まり南東に向かって、イランとの国境であるコーヒー・マ-リク・スィア(KOhiMalik Siah)の岩地に至る分割線である。これはエスニック集団あるいは地理的分岐線を考慮したものではなく、また防衛可能な戦略的考慮に基づくものではなかった【S. Iftikhar Hussain】。


英領インドはデユアランド・ラインと英領インドの間にさらに緩衝地域を設定せざるを得なかった。それは主としてパシュトゥーン系の部族が住む現在のパキスタン連邦直轄部族地域(Federally Administered Tribal Areas : FATA)で、英国の支配権が確立されている北西辺境州とデユアランド・ラインの問に横たわる地域である。英国の支配権が事実上及ばず伝統法に従う自治が認められた地域である。この不可侵性は後継国家であるパキスタンによってごく最近まで尊重されてきたが、ビンラーディン追撃のためパキスタン軍や米軍がしばしば入るようになり、地元民との新たな紛争を生んでいる。その南端の南ワジーリスターンにはアルカートイダ勢力が現地の部族に支援されて潜伏しているとされる。アフガニスタンはデユアランド・ラインがパシュトゥーンの多住地域である現在のパキスタンの北西辺境州、連邦直轄部族地域(Federally Administered Tribal Areas:FATA)、バルーチスターンの一部をアフガニスタンから不当に切り離したものとして、その不当性と非合法性を主張してきた。〔・・・〕


1947930日の国連総会でパキスタンの国連加盟問題で唯一の反対票を投じた国はアフガニスタンであった。1949年に起きた「パシュトゥ一二スターン」問題を巡る両国の衝突に際し、アフガニスタンのザーヘル・シャー国王は「デユアランド・ラインの向こう側のアフガン人」と呼びパキスタン側を刺激した。(清水学「アフガニスタンの「近代化」と国民統合一試論」2005年)



……………



すでにふれたように,アフガニスタン国家の存立にとって歴史上そして 現在において最も重要かつ決定的な意味をもってきたのは 1893 年に英国 によって策定されたデュアランド・ラインである。デュアランド・ラインに 関しては第2章以降でも言及があるが,ここでは最も基本的な事項のみ押さえておくことにする。 

そもそもデュアランド・ラインというのは 1893 11 12 日に英国のインド総督特使モーティマー・デュアランド卿と時の国王アミール・アブドゥルラフマン・ハーンの間で結ばれた数項目にわたる合意であって,合意文書に当該地域の地図は添付されているが国境線の画定ではない。その合意文書によると南西部のチャマン周辺などとくに問題のある地域については具体的な記述があるものの,それ以外は将来的な国境線の画定にゆだねており,ペシャーワル北西部のモフマンド Mohmand 居住地域については空白である。またこの合意はアフガニスタンの北辺オクサス川およびハリー ルード川流域における対ロシア国境(10)の地域におけるアフガン軍の撤退とセットになっており,この合意によってアフガニスタンを英露の緩衝国 と位置づける意図が明白であった。


とりわけ対パキスタン国境の東端約 300 キロメートルに及ぶ部分において,アフガニスタン側の領土はいわば盲腸のような形をなして対中国国境 へと至るが,ヌーリスターンと呼ばれるこの地域はかつてカフィーリスターン(異教徒の地)と呼ばれ,アフガニスタン本国からすればむしろ厄介な異教徒の住む邪魔な存在でもあった。これを 1895 年の冬に時の国王 アミール・アブドゥルラフマン・ハーンに武力で平定させ,住民にイスラームへの改宗を強要することを許した英国側の意図は,もっぱら英領インド北辺のこの地域におけるロシアへの地政学的な予防策にあったことは明らかである(11)。 


アダメクによるとその後英国はこの合意がアブドゥルラフマンとの「個人的な」ものであったと表明しているが,しかし同時にこの合意が永続的でもあると主張している。1919 年のラワルピンディ和平協約でインド・アフガニスタン国境線について誓約の後,1921 年のカーブル協定以降はこれが継承されて現在に至っている(12 Adamec 1980: 403-405 。 


デュアランド・ラインはその後 1947 年以降はパキスタンとの実際上の国境線として固定化する一方,アフガニスタン国内においてはパシュトゥーン民族主義者たちによる「パシュトゥーニスターン」運動の最大の解決すべき攻撃目標ともなった。 

だがここで指摘しておくべきことは,「パシュトゥーニスターン」の創設が仮に実現したとしても,その場合それは少なくとも現在のアフガニス タン国内におけるパシュトゥーン人と他の少数民族の人口構成の劇的な変化を意味し,現在人口の半分以上を占めているパシュトゥーン民族以外の国民にとって決して歓迎すべきことではないという事実である。加えてこの国境地域における徹底したパシュトゥーン部族主義のアフガニスタン国内への浸透が,結果としてターリバーン支配と似たような状況をもたらす可能性すら否定できないといわれる[Adamec 2003: 405 。 


さてアフガニスタン近代史のなかでパシュトゥーニスターン運動が盛り上がりをみせたのは,1950 年代と 1973 年のダーウード・ハーンによるクーデター以降の時期であるが,パキスタン・アフガニスタン関係の底流としては 1947 年以来常に存在してきた。そのなかでもアブドゥル・ガッファー ル・ハーン(Abdul Ghaffar Khan, 在位:1890 1988 年)はパシュトゥーニスターン運動を象徴する代表的な人物の一人である。 


彼の主張は単にパシュトゥーン民族の居住地域の独立を主張するだけではなく,印パの分離独立を否定してより広大な領域の統一的独立をめざすものであった。ガッファール・ハーンはマハトマ・ガンジーの非暴力思想に共鳴して「辺境のガンジー」と呼ばれ,印パ分離独立に反対して パタニスターン」の独立を主張した。彼は世俗主義の立場にたって数多くの政治組織を精力的に指導したが,なかでも「神の挺身者 Khudai Khidmatgar」(赤シャツ隊)が最も有名である。ガッファール・ハーン はパキスタン国籍を取得して同国で政治活動を行い,長期間投獄もされたが,アフガニスタンを愛した彼はカーブルでは何度となく政府の厚遇のもとに生活した。彼は 1988 年にペシャーワルで没し,その遺志によりアフガニスタン領内のジャラーラーバードに葬られたという[Chand 1989]。

 

しかしこのような運動は現在まで具体的な結実をみることなく,後景に退いた形になっている。他方これとは全く異なる文脈で,インド・パキスタン・アフガニスタンから中央アジアまでをひとつの地域として再編成しようとする戦略的構想が米国政府によって最近推進されてきており(第2 章を参照) ,これらの動きは米国政府が対中国戦略を含めてインドをこの地域の戦略的なパートナーとして位置づけなおしていることを示唆している。 

アフガニスタンとパキスタンのデュアランド・ラインを挟んだ関係が重要なのは,ひとつにはアフガニスタンにおいて世界最大規模で生産される ヘロインが現在でもおもにこの国境を通って国際市場に流出しているからである。他方米軍の度重なる掃討作戦にもかかわらず,現在でも不安定な アフガニスタン南部における治安情勢は,最近のパキスタン国内の「ター リバーン化」と深く連動しており(第4章を参照),国際的な秩序の維持をすら脅かしかねない。 


これらの問題は本質的にアフガニスタンの南側の国境であるデュアランド・ラインをめぐる問題であるといえ,パキスタン領内の北西辺境州やバ ローチスターン州を含め国境周辺地域にほぼ自律的に存在しているパシュ トゥーン諸部族の動向によってアフガニスタン・パキスタン関係そのもの が大きく規定されている現状をよく物語っているといえる。(鈴木均「アフガニスタン国家の特質と対周辺国関係」2008年)



以上、二週間漬けの身の者として特にコメントをするつもりはない。



※付記


パシュトゥーン人(パシュトー語: پښتون Paẍtun[男性]、پښتنه Paẍtana[女性])は、アフガニスタンのイラン系民族である。アフガニスタン内で最大の人口を持つ。パフトゥーン (Pakhtun)、パターン (Pathan)、アフガン(アフガーン、Afghān)など様々な名で知られる。アフガニスタン(アフガーニスターン、Afghānistān)は、ペルシア語およびダリー語で「アフガン人(パシュトゥーン人)の国」の意味。(Wikipedia




パキスタンの現在人口220,998,678人(5位)2019、16パーセントがパシュトゥーン人だそうで、3500万人ほどいることになる。他方、アフガニスタンの人口3700万人であり、パシュトゥーン人の割合は50パーセント弱。もしアフガン民族ということを言うなら、パキスタンにいるアフガン人のほうがずっと多いことになる。なにはともあれ1893年のデュアランドラインによって分割されたのがアフガン人=パシュトゥーン人である。



「タリバンは強姦によって生まれた子供である」、ーーこのぐらいは言っておこう。


スピヴァックは「ポストコロニアリティとは強姦によって生れた子どもである」という言い方をしています。強姦自体はどんなことがあっても正当化されない。しかし、子どもができてしまった場合は、その子どもを排除してはならないという意味です。この言葉自体を、誰が、どこにアクセントを置いて、どういうふうに言うかで、まさに発話の位置が問われるような言葉だと思います。スピヴァックは直接にはインドの言語状況における英語のプレゼンスについて語っているのですが、これが現実の植民地状況で、今なお起きている事態であり、単なるメタファーとして言っているのではないでしょう。(鵜飼哲 共同討議「ポストコロニアルの思想とは何か」『批評空間』 11-1996


ポストコロニアリズムの 「ポスト」は、コロニアリズムが終わったという意味ではない。〔・・・〕一般の意識においては過去とみなされていながら現代のわれわれの社会性や意識を深く規定している構造、それをどう考えるのか、それとどう向き合っていくべきかという問題提起が、この接頭辞には含まれている。(鵜飼哲『〈複数文化〉のために』







2021年9月9日木曜日

アフガニスタンは国ではない


Afghanistan – as the armies of the West are about to realise – is not a country. You can't "occupy" or even "control" Afghanistan because it is neither a state nor a nation. (Fisk, Robert. 'Forget the cliches, there is no easy way for the West to sort this out', Independent, Nov.17, 2001)


ーーというのは小山茂樹氏の論から拾ったものだ。


イギリスの著名な中東専門家であるロバート・フィスクは「西側の軍隊が覚るに至ったようにアフガニスタンは国ではない。そもそも国(ステイト)でも、国家(ネイション)でもないのだからアフガニスタンを"占領したり"、いわんや"支配したり "することはできない」と述べている。 (小山茂樹「アフガニスタンをめぐる政治力学」2002年)



私はこの二週間ぐらい前からから、ネットに落ちているアフガニスタンをめぐる論を何本か読んできたのだがーー何本かというか、二十本ぐらいは読んだかーー、この、先ほど行き当たったばかりの小山氏の論はとても勉強になったので、ここでその前半を引用しておく。


この論を読んで、「緊急討論!どうなる、アフガニスタン情勢」(2021/08/24)で、駐アフガニスタン特命全権大使だった高橋博史氏が「アフガン人はタリバンそのもの」(21:50あたりから)と言った理由がいくらか納得できるようになった。


◼️アフガニスタンをめぐる政治力学

ータリバン後の行方ー 小山茂樹 2002年、PDF

アフガニスタンの地政

アフガニスタンはきわめてまとまりにくい国である。この国は中央アジアと南・西アジア(インド、パキスタン)、あるいはイランなどの中東世界とのまさに文明の十字路であり、古来から幾多の強国の侵略を受けるとともに様々な文明の接点ともなってきた。しかし、それにもかかわらず、かつてこの国は外部勢力によって完全に支配されたことはなく、またそれでいて内部的にも強力な中央集権的国家が成立したこともほとんどないといってよい。


近世にいたって、イギリスは南下するロシアに対抗して、この国を手中におさめんとして183842年と187880年と二度わたって侵略したが、結局その経営に失敗して敗退した(第一次、第二次アフガン戦浄)。イギリスはこの第一次アフガン戦争の際カブールの占領には成功したものの、地元民の蜂起にあいイギリス守備隊4500名と12000名の非戦闘員がカブール撤退を企てたが、カイバル峠でわずか数名を除き全滅した。また、第二次アフガン戦争に際しても、イギリスは敗退し、イギリス正規軍がアジアで敗退する史上初の不名誉の記録をつくった。近年では1979年の旧ソ連のアフガニスタン侵攻失敗はあまりにも生々しい。ソ連は衛星国視していたアフガニスタンに反ソ政権の誕生するのを恐れてアフガニスタンに侵攻した。戦いは10年間に及び、10万人の兵力と33億ドルの資金を投与したが、1万人の死者と37000人の負傷者を出して、結局敗退せざるをえなかった。

険しい山岳地

アフガニスタン統一が容易でない理由は様々あるが、そのひとつはこの国の地形によるところが大きい。アフガニスタンの著しい特徴は国土の中央を北東から南西へ峻険なヒンズークシ山脈が走っていることである。ヒンズークシ山脈は、その北東端をタジキスタン、インドおよび中国に接するワーハーン回廊のバミール高地から発している。パミール高地はヒマラヤ山脈の延長上にあり、その最高峰は7600メートルに達する。この山脈は西に向かうにつれ次第に高度を低くしていくが、首都カブールの北方で依然45006000メートルの高さである。そこから扇状に広がり、コーヒ・バグマン(最高峰4700メートル)、コーヒ・ババ(5150メートル)、バンディバヤン(3750メートル)、サフィードバヤン(3170メートル)、パロマミサス(3600メートル)などの支脈の山脈が連なり、最後はハリー・ルード川に接して終わる。この主要な山岳の平均高度は45006000メートルに達し、その距離は国土の中央を中心に最長で東西966キロ、南北240キロにも及んでいる。


このため、全国土面積647500平方キロ(日本の1.75倍)の約50%は2000メートル以上の高地となっている。平地は、首都カブールに沿ってやがてインダス川に合流するカブール川の南部と、この扇状に広がる山岳の裾野をまくように西南から北方へアーク状に存在する。しかし、西部のへラート周辺を除けば、砂・瓦業・ローム層を主体とする不毛な砂漠地帯がほとんどである。北部のタジキスタンとウズベキスタンとの国境線を形成するアム・ダリア川以北には草原(ステップ)が広がる。


しかし、この国土を特徴づけるものは、なんといっても急峻かつ広大なヒンズークシ山脈の存在である。この山脈によってこの国は南北に分断されてきた。この山脈を横断する道路(峠)は無論いくつか存在するが、そのなかで1932年に自動車道として開かれたもっとも高度が低い道路(シバール峠)でさえも3260メートルに達するという。首都カブールと北部をつなぐ最重要道路であるサラン峠にいたっては3878メートルに達する難路である。このため旧ソ連は1964年にこの峠の直下に3キロに及ぶサラン・トンネルを建設した。このサラン地域一帯の山岳道路は北部と南部をつなぐ戦略的にきわめて重要なネットワークであり、内戦中の重火器の輸送路とし重要な役割を果たしたが、それらの道路の維持補修はきわめて悪く、車によるこの両地帯の交通は事実上困難な状況が今日も続いている。

多民族国家

いずれにせよ、この大山脈の存在によってアフガニスタンの一体性はきわめてそこなわれてきた。事実、この山脈の南側には、アーリア系のパシュトゥン人が多く生活するが北側にはトルコ系のウズベク人やダーリー語(ベルシア語の方言)を喋るタジク人が多く、山岳中のバーミヤンにはモンゴルの血統を引くといわれるハザラ人が住みついている。こうした多民族の存在がまた、アフガニスタンの統合を困難にしている第二の要素である。


アフガニスタンには正確な人口統計は存在しない。米国の中央情報局(CIA)の推計によれば、アフガニスタンには2000年現在約2500万人の人々が生活しているというが、パシュトゥン人がもっとも多く38%、次いでタジク人25%、ハザラ人19%、ウズペク人6%となっている。このほかモンゴル系のアイマク、イラン系の遊牧民バルーチ、同じくベルシア語系のギジルバーシュ、ヌーリスタン、トルコ系のトルクメン人、同じくキルギス人、などもおり、そのほかの少数民族を数えあげるとその総数は実に12を超えるとわれる。


最大多数のパシュトゥン人は、前述のようにパキスタンとの国境に沿ってアフガニスタン南部一帯に生活しているが、西南部のドウラニ部族と東部のギルザイ部族に二分されるが、このほかにタジ、マンガル、サフィ、マンマンド、マフマンドなどの部族が知られている。しかし、18世紀半ばのドウラニ朝の成立以来、ドウラニ部族が支配権を維持してきたほか、ソ連が侵攻後に樹立したカルマル政権などもいずれもドウラニ・パシュトゥンであった。カンダハルを本拠としてアフガニスタンを事実上支配していたイスラム原理主義組織タリバンの主体もドウラニ・パシュトゥン人であり、当初タリバンは東部のギルザイ・パシュトゥン人を激しく弾圧した。


20011116日、北部の重要都市マザリシャリフや首都カブールなどの奪還に成功した北部同盟は、タジク人中心でラバニ・前大統領が率いるイスラム協会、ウズペク人中心でドスタム将軍が率いるイスラム国民運動、ハザラ人中心のイスラム統一党の三派からなっているが、これらの非パシュトゥン系の民族とバシュトゥン民族との対立はアフガニスタンの複雑な民族構成を有力に物語るものである。


こうした主要な民族対立以外にも、ヒンズークシ山脈が形成するいくつもの支脈はさらに数千の孤立した渓谷や山岳を生み出し、そうした峡谷や山岳に分断された各地にさまざまな民族や部族が生活している。アフガニスタンを構成するのは中世的な典型的部族社会だいわれる所以がここにある。その意味でアフガニスタンを理解するためには部族社会とはどのような社会かを理解しておく必要がある。

部族社会の帰属意識

言うまでもなく、同一の祖先から同じ血を分かち合っているという認識が部族社会の本質的価値観であり、その社会を形成する粋でもある。部族社会が中心であったアラブ世界やイスラム世界でも、近代化が進行するなかで、この伝統的な部族社会が多かれ少なかれ変化を余儀なくされている。しかし、急峻な山脈によって分断され、道路通信などのインフラが未発達なアフガニスタンでは、この部族社会が強力に生き残っており、首都カブールなどの都市生活者を除けば、ほとんどの人々は今日なおこの部族的アイデンティティーを強く意識している。ある報告によれば、アフガニスタン国民の2/3以上はなんらかの部族と強くつながっており、残りの1/3の人々の関係も血縁的な結びつきが中心となっているという。


部族社会とは何か。それは同一の血族だと言う価値観がすべてに優先するシステムである。この部族社会では、自らのアイデンティティーや忠誠心は、その優先度がまず親族(いわゆるエクステンドファミリー)に帰属し、次いで血族、部族民族と拡散していく。それぞれのコミュニティの政治も経済もこの部族制度によってしきられる。部族の長(ハーン)は名望家で、一般に祖先から代代子孫に引き継がれてきているが、決して世襲ではなく、部族民の合意(ジルカ)によって選ばれる。部族民の忠誠心は部族の長に対する忠誠心として示される。つまり、この社会では帰属意識は血縁、あるいは拡大してもせいぜい地縁的に示されるが、社会全体、さらには国家(政府)全体に示されることはほとんどない。人々の結びつきは水平的(ホリゾンタル)であって、垂直的(ヴアーティカル)には機能しないのである。


このような社会をいかにしたら中央集権的な国家へ、いわゆる近代国家としてのまとまりに作り上げていくことができるのか。部族社会の典型であったアラビア半島の統一に成功したサウジアラビア初代国王アプドル・アジズ・イブン・サウード(いわゆるイブン・サウード)の腐心はまさにここにあった。彼はこれをイスラムに求めたのである。神の前には、すべての人間は平等であり、身分も社会的地位もない、等しい同胞(イフワーン)だという思想を拠りどころにして、彼は統一に成功した。部族社会は切り崩され、部族への忠誠心は最大優先順位の座を国家に明け渡していったのである。


しかし、アフガニスタンはそうではない。アフガニスタンは今日なお、強力な部族社会である。イスラム原理住義組織であるタリバンは厳格なイスラムの戒律を施行することによって、ある意味ではイブン・サウードの方式を持ち込んでアフガニスタンを統一しようとしたといえるだろう。しかし、米国の軍事攻撃の前にタリバン政権はあえなく崩壊を余儀なくされた。アフガニスタンの統一を困難にしている第三の理由がこれである。

5つの国に囲まれた内陸国

アフガニスタンは海への出ロを持たない完全な内陸(ランドロック)国である。アフガニスタンからもっとも近い海は南の隣国パキスタンを超えたアラビア海(インド洋)で、アフガニスタン南部から最短距離で530キロ、首都カブールから1200キロという閉された国である。この内陸国は5つの国に囲まれており、この国々がアフガニスタンの主要な民族と深いつながりを持つ。これがアフガニスタンの統一を困難にしている第四の理由である。


まず、アフガニスタンは東南部から西南部にかけて大きくパキスタンに囲まれている。パキスタンはかつてインドの一部であったが、そこから分離独立したイスラム教国である。したがって、パキスタンの人口のマジョリティはインドにも多数生活しているパンジャブ人だが、その北部一帯に、実は南部を中心にアフガニスタンでマジョリティをなすパシュトゥン人が2200万人(全パキスタンの約16%)も生活している。このパシュトゥン人がアフガニスタンとパキスタンにニ分されたのは、インドとの国境紛争が持続するのを恐れたイギリスが1893年アフガニスタンに押しつけた国境線(いわゆるデュラントライン)によってである。


しかし、この人為的な国境確定には無理があった。アフガニスタンは以来今日までこの国境の画定に不満を持ち、両国に分断されたパシュトゥン人はその統一を主張してきた。実際、同じ同胞意識を持つパシュトゥン人にとって、この国境は無用の長物であり、障害以外の何者でもなかった。パキスタンがアフガニスタンのパシュトゥン人の動向に関心を持ち、アフガニスタンがパシュトゥン人主体の体制にあることを支持してきたのも、パキスタンの政局の安定はパシュトゥン人の支持なしにはあり得ないからでもある。


ことにパキスタンはソ連のアフガニスタン侵攻時、アフガニスタンの反体制武装勢力、いわゆるムジャヒディン(イスラム戦士)の対ソ戦の聖域であり、兵姑基地として決定的に重要な役割を演じた。この結果、パキスタン国内にイスラム原理主義支援の温床が広がり、タリバン支持者が多数存在したのである。パキスタンがアフガニスタン攻撃のための米国への軍事基地提供に消極的であったのも、パキスタンがタリバン後の政権の行方に極度に神経をはりめぐらすのもこのためである。


アフガニスタン西部に接するのは大国イランである。イランはイスラム教シーア派を国教としているが、北部同盟の一つであるハザラ人を主体とするイスラム統一党も同様にイスラム教を信奉しており、イランはこれを支援している。アフガニスタンにはこのほかいくつかの少数民族もイランを支持しており、イランの影響力は無親できない。


周知のように、イランでは、1979年宗教勢力主導の下に革命が実現した。いわゆるイラン・イスラム共和国の成立である。イラン革命主導の頂点に立ったホメイニ師は近隣諸国への「イラン革命の輸出」を広言してはばからなかった。


米国をはじめとする西側勢力が従来もっとも恐れてきたのは、アフガニスタンにこのイランの影響力が高まることであった。米国がタリバンを事実上支援してきたのもこのイランの影響力の阻止をタリバンに託したからである。また、イスラム革命伝播の影に怯えたのはパキスタンも同様であった。イランの影響下に立つハザラ人主体のイスラム統一党が有力な一派を構成する北部同盟をパキスタンが忌み嫌うのもこのためである。


アフガニスタン北部にはトルクメニスタン、ウズベキスタン、タジキスタンの三国が隣接している。これらの諸国は、元来旧ソ連邦を構成する自治共和国であったが1991年のソ連邦崩壊によって独立した。いずれもこれらの諸国はイスラム教(スンナ派)国だが、産ガス国として近年自立傾向を強めつつあるトルクメニスタンを除き、他の二カ国はロシアと依然深い関係にある。ことに、アフガニスタンが北東部でくい込んでいるタジキスタンでは、イスラム原理主義の波及を恐れてきた。タリバンによるアフガニスタン全土の支配が確立すれば、もっともその影響を受けるのはタジキスタンであることは自明である。このため、タリバン系のイスラム原理主義組織やテロ組織の侵入を防止するため90年代後半以降、ロシア軍の駐留を求めてきた。北部同盟を構成する二大組織、イスラム国民運動(ウズペク人主体)とイスラム協会(タジク人主体)がロシアの資金と武器援助を受けてきたのはこのような事情を背景としている。


ロシアもまたタリバンなどのイスラム原理主義組織の浸透に深刻な苦悩を味わわされていた。ロシアは旧ソ連時代に抱えていた中央アジアのイスラム諸国の大半を独立分離させられた。しかし、ロシアは依然多くのイスラム教徒を抱え込んでおり、その代表的事例がチェチェン紛争に具体化されている。チェチェン共和国の人口約120万人のうちチェチェン人は80%を占め、この人々はいずれもイスラム教徒である。彼らは民族独立を求めて90年代半ば以降激しい闘争を繰り広げており、ロシアはこの独立闘争にタリバンなどのイスラム原理主義組織の影響が持ち込まれることを極度に恐れている。


いずれにせよ、内陸国アフガニスタンを取り囲むすべての国がアフガニスタンの有力民族の武装組織とつながりがあり、これらのスポンサーの利害によってこれらの各グループの動向が左右されざるを得ないという現実こそがアフガニスタンの自立と安定をそこなってきた最大の原因でもある。……(小山茂樹「アフガニスタンをめぐる政治力学ータリバン後の行方ー」2002年)





2021年9月1日水曜日

われわれはタリバンに魅惑されている

 前回、ジジェク の「西側のメディアが言及するのを避けている、タリバンがアフガニスタンをとても早く奪還した本当の理由 The real reason why the Taliban has retaken Afghanistan so quickly, which Western liberal media avoids mentioning,]」( 17 Aug, 2021)を部分的に粗訳したなかにこうあった。


この今、アフガニスタンにおいて我々を魅惑しているもの[what fascinates us now in Afghanistan](ジジェク、The real reason why the Taliban has retaken Afghanistan so quickly, which Western liberal media avoids mentioning, 17 Aug, 2021



私はこのところ、アフガニスタン問題に触れている政治学者やジャーナリスト等をツイッターで観察しているのだが、彼らはみなタリバンに魅惑されているんだろうな、と感じたよ。私もその例外ではないが。


ジジェクは2012年に次のように書いている。



いかにカントの再帰性[reflexivity]は、ラカンの無意識の主体にとっての場を提供するか。フロイトの「無意識」はまさにこの再帰性のなかに刻印されている。例を挙げよう。私はヒッチコックの映画における悪党のような誰かを「憎むことを愛する[love to hate]」。私は意識的にはこの悪役をたんに憎むだけだ。しかしながら無意識的には私は(彼を愛しているわけではない、しかし)彼を憎むことを愛する[yet unconsciously I (do not love him, but) love to hate him]。すなわちここでの無意識的なものは、私が再帰的に私の意識的な態度に関連させる方法である。〔・・・〕


伝統的な啓蒙主義的態度の不能性[The impotence of the traditional Enlightenment attitude]は、反レイシスト運動の連中がもっともよい例になる。彼らは理性的な議論のレベルでは、レイシストの大他者[racist Other]を拒絶する一連の説得力のある理由を掲げる。しかし、それにもかかわらず、彼らは自らの批判の対象に明らかに魅せられている[clearly fascinated by the object of his critique.]。結果として、彼らのすべての防衛は、現実の危機が発生した瞬間(たとえば、祖国が危機に瀕したとき)、崩壊してしまう。それはまるで古典的なハリウッド映画のようであり、そこでは、悪党は、――“公式的には、最終的に非難されるにしろ、――それにもかかわらず、われわれのリビドーが注ぎ込まれる(ヒッチコックは強調したではないか、映画は悪党によってのみ魅惑的になる、と)。(Zizek, LESS THAN NOTHING, 2012)



最近のジジェクは、政治的にも、精神分析プロパからも、哲学的にも、さらにジャーナリズム的観点からも強い批判を受けており、「四面楚歌」のようなところがあるし、とくにジャーナリズムで前回のような短い記事のなかでフロイトラカン概念を説明抜きで使えば、すぐさま反発がある。なにいってんだ、いまさら抑圧されたものの回帰だなんてと。でも基本的なところでは、ほとんどの政治学者よりはずっと核心に触れているんじゃないかな。


少なくとも上の文に言及されている「再帰性」は直接的に抑圧されたものの回帰にかかわり、フロイトの異者としての身体[Fremdkörper]にかかわる。


前回、抑圧されたものの回帰[Wiederkehr des Verdrängten]=享楽の回帰[le retour de jouissance]=トラウマの回帰[le retour du traumatisme]としたが、これは異者としての身体の回帰[le retour du corps étranger]のことであり、これが、対象aの回帰でもある。


原抑圧と同時に固着が行われ、暗闇に異者が蔓延る[Urverdrängung… Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; …]wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen, ](フロイト『抑圧』1915年、摘要)

(原)抑圧されたものは異物(異者としての身体)として分離されている[Verdrängten … sind sie isoliert, wie Fremdkörper] 〔・・・〕抑圧されたものはエスに属し、エスと同じメカニズムに従う[Das Verdrängte ist dem Es zuzurechnen und unterliegt auch den Mechanismen desselben]。〔・・・〕


自我はエスから発達している。エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳に影響されず、原無意識としてエスのなかに置き残されたままである[das Ich aus dem Es entwickelt. Dann wird ein Teil der Inhalte des Es vom Ich aufgenommen und auf den vorbewußten Zustand gehoben, ein anderer Teil wird von dieser Übersetzung nicht betroffen und bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück.] (フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年)


この異物(異者としての身体)こそトラウマである。


トラウマないしはトラウマの記憶は、異物 (異者としての身体[Fremdkörper )のように作用する。この異物は体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ。das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt, welcher noch lange nach seinem Eindringen als gegenwärtig wirkendes Agens gelten muß(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)


享楽がトラウマであるとはこの意味であるーー《享楽は現実界にある[la jouissance c'est du Réel. ]》(Lacan, S23, 10 Février 1976)

問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっている[le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. (Lacan, S23, 13 Avril 1976)


以下、異者(異者としての身体)をめぐるラカンの発言のなかから分かりやすいものををいくつか列挙しておく。



異者としての身体問題となっている対象aは、まったき異者である[corps étranger,…le (a) dont il s'agit,… absolument étranger (Lacan, S10, 30 Janvier 1963)

フロイトの異者は、残存物、小さな残滓である[L'étrange, c'est que FREUD… c'est-à-dire le déchet, le petit reste,    (Lacan, S10, 23 Janvier 1963

享楽は残滓 (а)  による[la jouissance…par ce reste : (а)  (ラカン, S10, 13 Mars 1963


現実界のなかの異物概念(異者概念)は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ](J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004



このあたりはこう引用列挙しても一般の人にはなんのことやら分からないだろうが、ジジェクの政治的な短い記事はもっと分からない筈。だから巷間の(凡庸な?)政治学者たちから強い反発を受ける。