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2021年8月31日火曜日

タリバンがアフガニスタンをとても早く奪還した本当の理由

 


ジジェクは米国のアフガニスタン撤退後にタリバンについての記事を2本書いている。


ひとつは、「イスラム主義者の真の敵は西側の新植民地主義でも軍事攻撃でもなく、われわれの「インモラルな」文化だ[The true enemy for Islamists is not the West’s neocolonialism or military aggression, but our ‘immoral’ culture]」(20 Aug, 2021)という表題がついており、この題はホメイニがかつて言った《われわれは制裁を恐れない。われわれは軍事侵入を恐れない。われわれを脅かすのは西側のインモラリティの侵入だ[We’re not afraid of sanctions. We’re not afraid of military invasion. What frightens us is the invasion of Western immorality]》に起源がある。


もうひとつは「西側のメディアが言及するのを避けている、タリバンがアフガニスタンをとても早く奪還した本当の理由 The real reason why the Taliban has retaken Afghanistan so quickly, which Western liberal media avoids mentioning,]」( 17 Aug, 2021)というものだ。


ここでは817日の記事のほうをいくらか摘んで粗訳する。フーコーにかかわる箇所は前投稿「フーコーとホメイニー」を参照されたし。私はこのジジェクの記事を今のところは全面的に受け入れているわけではないが、ここでは備忘として掲げる。


ジジェクが《アフガニスタンが宗教的原理主義となったのはたんにソ連の占拠への反動としてだ[Afghanistan became religiously fundamentalist only later, as a reaction to the Soviet occupation ]》と言っている部分が(初歩的だとはいえ)何よりもまずお気に入りだ(この認識さえなく現象面だけ見てアフガニスタンのタリバンを素朴に批判しているイスラム学者がいるが、そんなことはその場限りのジャーナリストにやらせておけばよろしい)。


タリバンの八万人の軍隊は、ドミノのように倒れる諸都市とともにアフガニスタンを奪還した。他方、より良く装備されて訓練された三十万の強力な政府軍は大半が融解し闘う意志を放棄した。なぜこれが起こったのか。


西側のメディアはこれについてのいくつかの説明を提供している。第一のものは、露骨なレイシスト的観点だ。それは、アフガンの人々はたんに民主主義にとって充分に成熟していない。彼らは宗教的原理主義を憧憬している、という馬鹿げた主張だ。半世紀前、アフガンは(ほどほどに moderately)啓蒙された国だった。アフガニスタン人民民主党として知られる強い共産党をもっており、数年のあいだ権力を取ることさえ成し遂げた。アフガニスタンが宗教的原理主義となったのはたんにソ連の占拠への反動としてだ。〔・・・〕


メディアが提供する別の説明は恐怖だ。タリバンは彼らに対立する政治勢力を無慈悲に殺すと。


さらなる説明のひとつは信仰[faith]だ。タリバンは彼らの行為が神によって課された任務を実現することであり、勝利は保証されていると信じていると。〔・・・〕


より複合的で現実主義的な説明は、継続している戦争と腐敗によって引き起こされたカオスだ。それは次の信念をもたらし得た。すなわちタリバンの統治が抑圧とシャリーア法を課してさえ、最小限に安全と秩序を保証すると。


しかしながら、これらすべての説明は、リベラルな西側観点においてトラウマ的な基本事実を避けているように見える。それは、タリバンの生存への無関心と「殉教」を想定したその戦士の準備だ。たんに戦闘においてだけではなく自殺行為で死ぬことへの準備。だが原理主義者としてのタリバンは、殉教者として死ねば天国に行けると「本当に信じている」という説明だけでは十分ではない。もし知識人の洞察の意味における信念と没頭した主体的ポジションとしての信念のあいだの相違を把握しないなら。


言い換えれば、次のことを考慮しなければならない。すなわちイデオロギーの唯物論的力ーーこの場合、信仰の力[the power of faith]だーーそれはたんに我々の確信の強さに根付いているのではなく、我々の信念[belief]に如何に実存的にコミットするかだ。我々はこの信念を選択する臣下ではない。そうではなく、我々が我々の信念 "である" のだ。これが我々の生を浸透する信念であるという意味において。


これこそ、ミシェル・フーコーが1978年のイスラム革命にひどく魅惑された特徴だ。〔・・・〕


タリバンの成功、フーコーがイランにおいて探し求めたもの(そしてこの今、アフガニスタンにおいて我々を魅惑しているもの)は、どんな宗教的原理主義を伴った事例ではなく、たんにより良い生のための集団的関与だ[collective engagement for a better life. ]。世界資本主義の大勝利の後、この集団的関与の精神は抑圧された。そして今、この抑圧された立場は宗教的原理主義の装いの下に回帰しているように見える。われわれは抑圧されたものの回帰を想像しうるだろうか、その集団的な解放関与の正当的な形式のなかに? それを想像しうるだけではない、既にその偉大な力でわれわれの扉を叩いている。〔・・・〕


われわれが本当にすべての生活の仕方を変えたいなら、われわれの快楽の使用に焦点を絞った個人主義者の「自己への配慮」を押し除けなければならない。専門科学だけではその仕事はできない。最も深い集団的関与に根ざした科学でなければならない。これがタリバンへのわれわれの応答であるべきだ。(Slavoj Zizek: The real reason why the Taliban has retaken Afghanistan so quickly, which Western liberal media avoids mentioning, 17 Aug, 2021




「この抑圧された立場は宗教的原理主義の装いの下に回帰しているように見える[this repressed stance seems to return in the guise of religious fundamentalism ]」とあるが、ここで抑圧されたものの回帰の意味合いについて簡単に示しておこう。



症状形成の全ての現象は、「抑圧されたものの回帰」として正しく記しうる[Alle Phänomene der Symptombildung können mit gutem Recht als »Wiederkehr des Verdrängten« beschrieben werden.](フロイト『モーセと一神教』3.2.61939年)


フロイトの思考をマテームを使って翻訳してみよう。大きなAは抑圧、享楽の破棄である[grand A refoulant, annulant la jouissance. ]。



フロイトにおいてこの図式における大きなAは、エスの組織化された部分としての自我の力である[grand A, c'est la force du moi, en tant que partie organisée du ça 。さらにラカンにおいて、非破棄部分が対象aである[une partie non annulable, petit a]。


フロイトが措定したことは、欲動の動きはすべての影響から逃れることである。つまり享楽の抑圧・欲動の抑圧は、欲動要求を黙らせるには十分でない[le refoulement de la jouissance, le refoulement de la pulsion ne suffit pas à la faire taire, cette exige]。それは自らを主張する。


すなわち、症状は自我の組織の外部に存在を主張して、自我から独立的である[le symptôme manifeste son existence en dehors de l'organisation du moi et indépendamment d'elle. ]〔・・・〕


これは「抑圧されたものの回帰」のスキーマと相同的である。そして症状の形態における「享楽の回帰」と相同的である。そしてこの固執する残滓が、ラカンの対象aである[C'est symétrique du schéma du retour du refoulé, …symétriquement il y a retour de jouissance, sous la forme du symptôme. Et c'est ce reste persistant à quoi Lacan a donné la lettre petit a. J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 10/12/97


ジャック=アラン・ミレールは「抑圧されたものの回帰≒享楽の回帰」としているが、享楽とはトラウマのことである。


享楽は現実界にある[la jouissance c'est du Réel. ](Lacan, S23, 10 Février 1976)

問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっている[le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. (Lacan, S23, 13 Avril 1976)

われわれはトラウマ化された享楽を扱っている[Nous avons affaire à une jouissance traumatisée. (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 20 mai 2009)


したがって、享楽の回帰[le retour de jouissance]とは、事実上、トラウマの回帰[le retour du traumatisme]である。


対象aも同じである。

対象aは穴である[l'objet(a), c'est le trou  (Lacan, S16, 27 Novembre 1968


対象aの回帰とは、穴の回帰[le retour du trou]だが、ラカン には « troumatisme ».という造語があるように、穴とはトラウマのことであり、トラウマの回帰である。


現実界は穴=トラウマを為す[le Réel … ça fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974

ラカンの現実界は、フロイトがトラウマと呼んだものである。ラカンの現実界は常にトラウマ的である。それは言説のなかの穴である。ce réel de Lacan […], c'est ce que Freud a appelé le trauma. Le réel de Lacan est toujours traumatique. C'est un trou dans le discours.  (J.-A. Miller, La psychanalyse, sa place parmi les sciences, mars 2011


以上、「抑圧されたものの回帰」とは基本的には「トラウマの回帰」だが、フロイトの抑圧には二種類ある。原抑圧[Urverdrängung]と後期抑圧[Nachverdrängung]である。


ラカンは原抑圧のなかに穴があると言っているがーー、《私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する[c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.]》(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)ーーこれは、上に見たように、原抑圧はトラウマという意味である。


享楽の回帰=トラウマの回帰に直接にかかわるのはこの「原抑圧されたものの回帰」である。「後期抑圧されたものの回帰」は、トラウマの回帰に対する防衛としてあり、こちらのほうはトラウマの隠喩として回帰する。ジジェクが言っているのはおそらくこの後者のほうである。