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2021年8月31日火曜日

フーコーとホメイニー

 

政治的力としてのイスラムの問題は、我々の時代、そしてこれから訪れる未来にとって本質的な問題である。イスラムに接近する最小限の知性の条件は、憎悪を以て始めないことだ。Le problème de l'islam comme force politique est un problème essentiel pour notre époque et pour les années qui vont venir. La première condition pour l'aborder avec tant soit peu d'intelligence, c'est de ne pas commencer par y mettre de la haine . (『ミシェル・フーコー思考集成』 .M. Foucault, Dits et écrits 1954-1988, 1994, p. 708.


世界はイスラムとともに生きていかなければならないのは確かだ。ヨーロッパだけでなく米国もムスリム人口比率が今後ますます上昇していく。現在のわれわれの出発はここからだ。憎悪は悪循環の輪を拡げるだけである。



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この革命的出来事[ホメイニのイラン革命]を特徴づけるものとして、それが、まったく集団的な一個の意志を出現させたということがあります――そのような機会にめぐりあった民族は歴史を見ても稀です。集団的意志というのは、法学者や哲学者が制度などを分析したり正当化したりしようとするときに用いる政治的な神話であって、つまりは理論的な道具です。「集団的意志」には実際にお目にかかったことはないし、私は個人的には、集団的意志というのは神や魂と同じで、出会ったりするものでは決してないと考えていました。同意してくださるかどうかわかりませんが、私たちはテヘランで、イラン全土で、一個の民衆の集団的意志に出会ったのです。……この集団的意志に、人々はある対象を、ある一つきりの標的を与えた。つまりシャーの出国です。(フーコー「精神のない世界の精神」高桑和巳訳)






ホメイニーは、世界が被抑圧者たち[モスタズアフィーン(mostaz‘afīn)]ーーアラビア語の「ムスタドゥアフィーン(mustad‘afīn)」と同じ語源のペルシア語ーーと彼らを抑圧する「傲慢な者たち(mustakbirūn)」に二分されているという認識に立って、「被抑圧者たち」の解放がイスラム革命の基本精神であると考えていたようだ。あるいは、世界は「今や傲慢な世界の諸国による利権・勢力争い」の場と化し, 「被抑圧諸国は紛争の摩擦点となり,被抑圧諸人民は摩擦を煽るもの」となったと言ったそうだ(Abrahamian [1993])。


フーコーは1978 年にイタリアの新聞社『コリエーレ・デラ・セラ』から企画の依頼を受けて、革命前夜のイランに二度訪れて、この革命の動きを支持する記事をいくつか書いた。


以下はネット上で拾ったもので出典が明示されていないが、その当時の発言だろう。


「シーア派以外のいかなる宗教的な思想にも、圧制者の支配への批判を強調し、革命というひとつの理念のもとに国民を総動員させる力はない」


「世界中のメディアの支持を得たとしても、自分と国民の深い結びつきを示すことのできる政治家は世界に存在しないだろう。しかしホメイニー師は、メディアの助けを借りずに、国民との精神的、宗教的、思想的なつながりを、一言も言葉を交わすことなく、イラン国民の魂の奥深くに根付かせたことを示した」


「イラン国民は、革命の中で、彼らの個人的、宗教的な特徴における変化を求めていた。なぜなら、国王によって押し付けられた思想や歴史によって、西側に無条件に従うことを受け入れられなかったからだ」


「イランで驚いたのは、人々の闘争が、全ての国民と、武力によって国民を脅す権力の間の闘争であり、それ以外の対立は見られないということだ。つまり、国民の意志と武力の対立である。国民がデモを行い、戦車が現れる。国民のデモが繰り返され、武器が再び火を噴く。これらは皆、ほぼ同じ形で繰り返される。とはいえ、形や中身は変わらなくても、激しさは増していく」


「国民は、完全武装し、想像もできないほど忠実な大きな軍隊を持つ統治体制を相手にしていた。国民は、全く機能的ではなかったものの、残酷で暴力的な警察を相手にしていた。政権は直接、アメリカに依存しており、周囲の大小の国や世界全体の支えを受けていた。この政権は、あらゆる勝利のためのカード、引いては石油も有しており、政府は好きなように、石油による収入を使うことができた。それにも拘わらず、国民は立ち上がった。国民は経済的な問題に対しても立ち上がったが、この頃のイランの経済問題は、国民を数十万、数百万という単位で街頭に繰り出させ、武器に立ち向かわせるほど大きなものではなかった」




で、フーコーは、もし今生きていたら、何て言っただろう、この今のアフガニスタンのタリバンや最近のイランを。


ごく標準的だろうインテリの観点ーー「ホメイニーの煽った情念をくすぶらせる革命の熾火」がいまだ燻ぶっている、とする山内昌之ーーを掲げておこう。


ホメイニー時代のアメリカ大使館人質事件からサウディアラビア大使館焼打ちに至るまで共通しているのは、「法の支配」に関する無知か、知っていても無視するか、のいずれかである。このイラン人たちは期せずして、レーニンが 『国家と革命』で述べたように、「革命はそれ自体の法をつくる」という考えを実践しているともいえよう。


しかもイラン人の急進派は、レーニンや初代の外相(外務人民委員)トロツキーよりも徹底しているフシもある。第一次世界大戦末期の一九一八年、ブレスト=リトーフスク条約でドイッと国交を正常化した後、連立政府を構成した左翼エスエル党員がドイツ帝国大使のミルバッハ伯爵を暗殺したとき、レーニンは間髪を入れずドイツに謝罪し、左翼エスエルの解体に乗り出したものだ。


イランに似ているとすれば、むしろ文化大革命期の中国であろう。外国から大使を召還し正常な外交機能を停止させただけでなく、紅衛兵は外国の公館に乱暴狼籍を働いて止まなかった。


イランでは、すこぶる成熟した文明国家の伝統と、ホメイニーの煽った情念をくすぶらせる革命の熾火がいまだに併存しているようだ。


2011年にテヘランのイギリス大使館が「暴徒」に襲撃され書類などが略奪されたとき、当時のイラン外相アリー・アクバル・サーレヒーは、イギリスの外相ウィリアム・ヘイグに電話で謝罪するとともに、こう述べたと伝えられる。「私はこの人物らが誰なのかを知らない。また、誰が大使館を略奪するために彼らを送ったのかも知らないのだ」


サーレヒーは彼らを知らなかったかもしれない。しかし、誰が送ったかくらいは想像できただろう。


確実なのは、革命から40年後に、テヘランやマシュハドのサウディアラビア公館が焼打ちに遭っても、誰も罪を問われず、罰も下されないという事実なのだ。その後、多少の下手人らが逮捕されたようだが。私の市民感覚では、イランは歴史と文明を誇る堂々たる国ではあるが、社会科学者として見るなら、革命まで 『カイハーン』紙の編集主幹を務めたアミール・ターへリーの疑問にも多少は共感せざるをえない。「イランは国内法や国際法を忠実に守る国民国家なのか。それとも、すべての法を超越する革命なのか」と。


イランの政府機構の内部にさえ、「分裂症」めいた二つの潮流がある。確かなのは、選挙が近づくと、どこかの外国と事を公然と構えるか、米欧人を捕虜や人質にとって危機を煽り立てながら自己主張する流れが、ウィーン核合意や経済制裁解除の後でさえ絶えないことだ。


また、理性的と目されるザリーフ外相さえ、ペルシア湾に浮かぶ三つの島峡を占領してアラブ首長国連邦との間に係争を抱えている事実を認めようとせず、国際司法裁判所での解決に委ねようともしない。


しかし、核協定に調印し制裁が解除された後は、こうはいかない。「分裂症」を克服して、中東各地で起こしている国際イスラーム革命につながる武装闘争への支援や他国への軍事干渉を止めない限り、イランは国際的に信頼される地域大」国にはなれない。


イランの政治威信や外交力は、中東の混乱やアナーキーに乗じて得られた革命的な成果であり、秩序と調和の中で培った平和の果実というわけではない。経済制裁解除は核開発や国際イスラーム革命の最終的断念を意味しないことを冷静に見ておく必要があろう。イランは依然として次章で本格的に説明される中東複合危機の重要なファクターなのである。(山内昌之『中東複合危機から第三次世界大戦へ:イスラームの悲劇』2016年)




次のものはむかし拾ったのだが、ついでに貼り付けておく。


山内昌之は、911の直前の外務省「イスラム研究会」(200012月)でイスラムという語を四区分している。


「イスラム」という言葉は、しばしば多様な意味を一緒にして使用されるが、実際には、 ケースバイケースで分けて考えた方が良いと考える。そもそも、「イスラム」という言葉は多義的であり、「イスラム」と呼ばれる時には、色々な意味が込められている。第1に、 イスラムの地域的特質から捉えた「イスラム社会」というものがあり、2番目には「イスラム世界」というような、地域性を超えてイスラムを捉えることができる。3番目にイスラムの反システム性を捉え、いわゆる軍事化したイスラムというものがあり、4番目に外務省のレベルのようにイスラムを国家というかたちで捉えるものである。問題は、「イスラム」と言う場合、この4つのどれを取り上げるかということである。例えば国家としてのイスラムというものもあれば、現実の国家システムや国家的な見方を超越あるいは批判した「イスラム世界」という言葉に象徴されるイスラムというものもあり、それぞれレベ ルがかなり異なっている。(第3回研究会:現代のイスラムの広がり I.国際社会に見るイスラムの広がりとその歴史的背景、講師 山内 昌之 東京大学大学院総合文化研究科教授)




……………………


革命最初期は次のでいいんだ、イラン革命は新自由主義にたいする最初の蜂起として捉えうる。


「革命には既に暴政が秘密裡に取り憑いており、それが盲目な熱狂のもとで姿を現す、というのが革命の「法則」のようだが、イランでの運動はこの法則を被りはしなかった。あの蜂起の最も内的な、最も強く経験された部分をなしていたものは、荷を帯びすぎた政治のチェス盤に、無媒介に抵触していた。しかし、抵触していたということは、蜂起とチェス盤が同一のものだということではない。死のうとしていた人々が参照していた精神性とは、統合主義者である一聖職者による血まみれの統治とは何の関係もない。イランの宗教人たちは、自分たちの体制を純正なものとするために、蜂起のもっていたあらゆる意味を利用しようとしている。今日あるのはモッラーたちの統治なのだからといって蜂起という事実を低く見積もるとすれば、それは、モッラーたちのしていることと変わりがない。どちらの場合にも、あるのは「恐怖」だ。それは、イランで去年の秋に起こったばかりのことに対する恐怖であり、世界はあのような例を提示したことが長らくなかった。」(p. 97

「人は蜂起する。これは一つの事実だ。そのことによってこそ、主体性(偉人のではなく、誰でもいい人間の主体性)が歴史に導入され、歴史に息吹をもたらす。犯罪者は、濫用される懲罰に抗して自分の命を賭ける。狂人は、監禁され権利を剥奪されて疲弊する。民衆は、自分たちを抑圧する体制を拒否する。そんなことをしても、犯罪者は無罪にならないし、教示は治らないし、民衆は約束された明日を保証されはしない。そもそも誰にも、彼らと団結する義務はあるわけではない。混乱したこれらの声が、他のものよりうまく歌っているとか、真なるものの深奥を口にしているなどとみなす必要はない。そうした声に耳を傾け、その言わんとするところをわかろうとするということに意味があるには、そうした声が存在し、これを黙らせようと執念を燃やすあらゆるものがあるというだけで充分だ。これは道徳に関わる問題なのか? おそらくはそうだ。それに、もちろん現実に関わる問題でもある。歴史のあらゆる幻滅もそれに対しては何ほどのものでもない。こうした声があるからこそ、人間の時間は進化という形式ではなく、まさしく「歴史」という形式をとっているのだ。」(p. 98)(フーコー「蜂起は無駄なのか?」高桑和巳訳)


でも権力握った後は、権力のフェティシズムの罠に陥らない人間は稀だ、稀ってのかそんなヤツほとんどいないよ。


あなた(権力者)が他者の夢の罠に嵌ったら、墓穴を掘るだろう[Si vous êtes pris dans le rêve de l’autre; vous êtez foutus](ドゥルーズ『創造行為とは何か』1987