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2021年8月30日月曜日

緑の絨毯とケシ畑とスティンガーミサイル

 そうかあ、こんなか。


日本ってのは平和な国だね、北と南に別の民族がいくらかいるだけだからな、国境もないしさ。


パキスタンとの国境は2430キロってあるけど、日本の長さは何キロだっけな。北海道から沖縄までの直線距離が2450キロほどらしいよ。

アフガニスタンの国境管理なんてあってないようなもんさ、たとえばダジキスタンとアフガニスタンの国境には一本の狭い川が流れているだけのところがあるらしい。



向こうがアフガニスタン、こっちがダジキスタンだ。もっとも、知らないだけで、国境というのはもともとこういうものかもしれないが。たとえばベトナムとラオスの国境は2069キロだそうだが似たようなところがあるに違いない。

でもこんな緑の絨毯みたいなところもあるんだな、




遊牧民の道、写真で見る限りは夢のような場所だ。


アフガニスタンの約65 万平方キロの国土のおよそ3 分の2 は標高1500 メートル以上で、90%以上が山岳または高原地帯になっており、冬季には雪で閉ざされ、しかも一年を通じてほとんど雨が降らない(2 。ほとんどのアフガン人が生存手段を農業に頼っているにもかかわらず、農耕に適した土地は国土のわずか10%、牧草の生育に適しているのも40%にすぎない(3 。こうした背景のなかで、貧困農民がケシ栽培に依存する、あるいは非合法経済を押さえた勢力が暗躍する、という状況が生まれる。(篠田英朗「アフガニスタンにおける平和構築とその限界」2007年)









アフガニスタンの国民は現在でも地方の農民が圧倒的多数を占めているが,彼らのイスラームに対する強い信仰には抜き難いものがある。そしてこのイスラーム信仰は一種の民衆的なナショナリズム(郷土愛)とも強く結びついているのである(鈴木均「アフガニスタン国家の特質と対周辺国関係」2008年)






1980 年代後半、アメリカやパキスタンなどの支援によって、ムジャヒディーン(ソ連軍およびアフガニスタンの共産党政権に対する戦いを、イスラームを守るための聖戦と捉えた武装ゲリラ集団)にスティンガー・ミサイルのような個人用武器が普及した。このような状況は、ソ連国内の強硬派の意見を強めた。


ソ連からもアフガニスタン政府勢力への武器譲渡が継続され、この時期のアフガニスタンは世界最大の武器受入国となっていた。ソ連での政権基盤が充分とはいえなかったゴルバチョフにとって、アフガニスタンからの早期撤退で政権内を一致させることは困難であったと考えられる。 (湯浅剛  「ソ連のアフガニスタン経験 ――外部勢力による介入政策と国家形成の展開――2009






1980 年代のムジャヒディーンはアメリカや中東諸国からの支援を含め、国際的なネットワークを備えた運動となっていた。彼らは、より広範かつ大量の兵力・財源を確保することができ、ソ連との戦いを有利に進めることができたのである。後に「国際テロ組織」アル・カーイダの指導者とされる、サウジアラビア出身のウサーマ・イブン=ラーディン(ビン=ラーディン) Usama ibn Muhamma ibn Ladin)がアメリカの支援を受け、ソ連軍介入期のアフガニスタンで活動していたことは、その一例であった。 (湯浅剛  「ソ連のアフガニスタン経験 ――外部勢力による介入政策と国家形成の展開――2009