この二週間ほどほとんど無知のーーいや「ほとんど」という言葉は誤魔化しであり、まったき無知と言ったほうがよいーーアフガニスタンをめぐって毎日勉強したのだが(といっても三十分かせいぜい一時間程度である)、ムジャヒディン(ムジャーヒディーン)という言葉が頻出する。タリバン自身、ムジャヒディンと呼ばれるのを好むらしい。
アフガニスタンの公用語であるパシュトゥー語で「学生たち」を意味するタリバンは、1979~89年によるソ連のアフガニスタン侵攻に抵抗したムジャヒディン(イスラム・ゲリラ組織の戦士)によって形成された。カンダハル州のイマーム(イスラム教導師)だったムハマド・オマルが1994年にタリバンを創設し、米CIAとパキスタンの情報機関である軍情報統合局(ISI)が、同組織を密かに支援していた。 |
その後、パキスタンのマドラサ(イスラム神学校)で学んだパシュトゥン人の若者たちが、タリバンに参加した。パシュトゥン人は、アフガニスタンの南部と東部で多数派を占める民族であり、パキスタンの北部と西部における主要民族でもある。 タリバンはアフガニスタン南部を拠点とし、同地域で影響力を拡大していった。米シンクタンクの外交問題評議会はタリバンについて、ソ連軍の撤退後、1992年~96年にかけて対立する複数のムジャヒディン組織が争いを繰り広げていたなかで、アフガニスタンに安定をもたらすという約束を掲げて、国民の支持を獲得していったと説明している。(「タリバンとは何者か、なぜ恐れられるのか A Brief History of the Taliban's Rule in Afghanistan」スー・キム、2021年8月20日) |
Wikipediaを見るとこうある。
ムジャーヒディーン(アラビア語: مجاهدين、mujāhidīn)は、アラビア語で「ジハードを遂行する者」を意味するムジャーヒド(アラビア語: مجاهد、mujāhidn)の複数形。一般的には、イスラム教の大義にのっとったジハードに参加する戦士たちのことを指す。今日ではイスラム教により連携した民兵や軍閥を指すことが多い。 |
歴史的には、個々のムスリム(イスラーム教徒)たちがジハードに対する意識を常に持っていたわけではなく、むしろ近代に至ってイスラム世界に対する侵略に対抗する民衆の抵抗運動において、ムジャーヒド意識が発揮されてきた。19世紀にインドで起こった対英ジハード「ムジャーヒディーン運動」は、その代表的なものである。 |
アフガニスタンで1978年にアフガニスタン人民民主党による共産政権が成立すると、各地で組織された反政府ゲリラが蜂起した。彼らは自分たちの闘争をアフガニスタンのイスラームを防衛するジハードと位置付け、自らムジャーヒディーンと名乗った組織にはブルハーヌッディーン・ラッバーニーが組織し、アフマド・シャー・マスードが軍事的に率いた「イスラーム協会」や、グルブッディーン・ヘクマティヤールが率いる「ヒズビ・イスラーミー(イスラーム党)」、毛沢東主義を掲げるアフガニスタン・ムジャーヒディーン自由の戦士戦線(英語版)などがあった。1979年にソ連軍が軍事介入すると、ムジャーヒディーンはこれにも対抗した。彼らはパキスタン軍統合情報局などからの支援を受け、ソ連軍に激しく抵抗した。アフガニスタンのムジャーヒディーンには、アフガニスタンのみならずイスラム世界の各地から志願兵として若者が集まってきたが、その中心人物がアブドゥッラー・アッザームで、ウサーマ・ビン=ラーディンもその志願兵の1人だったということが知られている。 |
アメリカもCIAを通じてこのようなゲリラ組織に武器や装備を提供していた(サイクロン作戦)。アフガニスタンのムジャーヒディーンは中国からも武器や訓練で援助されていた[1]。ソ連軍の撤退以降、ムジャーヒディーン各派はアフガニスタンでの主導権をめぐり対立、軍閥化していった。後にパキスタン軍統合情報局が支援するターリバーンが台頭すると、ムジャーヒディーンの諸派は連合し北部同盟としてこれに対抗した。(Wikipedia) |
ここで重要なのは、悪名高きジハードとはもともとは、植民地主義、帝国主義に対する「民衆の抵抗運動」だったという記述があることだ。しかもアフガニスタンへのソ連侵攻時代には、米国がこのムジャーヒディーンを援助していたことだ、タリバンの母体であるムジャーヒディーンを、である。多くの皆さんはきっとご存知であるのだろうことを今ごろしかと知ったことを白状しておかねばならない。
しかもソ連時代には女性の自由化が進められていたのだが、ムジャーヒディーンは「女性の権利」を否定する集団である。
さて先ほどのWikipediaで黒字強調した箇所のもう一つは「19世紀にインドで起こった対英ジハード「ムジャーヒディーン運動」は、その代表的なもの」だが、もともとインドでのムジャヒデンがその起源だと言っている研究者がいる。
ムジャーヒディーン運動は 19 世紀北インドの固有の政治的、社会的、文化的背景の上に成り立っている。彼らは南アジアにおいて初めて武力を伴ったジハードを実行した。そのため彼らの 死後 1 世紀後に誕生するパキスタンの最初の「創始者」として描かれ[Khan 2012: 87]、現在のイスラーム過激派組織にも影響を与えている。彼らのジハードは不成功に終わったが、南アジアのムスリムにとって象徴的な事件であり、19 世紀後半のムスリムに対して、結果的に宗教的でコミュナルな意識を形成させるのに大きな影響を与えたとみることもできる[Jaffar 1991: 86]。それゆえに 南アジアのムスリムとヒンドゥーの政治的・社会的関係という文脈からも論じる必要がある。 ムジャーヒディーン運動の研究において、南アジアで発展したイスラームの思想との流れやアラ ビア半島といったイスラーム世界との思想的なつながりの解明すること、そしてムジャーヒディーン運動を南アジアの固有の文脈でとらえなおすことが今後の課題である。(松田和憲「ムジャーヒディーン運動研究 の軌跡と課題」2015年) |
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ーーこれ自体、反植民地運動としてよいだろう。
以下も資料の列挙だが、アフガニスタンのムジャヒディンにかかわって、「デュアランドライン Durand Line」がもう一つの重要な鍵言葉であるようだ。
1970 年代末以来のソ連軍介入によるアフガニスタンの政治的混乱は、周辺地域はもとより国際的にも不安定要因を生み出すきっかけとなった。その波動は現在にも及んでいる。大量の難民の発生、アフガニスタン国内の民族・地方間の対立・分裂、主要な勢力となるさまざまな「ムジャヒディーン」 mujāhidīn(ソ連軍およびアフガニスタンの共産党政権に対する戦いを、イスラームを守るための聖戦と捉えた武装ゲリラ集団)の台頭、これらのムジャヒディーンへの外国人「義勇兵」の参入、周辺国・主要国から紛争当事者への武器譲渡を含む支援の増大による戦乱の助長、そして後に「軍閥」と総称されるようになる一部の地方有力者による麻薬生産とその国外への流出など、その例を挙げればきりがない。(湯浅剛 「ソ連のアフガニスタン経験――外部勢力による介入政策と国家形成の展開―― 」2009年) |
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まず、アフガニスタンは東南部から西南部にかけて大きくパキスタンに囲まれている。パキスタンはかつてインドの一部であったが、そこから分離独立したイスラム教国である。したがって、パキスタンの人口のマジョリティはインドにも多数生活しているパンジャブ人だが、その北部一帯に、実は南部を中心にアフガニスタンでマジョリティをなすパシュトゥン人が2200万人(全パキスタンの約16%)も生活している。このパシュトゥン人がアフガニスタンとパキスタンにニ分されたのは、インドとの国境紛争が持続するのを恐れたイギリスが1893年アフガニスタンに押しつけた国境線(いわゆるデュラントライン)によってである。 |
しかし、この人為的な国境確定には無理があった。アフガニスタンは以来今日までこの国境の画定に不満を持ち、両国に分断されたパシュトゥン人はその統一を主張してきた。実際、同じ同胞意識を持つパシュトゥン人にとって、この国境は無用の長物であり、障害以外の何者でもなかった。パキスタンがアフガニスタンのパシュトゥン人の動向に関心を持ち、アフガニスタンがパシュトゥン人主体の体制にあることを支持してきたのも、パキスタンの政局の安定はパシュトゥン人の支持なしにはあり得ないからでもある。 |
ことにパキスタンはソ連のアフガニスタン侵攻時、アフガニスタンの反体制武装勢力、いわゆるムジャヒディン(イスラム戦士)の対ソ戦の聖域であり、兵姑基地として決定的に重要な役割を演じた。この結果、パキスタン国内にイスラム原理主義支援の温床が広がり、タリバン支持者が多数存在したのである。パキスタンがアフガニスタン攻撃のための米国への軍事基地提供に消極的であったのも、パキスタンがタリバン後の政権の行方に極度に神経をはりめぐらすのもこのためである。(小山茂樹「アフガニスタンをめぐる政治力学ータリバン後の行方ー」2002年) |
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アフガニスタンは多民族国家である。パシュトゥーン以外の民族を考慮に入れてアフガニスタン国家を構成する諸民族を総称してアフガニスタン人と呼び、アフガン人と区別して議論した方がよい。通常アフガン人とは約半数を占める多数派民族であるパシュトゥーンを指すが、東部・北部のペルシャ系といわれるタジクは数の上で第2の民族で20-30%の人口を占めると見られる。それ以外に、チュルク系のウズベク、トルクメン、クルグズ、アイマクのはか、モンゴル系と見られるハザーラがいる。ハザーラとウズベクはそれぞれ約10%の人口を占め少数民族のなかでは比重が大きいと見られる。それ以外にも多様な少数民族を抱えている。パシュトゥーンも一枚岩ではない。大きくドゥッラッニー(Durrani)とギルザイ(Ghilzai)という二つの部族連合体に分かれ、両者は歴史的に激しく対立してきた。一貫してアフガニスタンの3つの王朝を輩出してきたのはドッラッニーである。パシュトゥ一語とグリー(ペルシャ)語が2大主要言語の地位を占めてきた。(清水学「アフガニスタンの「近代化」と国民統合一試論」2005年) |
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今日のアフガニスタンの原型は1747年のドゥッラーニーのサドザイ部族のアフマド・シャ一によって樹立されたパシュトゥーン人の部族連合国家である。アフガニスタンの領域はその後、現在のパキスタンの連邦直轄部族地域と北西辺境州をも含んだ時期もあり、また西部のヘラートをペルシャに奪われた時期もあった。しかし1978年4月までの2世紀半の間, 1920年代末の極めて短期間タジーク系の支配があったほかは、ドゥッラーニー出身の3王朝系が支配してきており、歴史的連続性の意識を支えてきた。現在のカルザイ大統領もドゥッラーニーである。その間、19世紀から3次にわたる対英戦争を戦い、また英露に「緩衝国」の役割を押しつけられてきたという、歴史の共有意識も存在している。パシュトゥーン社会は外敵に対しては結束し、外敵が去ると相互の対立が浮上すると指摘されることが多い。 |
第2の結集力はイスラームとその世界観・価値観の共有である。住民のタリーカ(神秘主義教団) -の帰属も重要な役割を果たした。マルクス主義政権であっても公然と無神論を表明することはなく、またその指導者の多くもイスラームとマルクス主義が共存できると考えていた。(清水学「アフガニスタンの「近代化」と国民統合一試論」2005年) |
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英領インドから独立を達成したインドとならぶ後継国家パキスタンは、デユアランド・ラインによってアフガニスタンとの正式国境は最終的に確定されたという立場をとってきた。デユアランド・ラインとは、19世紀末に英領インド政府のデゥアランド大佐がアフガニスタンのアブドゥルラフママーンとの間で合意したとされる、英領インドとアフガニスタンの間の国境設定である。これは北はパミル高原のサリコル(Sarikol)山脈に始まり南東に向かって、イランとの国境であるコーヒー・マ-リク・スィア(KOhiMalik Siah)の岩地に至る分割線である。これはエスニック集団あるいは地理的分岐線を考慮したものではなく、また防衛可能な戦略的考慮に基づくものではなかった【S. Iftikhar Hussain】。 |
英領インドはデユアランド・ラインと英領インドの間にさらに緩衝地域を設定せざるを得なかった。それは主としてパシュトゥーン系の部族が住む現在のパキスタン連邦直轄部族地域(Federally Administered Tribal Areas : FATA)で、英国の支配権が確立されている北西辺境州とデユアランド・ラインの問に横たわる地域である。英国の支配権が事実上及ばず伝統法に従う自治が認められた地域である。この不可侵性は後継国家であるパキスタンによってごく最近まで尊重されてきたが、ビンラーディン追撃のためパキスタン軍や米軍がしばしば入るようになり、地元民との新たな紛争を生んでいる。その南端の南ワジーリスターンにはアルカートイダ勢力が現地の部族に支援されて潜伏しているとされる。アフガニスタンはデユアランド・ラインがパシュトゥーンの多住地域である現在のパキスタンの北西辺境州、連邦直轄部族地域(Federally Administered Tribal Areas:FATA)、バルーチスターンの一部をアフガニスタンから不当に切り離したものとして、その不当性と非合法性を主張してきた。〔・・・〕 |
1947年9月30日の国連総会でパキスタンの国連加盟問題で唯一の反対票を投じた国はアフガニスタンであった。1949年に起きた「パシュトゥ一二スターン」問題を巡る両国の衝突に際し、アフガニスタンのザーヘル・シャー国王は「デユアランド・ラインの向こう側のアフガン人」と呼びパキスタン側を刺激した。(清水学「アフガニスタンの「近代化」と国民統合一試論」2005年) |
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すでにふれたように,アフガニスタン国家の存立にとって歴史上そして 現在において最も重要かつ決定的な意味をもってきたのは 1893 年に英国 によって策定されたデュアランド・ラインである。デュアランド・ラインに 関しては第2章以降でも言及があるが,ここでは最も基本的な事項のみ押さえておくことにする。 |
そもそもデュアランド・ラインというのは 1893 年 11 月 12 日に英国のインド総督特使モーティマー・デュアランド卿と時の国王アミール・アブドゥルラフマン・ハーンの間で結ばれた数項目にわたる合意であって,合意文書に当該地域の地図は添付されているが国境線の画定ではない。その合意文書によると南西部のチャマン周辺などとくに問題のある地域については具体的な記述があるものの,それ以外は将来的な国境線の画定にゆだねており,ペシャーワル北西部のモフマンド Mohmand 居住地域については空白である。またこの合意はアフガニスタンの北辺オクサス川およびハリー ルード川流域における対ロシア国境(10)の地域におけるアフガン軍の撤退とセットになっており,この合意によってアフガニスタンを英露の緩衝国 と位置づける意図が明白であった。 |
とりわけ対パキスタン国境の東端約 300 キロメートルに及ぶ部分において,アフガニスタン側の領土はいわば盲腸のような形をなして対中国国境 へと至るが,ヌーリスターンと呼ばれるこの地域はかつてカフィーリスターン(異教徒の地)と呼ばれ,アフガニスタン本国からすればむしろ厄介な異教徒の住む邪魔な存在でもあった。これを 1895 年の冬に時の国王 アミール・アブドゥルラフマン・ハーンに武力で平定させ,住民にイスラームへの改宗を強要することを許した英国側の意図は,もっぱら英領インド北辺のこの地域におけるロシアへの地政学的な予防策にあったことは明らかである(11)。 |
アダメクによるとその後英国はこの合意がアブドゥルラフマンとの「個人的な」ものであったと表明しているが,しかし同時にこの合意が永続的でもあると主張している。1919 年のラワルピンディ和平協約でインド・アフガニスタン国境線について誓約の後,1921 年のカーブル協定以降はこれが継承されて現在に至っている(12) [Adamec 1980: 403-405] 。 |
デュアランド・ラインはその後 1947 年以降はパキスタンとの実際上の国境線として固定化する一方,アフガニスタン国内においてはパシュトゥーン民族主義者たちによる「パシュトゥーニスターン」運動の最大の解決すべき攻撃目標ともなった。 |
だがここで指摘しておくべきことは,「パシュトゥーニスターン」の創設が仮に実現したとしても,その場合それは少なくとも現在のアフガニス タン国内におけるパシュトゥーン人と他の少数民族の人口構成の劇的な変化を意味し,現在人口の半分以上を占めているパシュトゥーン民族以外の国民にとって決して歓迎すべきことではないという事実である。加えてこの国境地域における徹底したパシュトゥーン部族主義のアフガニスタン国内への浸透が,結果としてターリバーン支配と似たような状況をもたらす可能性すら否定できないといわれる[Adamec 2003: 405] 。 さてアフガニスタン近代史のなかでパシュトゥーニスターン運動が盛り上がりをみせたのは,1950 年代と 1973 年のダーウード・ハーンによるクーデター以降の時期であるが,パキスタン・アフガニスタン関係の底流としては 1947 年以来常に存在してきた。そのなかでもアブドゥル・ガッファー ル・ハーン(Abdul Ghaffar Khan, 在位:1890 ~ 1988 年)はパシュトゥーニスターン運動を象徴する代表的な人物の一人である。 |
彼の主張は単にパシュトゥーン民族の居住地域の独立を主張するだけではなく,印パの分離独立を否定してより広大な領域の統一的独立をめざすものであった。ガッファール・ハーンはマハトマ・ガンジーの非暴力思想に共鳴して「辺境のガンジー」と呼ばれ,印パ分離独立に反対して 「パタニスターン」の独立を主張した。彼は世俗主義の立場にたって数多くの政治組織を精力的に指導したが,なかでも「神の挺身者 Khudai Khidmatgar」(赤シャツ隊)が最も有名である。ガッファール・ハーン はパキスタン国籍を取得して同国で政治活動を行い,長期間投獄もされたが,アフガニスタンを愛した彼はカーブルでは何度となく政府の厚遇のもとに生活した。彼は 1988 年にペシャーワルで没し,その遺志によりアフガニスタン領内のジャラーラーバードに葬られたという[Chand 1989]。
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しかしこのような運動は現在まで具体的な結実をみることなく,後景に退いた形になっている。他方これとは全く異なる文脈で,インド・パキスタン・アフガニスタンから中央アジアまでをひとつの地域として再編成しようとする戦略的構想が米国政府によって最近推進されてきており(第2 章を参照) ,これらの動きは米国政府が対中国戦略を含めてインドをこの地域の戦略的なパートナーとして位置づけなおしていることを示唆している。 |
アフガニスタンとパキスタンのデュアランド・ラインを挟んだ関係が重要なのは,ひとつにはアフガニスタンにおいて世界最大規模で生産される ヘロインが現在でもおもにこの国境を通って国際市場に流出しているからである。他方米軍の度重なる掃討作戦にもかかわらず,現在でも不安定な アフガニスタン南部における治安情勢は,最近のパキスタン国内の「ター リバーン化」と深く連動しており(第4章を参照),国際的な秩序の維持をすら脅かしかねない。 |
これらの問題は本質的にアフガニスタンの南側の国境であるデュアランド・ラインをめぐる問題であるといえ,パキスタン領内の北西辺境州やバ ローチスターン州を含め国境周辺地域にほぼ自律的に存在しているパシュ トゥーン諸部族の動向によってアフガニスタン・パキスタン関係そのもの が大きく規定されている現状をよく物語っているといえる。(鈴木均「アフガニスタン国家の特質と対周辺国関係」2008年) |
以上、二週間漬けの身の者として特にコメントをするつもりはない。
※付記
パシュトゥーン人(パシュトー語: پښتون Paẍtun[男性]、پښتنه Paẍtana[女性])は、アフガニスタンのイラン系民族である。アフガニスタン内で最大の人口を持つ。パフトゥーン (Pakhtun)、パターン (Pathan)、アフガン(アフガーン、Afghān)など様々な名で知られる。アフガニスタン(アフガーニスターン、Afghānistān)は、ペルシア語およびダリー語で「アフガン人(パシュトゥーン人)の国」の意味。(Wikipedia) |
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パキスタンの現在人口220,998,678人(5位)2019年、16パーセントがパシュトゥーン人だそうで、3500万人ほどいることになる。他方、アフガニスタンの人口3700万人であり、パシュトゥーン人の割合は50パーセント弱。もしアフガン民族ということを言うなら、パキスタンにいるアフガン人のほうがずっと多いことになる。なにはともあれ1893年のデュアランドラインによって分割されたのがアフガン人=パシュトゥーン人である。
「タリバンは強姦によって生まれた子供である」、ーーこのぐらいは言っておこう。 |
スピヴァックは「ポストコロニアリティとは強姦によって生れた子どもである」という言い方をしています。強姦自体はどんなことがあっても正当化されない。しかし、子どもができてしまった場合は、その子どもを排除してはならないという意味です。この言葉自体を、誰が、どこにアクセントを置いて、どういうふうに言うかで、まさに発話の位置が問われるような言葉だと思います。スピヴァックは直接にはインドの言語状況における英語のプレゼンスについて語っているのですが、これが現実の植民地状況で、今なお起きている事態であり、単なるメタファーとして言っているのではないでしょう。(鵜飼哲 共同討議「ポストコロニアルの思想とは何か」『批評空間』Ⅱ 11-1996) |
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ポストコロニアリズムの 「ポスト」は、コロニアリズムが終わったという意味ではない。〔・・・〕一般の意識においては過去とみなされていながら現代のわれわれの社会性や意識を深く規定している構造、それをどう考えるのか、それとどう向き合っていくべきかという問題提起が、この接頭辞には含まれている。(鵜飼哲『〈複数文化〉のために』 ) |