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2021年9月11日土曜日

喪われたもののレミニサンス

 すこし訳ありで、フロイトの不幸な訳語「抑圧」について確認しておく。



われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧は、後期抑圧の場合である。それは早期に起こった原抑圧を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力をあたえる[die meisten Verdrängungen, mit denen wir bei der therapeutischen Arbeit zu tun bekommen, Fälle von Nachdrängen sind. Sie setzen früher erfolgte Urverdrängungen voraus, die auf die neuere Situation ihren anziehenden Einfluß ausüben. ](フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年)



抑圧には原抑圧[Urverdrängungen]と後期抑圧Nachdrängenがあることが示されている。後期抑圧は後年、《後期抑圧 Nachverdrängung》(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)ともされている。



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以下、抑圧とは何かについて、である。


フロイトは、抑圧[refoulement は禁圧[répression]に由来するとは言っていない[Freud n'a pas dit que le refoulement provienne de la répression ](Lacan, Télévision, AE 528, 1974)


今、慣習に従って抑圧[refoulement]と訳したが、仏語の refoule の最も基本的な意味は「押し返す」「押しのける」「追い払う」であるようで、英語の repel に近い。抑圧されたものの回帰とは「押しのけられたものの回帰」とすると理解しやすい。


症状形成の全ての現象は、「抑圧されたものの回帰」として正しく記しうる[Alle Phänomene der Symptombildung können mit gutem Recht als »Wiederkehr des Verdrängten« beschrieben werden.](フロイト『モーセと一神教』3.2.61939年)


ーー症状のない主体はない[il n'y a pas de sujet sans symptôme](Colette Soler, Les affects lacaniens , 2011


抑圧されたものの回帰と抑圧は同じものということには驚かないでしょうね? [Cela ne vous étonne pas, …, que le retour du refoulé et le refoulement soient la même chose ? ](Lacan, S1, 19 Mai 1954)



人にはみな押しのけられたものの回帰がある。これが現代フロイトラカン派の考え方である。これは歴史においても基本的には同様である。たとえば難民は押しのけられた人々である。したがって難民は回帰する、その回帰の仕方は多様だろうが。


極めて冷酷な現実は次のようなものである。ある領域を統治する勢力にとって、自らの統治に服すことを潔しとしない人間が難民として流出していくことは、統治のコストを抑えられるが故に、好都合である。(池内恵『サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』2016年)


この現代日本における最も優れた中東研究者のひとり、池内恵の記述は、あくまで一時的な「好都合」であり、長期的には大きな「不都合」をもたらしうる。


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日本では従来 Verdrängung は「抑圧」と訳されるが、ドイツ語の語感からは「抑圧」ではなしに「追放」とか「放逐」が正しく、「抑圧」はむしろUnterdrückung(かりに上では「抑制」と訳したところの)に当る訳語である。(フロイト『夢判断』下 高橋義孝訳 註 新潮文庫 p. 379

中井久夫)「抑圧」の原語 Verdrängung は水平的な「放逐、追放」であるという指摘があります。とすれば、これをrepression「抑圧」という垂直的な訳で普及させた英米のほうが問題かもしれません。もっとも、サリヴァンは2030年代当時でも repression を否定し、一貫して神経症にも分裂病にも「解離」(dissociation)を使っています。(「共同討議」トラウマと解離」(斎藤環/中井久夫/浅田彰『批評空間』2001 Ⅲ-1


サリヴァンは原抑圧も後期抑圧も解離と言っていたことになる。


だが中井久夫は一年後に解離という語を言語以前、つまり排除(原抑圧)に限定している。


サリヴァンも解離という言葉を使っていますが、これは一般の神経症論でいう解離とは違います。むしろ排除です。フロイトが「外に放り投げる」という意味の Verwerfung という言葉で言わんとするものです。〔・・・〕解離とその他の防衛機制との違いは何かというと、防衛としての解離は言語以前ということです。それに対してその他の防衛機制は言語と大きな関係があります。解離は言葉では語り得ず、表現を超えています。その点で、解離とその他の防衛機制との間に一線を引きたいということが一つの私の主張です。PTSDの治療とほかの神経症の治療は相当違うのです。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

原抑圧は排除である[refoulement originaire…ce…à savoir la forclusion. (J.-A. MILLER, CE QUI FAIT INSIGNE COURS DU 3 JUIN 1987)


フロイトにとって原抑圧は固着でもある。


抑圧の第一段階ーー原抑圧された欲動ーーは、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, (primär verdrängten Triebe) dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ]。(フロイト『症例シュレーバー 1911年、摘要)


《原抑圧された欲動[primär verdrängten Triebe]》(『症例シュレーバー 1911年)=《排除された欲動 verworfenen Trieb]》(『快原理の彼岸』1920年)


原抑圧と同時に固着が行われ、暗闇に異者が蔓延る[Urverdrängung… Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; …]wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen, ](フロイト『抑圧』1915年、摘要)


ラカンの現実界は、フロイトの無意識の核であり、固着のために置き残される原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、表象への・言語への移行がなされないことである。The Lacanian Real is Freud's nucleus of the unconscious, the primal repressed which stays behind because of a kind of fixation . "Staying behind" means: not transferred into signifiers, into language(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年)


こうして原抑圧は排除と固着[Verwerfung und Fixierung]であることが確認できた筈である。



他方、抑圧、つまり後期抑圧はどうか。


接頭辞Ver-は、ヴァーリヒ辞典の定義ではまずAbweichen(逸脱・脱線・横道に逸れる)と定義されている[prefix Ver-, which the Wahrig dictionary defines first as Abweichen, or deviation, digression, straying away. ]〔・・・〕


抑圧 Verdrängung」概念は、さらに二つのVer- 概念を伴う。すなわち、圧縮と置換[Verdichtung and Verschiebung]である。この二つの概念は、フロイトにとって夢作業の基本メカニズムの名である[The concept of repression entails two further Ver- concepts, that of Verdichtung and Verschiebung, condensation and displacement, which for Freud name the basic mechanism of the dream-work, Traumarbeit](ムラデン・ドラー Mladen Dolar, Hegel and Freud, 2012

圧縮と置換を通した代理満足[daß er durch Verdichtung und Verschiebung zum Befriedigungsersatz]。(フロイト『精神分析入門』第24章、1917年)


後期抑圧は、圧縮と置換[Verdichtung und Verschiebung]にかかわる。これはラカンにおいては、隠喩と換喩[la métaphore et la métonymie]に相当する。


さきほど見たように原抑圧は現実界であり、享楽は現実界にある。つまり後期抑圧は、享楽に対する隠喩と換喩である。


愛は隠喩である[l’amour  est une métaphore,(Lacan, S8, 30  Novembre 1960)

欲望は換喩である[le désir est la métonymie(Lacan, E623, 1958)

享楽の換喩がある。すなわち弁証法的なものである。この瞬間にそれは意味作用をもつ[il y a la métonymie de la jouissance, c'est-à-dire sa dialectique.  A ce moment-là il se dote de signification. (J.-A. Miller, Lire un symptôme, 2011)


もちろん換喩だけでなく隠喩も意味作用(言語化)に支配されている。


こうして後期抑圧が、圧縮と置換[Verdichtung und Verschiebung]にかかわることが示された筈である。


以下、日本の研究者による抑圧をめぐる二つの記述を掲げておく。


「抑圧」と通例訳される verdrängen は,drängen という動詞に,ver という接頭辞がついたものである。Drängen とは「押す」こと,「押しやる」ことであり,排除を示す ver との組み合わせからして,verdrängen は「押しのける」と訳すことができるだろう。


一方で unterdrücken を見れば,drücken もまた「押す」,「押さえる」であるが,ここには「下へ」という方向性を示す接頭辞 unter が付されていることこそ特徴的である。「押さえ込み」と訳してきた unterdrücken はしたがって正確に述べれば,「下へ押さえつけること」である。ひるがえって見れば「抑圧」においては,そもそもこの「下へ」という垂直的な作用のニュアンスは,言葉そのものには存在しないことにも気づかれる。(上尾真道フロイトの冥界めぐり―― 『夢解釈』の銘の読解 ――2016年)


抑圧はフロイトによって明らかにされた心の働きで、 意識すると激しい深い苦痛、不快、不安が起こる心の内容を無意識の中に押し込んでしまう心の働きとして一般に理解されている。ところが、ドイツ語の Verdrängung は、座っていた席からその人を追い出し、そこに別な人が座る現象を意味する。つまり、ただ単に心の内容(本来の願望)を無意識に追い出すだけでなく、そこに別な心の内容(たとえばヒステリーの症状)を置き換えてしまう心の働きを含む。それゆえに、Verdrängung を英語では抑圧 repression と訳すことには疑問が生じる。(船谷華世子「精神分析学の父、ジークムント・フロイト」)



………………



原抑圧と後期抑圧の相違をもういくらか詳しく示せば次のようになる。





これは想起とレミニサンスの相違である。




想起のほうはいいだろう、レミニサンスにかかわる中心語彙は「異者としての身体」 Fremdkörperである。

私は問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっていると考えている。これを「強制 forçage」呼ぼう。これを感じること、これに触れることは可能である、レミニサンスと呼ばれるものによって。レミニサンスは想起とは異なる。

Je considère que …le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. …Disons que c'est un forçage.  …c'est ça qui rend sensible, qui fait toucher du doigt… mais de façon tout à fait illusoire …ce que peut être ce qu'on appelle la réminiscence.   …la réminiscence est distincte de la remémoration (ラカン、S.23, 13 Avril 1976、摘要)


トラウマないしはトラウマの記憶は、異物(異者としての身体 Fremdkörper )のように作用する。この異物は体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ。〔・・・〕この異物は引き金を引く動因として、たとえば後の時間に目覚めた意識のなかに心的な痛みを呼び起こし、レミニサンスに苦しむ。

das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt, welcher noch lange nach seinem Eindringen als gegenwärtig wirkendes Agens gelten muß..[…] als auslösende Ursache, wie etwa ein im wachen Bewußtsein erinnerter psychischer Schmerz […]  leide größtenteils an Reminiszenzen.(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)


ーー異者としての身体がレミニサンスするのである。


そしてこの異者としての身体が現実界の享楽である。


フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel ](Lacan, S23, 13 Avril 1976

モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger](Lacan, S7, 09  Décembre  1959)


現実界のなかの異物概念(異者概念)は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ](J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004



このあたりは中井久夫が実にわかりやすい形で表現している。


外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)


ーーこの中井久夫の文から異物の回帰とはトラウマの回帰として捉えうる。



抑圧されたものの回帰は、享楽の回帰と相同的である[retour du refoulé, …symétriquement il y a retour de jouissance, J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 10/12/97、摘要)


抑圧されたものの回帰の原点は享楽の回帰[le retour de jouissance]であり、つまりはトラウマの回帰[le retour du traumatisme]である。


享楽は現実界にある[la jouissance c'est du Réel](Lacan, S23, 10 Février 1976)

問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている[le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme.  ](Lacan, S23, 13 Avril 1976



享楽とはもともと「斜線を引かれた享楽」として示されるものであり、喪われた享楽、別の言い方なら「去勢された享楽=身体」ーー以前は自己身体だと見做していたものが去勢されて「穴化=トラウマ化」することである。すなわち「モノ=異者としての身体」とは、「喪われた身体」である、《ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる[ Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance]》(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011


したがって享楽の回帰[le retour de jouissanceとは、喪われた身体の回帰le retour du corps perdu]と表現してもよい筈である。こういう風に言っているラカン派には行き当たらないが、論理的にはこうならざるをえない。

ここでは、プルースト主義者としてこう言っておこう。

原抑圧されたものの回帰、つまり排除されたものの回帰[Le retour du forclosとは、喪われたもののレミニサンス[la réminiscence du perdu]だ、と。


異者はかつての少年の私だった l'étranger c'était l'enfant que j'étais alors

私の現時の思考とあまりにも不調和な何かの印象に打たれたような気がして、はじめ私は不快を感じたが、ついに涙を催すまでにこみあげた感動とともに、その印象がどんなに現時の思考に一致しているかを認めるにいたった。()最初の瞬間、私は腹立たしくなって、誰だ、ひょっこりやってきておれの気分をそこねた見知らぬやつ(異者)は、と自問したのだった。その異者は、私自身だった、かつての少年の私だった。


je me sentis désagréablement frappé comme par quelque impression trop en désaccord avec mes pensées actuelles, jusqu'au moment où, avec une émotion qui alla jusqu'à me faire pleurer, je reconnus combien cette impression était d'accord avec elles.[…] Je m'étais au premier instant demandé avec colère quel était l'étranger qui venait me faire mal, et l'étranger c'était moi-même, c'était l'enfant que j'étais alors, (プルースト「見出された時」Le temps retrouvé (Deuxième partie)  


PTSDに定義されている外傷性記憶〔・・・〕それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年『アリアドネからの糸』所収)


さてこの記事で示したことは、次の表現群は基本的に等価だろうということである。



なぜこうダイレクトに言わないんだろうか、世界のラカン派の連中は? ニブインダロウカ? ラカンはモノ、つまり異者としての身体が喪われた対象であるとはっきり言っているのに。


享楽の対象としてのモノは喪われた対象である[Objet de jouissance …La Chose…cet objet perdu](Lacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要)



あと10年か20年ぐらいたったら、何人か言う人がいることを期待して、ここに未来のために図表にしておいた・・・