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2021年9月12日日曜日

常にニーチェを思う


常にニーチェを思う[Toujours penser à Nietzsche](『彼自身によるロラン・バルト』1975年)


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前回プルースト主義者として次の図表を示した。




フロイトの「原抑圧されたものの回帰」は、上の表現群と等価であるだろうことを示したのである。



ここでは、プルースト主義者と同時にニーチェ主義者である蚊居肢子は、先程の表に永遠回帰をつけ加えることにする。異郷にあった「おのれ」の永遠回帰である。



偶然の事柄がわたしに起こるという時は過ぎた。いまなおわたしに起こりうることは、すでにわたし自身の所有でなくて何であろう。


Die Zeit ist abgeflossen, wo mir noch Zufälle begegnen durften; und was _könnte_ jetzt noch zu mir fallen, was nicht schon mein Eigen wäre!  


つまりは、ただ回帰するだけなのだ、ついに家にもどってくるだけなのだ、ーーわたし自身の「おのれ」が。ながらく異郷にあって、あらゆる偶然事のなかにまぎれこみ、散乱していたわたし自身の「おのれ」が、家にもどってくるだけなのだ。


Es kehrt nur zurück, es kommt mir endlich heim - mein eigen Selbst, und was von ihm lange in der Fremde war und zerstreut unter alle Dinge und Zufälle.  (ニーチェ『ツァラトゥストラ 』第3部「さすらいびと Der Wanderer1884年)


この「異郷にあったおのれの回帰」こそ、自我の異郷部分 das ichfremde Stück]の回帰である。


エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。〔・・・〕われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物(異者としての身体 Fremdkörper)ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状と呼んでいる。〔・・・〕この異物は内界にある自我の異郷部分である。Triebregung des Es […] ist Existenz außerhalb der Ichorganisation […] der Exterritorialität, […] betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen […] das ichfremde Stück der Innenwelt (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)



この異者としての身体が永遠回帰するものであることは、フロイトをいくらか読み込めば、はっきりそう示しているのがわかる➡︎「抑圧されたものの回帰と永遠回帰は同じものということには驚かないでしょうね?



というわけで、先程の表に、異者として身体の永遠回帰[l'éternel retour du corps etranger]をつけ加えなければならない。




これは、バルト風に言えば、身体の記憶のレミニサンスである。


私の身体は、歴史がかたちづくった私の幼児期である[mon corps, c'est mon enfance, telle que l'histoire l'a faite]。匂いや疲れ、人声の響き、競争、光線など[des odeurs, des fatigues, des sons de voix, des courses, des lumières]、失われた時の記憶[le souvenir du temps perdu]を作り出すという以外に意味のないもの(幼児期の国を読むとは)身体と記憶[le corps et la mémoire]によって、身体の記憶[la mémoire du corps]によって、知覚することだ。(ロラン・バルト「南西部の光 LA LUMIÈRE DU SUD-OUEST1977年)


そう、ここにニーチェ主義者であるとともにプルースト主義者のバルトがいる。人はフーコーやらデリダ、ドゥルーズ などのたぐいのコモノたちばかり読んでいると道を誤る。おわかりだろうか?


私の記憶はすでにアルベルチーヌへの愛を失っていた。しかし肢体の無意志的記憶といったものがあるように思われる、それは他の無意志的記憶の、生気のない、不毛な模倣で、あたかも下等なある種の動物や植物が人間よりも長く生きているように、それは生きのこっているのだ。脚や腕は鈍磨した回想に満ちている。


Ma mémoire avait perdu l'amour d'Albertine, mais il semble qu'il y ait une mémoire involontaire des membres, pâle et stérile imitation de l'autre, qui vive plus longtemps comme certains animaux ou végétaux inintelligents vivent plus longtemps que l'homme. Les jambes, les bras sont pleins de souvenirs engourdis. 


それは私の腕のなかに瞬化したレミニサンスが、パリの私の部屋でのように、私に背後の呼鈴をさがさせたのだった。そしてそれが見つからないので、「アルベルチーヌ」と私は呼んだのであった、亡くなった女友達が夜よくそうしていたように私のそばに寝ているものと考え、そんなふうに二人でいっしょに眠りこんだ目ざめぎわに、私の手に見つからない呼鈴をアルベルチーヌがまちがいなくひっぱってくれることをあてにして、フランソワーズがやってくるのにどれだけ時間がかかるだろう、とそんなことを考えていたものと思われる。


Une réminiscence éclose en mon bras m'avait fait chercher derrière mon dos la sonnette, comme dans ma chambre de Paris. Et ne la trouvant pas, j'avais appelé : « Albertine », croyant que mon amie défunte était couchée auprès de moi, comme elle faisait souvent le soir, et que nous nous endormions ensemble, comptant, au réveil, sur le temps qu'il faudrait à Françoise avant d'arriver, pour qu'Albertine pût sans imprudence tirer la sonnette que je ne trouvais pas.  (プルースト『見出された時』)




深い自己省察をした者たちの世界はあのように繋がっているのである。

ニーチェによって獲得された自己省察(内観 Introspektion)の度合いは、いまだかつて誰によっても獲得されていない。今後もおそらく誰にも再び到達され得ないだろう。Eine solche Introspektion wie bei Nietzsche wurde bei keinem Menschen vorher erreicht und dürfte wahrscheinlich auch nicht mehr erreicht werden."  (フロイト、於ウィーン精神分析協会会議 1908 Wiener Psychoanalytischen Vereinigung

ニーチェは、精神分析が苦労の末に辿り着いた結論に驚くほど似た予見や洞察をしばしば語っている。Nietzsche, […] dessen Ahnungen und Einsichten sich oft in der erstaunlichsten Weise mit den mühsamen Ergebnissen der Psychoanalyse decken (フロイト『自己を語る Selbstdarstellung1925年)



いまだそれに気づいていない残余の者どもになんのかかわりがあろうか?



この書物はごく少数の人たちのものである。おそらく彼らのうちのただひとりすらまだ生きてはいないであろう。それは、私のツァラトゥストラを理解する人たちであるかもしれない。今日すでに聞く耳をもっている者どもと、どうした私がおのれを取りちがえるはずがあろうか? ――やっと明後日が私のものである。父亡きのちに産みおとされる者もいく人かはいる。


人が私を理解し、しかも必然性をもって理解する諸条件、――私はそれを知りすぎるほどしっている。人は、私の真剣さに、私の激情にだけでも耐えるために、精神的な事柄において冷酷なまでに正直でなければならない。人は、山頂で生活することに、――政治や民族的我欲の憐れむべき当今の饒舌を、おのれの足下にながめることに、熟達していなければならない。人は無関心となってしまっていなければならない、はたして真理は有用であるのか、はたして真理は誰かに宿業となるのかとけっして問うてはならない・・・今日誰ひとりとしてそれへの気力をもちあわせていない問いに対する強さからの偏愛、禁ぜられたものへの気力、迷宮へと予定されている運命[die Vorherbestimmung zum Labyrinth]、七つの孤独からの或る体験。新しい音楽を聞きわける新しい耳、最遠方をも見うる新しい眼。これまで沈黙しつづけてきた真理に対する一つの新しい良心。そして大規模な経済への意志、すなわち、この意志の力を、この意志の感激を手もとに保有しておくということ・・・おのれに対する畏敬、おのれへの愛、おのれへの絶対的自由・・・


いざよし![Wohlan! ]このような者のみが私の読者、私の正しい読者、私の予定されている読者である。残余の者どもになんのかかわりがあろうか? [was liegt am Rest?] ――残余の者どもはたんに人類であるにすぎない。――人は人類を、力によって、魂の高さ[Höhe der Seele]によって、凌駕していなければならない、――軽蔑 Verachtung]によって・・・(ニーチェ「反キリスト」序言、1888年)