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2022年12月18日日曜日

最高の祝祭「クルシフィクス」(十字架につけられ)

 

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Bach: Mass in B minor, Crucifixus | René Jacobs



そうか、このルネ・ヤーコプスの2022年版ロ短調「クルシフィクス」(十字架につけられ)は合唱の各パートをそれぞれ独りでやっていて、これはこれでなかなか味わい深いね。彼は以前には各パートも慣例通り合唱でやっていたようだが。


パートを独唱でやったらいくらか神聖さが欠ける感がなきにしもあらずだが、最近は聖なるものの起源はエロだと達観するようになったからゼンゼン大丈夫だ。


このクルシフィクスはカンタータBWV12《泣き、歎き、憂い、怯え[Weinen Klagen Sorgen Zagen]》の二曲目の合唱の転用であり、さらにその先にはヴィヴァルディRV 675 の愛の歌« Piango, gemo, sospiro e peno»がある。


これを最初に知ったときは衝撃を受けたけどさ、ロ短調のなかでももっとも神聖な箇所としばしば言われてきた「クルシフィクス」が、愛の嘆きの歌ーーそれもどちらかというと下品とされるヴィヴァルディなんて、と。私は高校時代、バッハに狂っていて、ヴィヴァルディどころかベートーヴェンやらショパンやらと言っている連中を「おい、そんな下品な音楽聴いてばかりでどうするんだ」とか言っていた口だからなおさらだ。



しかし10代のときは聖なる芸術に実に憧れたね、もはやああいった時期は二度と訪れない。

芸術や美へのあこがれは、性欲動の歓喜の間接的なあこがれである[Das Verlangen nach Kunst und Schönheit ist ein indirektes Verlangen nach den Entzückungen des Geschlechtstriebes ](ニーチェ遺稿、1882 - Frühjahr 1887 )

すべての美は生殖を刺激する、ーーこれこそが、最も官能的なものから最も精神的なものにいたるまで、美の作用の特質である[daß alle Schönheit zur Zeugung reize - daß dies gerade das proprium ihrer Wirkung sei, vom Sinnlichsten bis hinauf ins Geistigste... ](ニーチェ「或る反時代的人間の遊撃」22節『偶像の黄昏』1888年)



もちろんエロス欲動は死ぬまで消えないけどさ、

こう言うと奇妙にきこえるかもしれないが、性欲動の本性そのもののなかに、その完全な満足達成を阻もうとするような何かがふくまれている、と私は考えている。

Ich glaube, man müßte sich, so befremdend es auch klingt, mit der Möglichkeit beschäftigen, daß etwas in der Natur des Sexualtriebes selbst dem Zustandekommen der vollen Befriedigung nicht günstig ist. (フロイト『性愛生活が誰からも貶められることについて』1912年)



完全な満足ってのは死だからな。


これまでのところ、人間の最高の祝祭は生殖と死であるに違いない[So weit soll es kommen, daß die obersten Feste des Menschen die Zeugung und der Tod sind!  ](ニーチェ遺稿137番、1882 - Frühjahr 1887)



愛への意志、それは死をも意志することである[ Wille zur Liebe: das ist, willig auch sein zum Tode]。おまえたち臆病者に、わたしはそう告げる[Also rede ich zu euch Feiglingen! ](ニーチェ『ツァラトゥストラ』  第2部「無垢な認識」1884年)

死は愛である [la mort, c'est l'amour.](Lacan, L'Étourdit  E475, 1970)

タナトスの形式の下でのエロス [Eρως [Éros]…sous  la forme du Θάνατος [Tanathos] ](Lacan, S20, 20 Février 1973)


リビドーは愛の欲動である[Libido est Liebestriebe](フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年、摘要)

リビドーはそれ自体、死の欲動である[La libido est comme telle pulsion de mort](J.-A. Miller,  LES DIVINS DÉTAILS, 3 mai 1989)

ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である[Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)

死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない[le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance] (Lacan , S17, 26 Novembre 1969)


享楽=愛の欲動=死の欲動とは、事実上、ニーチェに既にあるんだ。最近はマタイやロ短調を聴いてたってそれを感じることシキリだよ


マタイなら、とくに最近のラファエル・ピション組の若いイキのいい連中が歌ってくれるとなおさらだね。


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J.S. Bach, Matthäus-Passion | Pygmalion, Raphaël Pichon




ルネ・ヤーコプスは2022年版ロ短調「サンクトクス」をすごいテンポでやってんだが、これまたひどくエロイんだよな、


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Bach: Mass in B minor, Sanctus | René Jacobs



まだシモーヌみたいな女はいないみたいだけどな、そのうち出てくるよ、マタイやロ短調を歌うシモーヌが。



恐ろしく暑い日だった。シモーヌはお皿を小さな床几の上に据えると、私の真正面に陣取った。私の顔をまともに見つめながら、徐々に彼女はしゃがみ込むのだった、ほてった臀を冷たいミルクの中に浸すさまはスカートのかげになって私には見えなかったが。こちらは頭に血がのぼり、身をわななかせながら、 彼女の前に立ちつくしていた。いっぽう彼女は私の硬直した竿が半ズボンを突っ張らせるのを見つめたいた。そこで私は彼女の足もとに腹ばいになった、が彼女のほうは身じろぎもしなかった。こうしてはじめて私は、白いミルクの中で冷やされた彼女の < ピンク色と黒色の肉体 chair rosé et noire > を目にしたのである。どちらも同じように興奮し、私たちはいつまでも身じろぎもせずにとどまっていた。 


突然、彼女は立ち上がった。ミルクが腿をつたって靴下にまで垂れるのがみえた。私の頭上に突っ立ったまま彼女は、小さな床几に片足を掛け、濡れたハンカチで丹念に拭き取るのだった、そして私のほうは床の上で身もだえしながらズボンごしに自分の竿を夢中でしごきまくるのだった。こうして私たちはほとんど同時に享楽=イクこと[ arrivâmes à la jouissance]に成功したのだ、お互いに一指も触れ合うことなく。

Elle se leva soudain : le lait coula jusqu’à ses bas sur les cuisses. Elle s’essuya avec son mouchoir, debout par-dessus ma tête, un pied sur le petit banc. Je me frottais la verge en m’agitant sur le sol. Nous arrivâmes à la jouissance au même instant, sans nous être touchés l’un l’autre.


自慰を繰り返したくて矢も盾もたまらず、家へ駆け戻った。 そして、あくる日の午後は、眼のふちにひどい隈をこさえていた。 シモーヌは私の顔をまじまじと見つめ、突然私の肩に顔を埋めると、 真剣な口調でこう言うのだった。 「あたしをおいてきぼりにして独りで済ましちゃいや[Je ne veux plus que tu te branles sans moi.]」 (バタイユ『眼球譚』1928年)




そうそう、みんなでイカナクチャ。このピションのモテットBWV 230 なんてピッタリだね、乱交パーティ向けに。


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J.S. Bach: Lobet den Herrn, alle Heiden BWV 230 | Pygmalion, Raphaël Pichon